内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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煙草の味が戻ってきた。「その日の体調は朝一服のタバコの味で分かる」という愛煙家の通説はどうやら本当のようだ。私の場合、朝食後のパイプ煙草の数呼吸で、自分の体調が本来のものか否かが大体分かる。
健康のバロメーターが、「百害あって一利なし」などと遠い昔デート中の彼女に言わしめ、近頃日増しに風当たりの強い煙草だなんて、なんと逆説的な事実だろう・・・と笑いたくなるが、私はタバコに一利もないとはツユほども思っていない。
ある日、マーク・トウェインを読んでいたら、”To cease smoking is the easiest thing I ever did. I ought to know because I've done it a thousand times.” 「タバコを止めるなんてこれまで私がしたことで最も簡単なことだ。そんなこと充分わかってるはずだ、1000回も止めたんだから」・・・という一文に当たって腹を抱えそうになったことがある。
私も過去何度か止めたことがあって、20年ほど前の最後の禁煙は半年間も続いた。しかし、空関係の大会で立山連山に1週間キャンプ生活をすることになった時、雨続きの退屈さに負けて「ちょっとだけ一服^^;」・・・これでもとの木阿弥。同じものに手を出すのはあんまりシャクなものだから、紙巻からパイプに切り替えることにした。紙巻と違ってパイプ煙草には幾つもの「利点」があるので、気が向いた時にまた触れる。
なんでこんなことを書くことになったか・・・この数日の静かな「もの読み」でバートランド・ラッセルに浸っていたら、なんと彼も相当なパイプスモーカーであることを知ったからだ。日本屈指のラッセル研究家である三浦先生のHPで見つけた、これも思わずニンマリしてしまったラッセルのインタビュー動画。70年以上もパイプ煙草を愛し97歳まで活動した彼は、煙草から一利を得るどころか生命を救われているのである^^。この敬愛すべき巨人については、これからここにも時々登場することになるだろう。
冬至もとうに過ぎて日に日に日が長くなってきている。しかしまだ北寄りの風は冷たい。午前中あれこれとデスクワークをしていたら、あっという間に昼が過ぎ午後も3時になってしまった。ちょいと塩屋の様子を見ると、そこそこ吹いている。よし、少し体を動かしてこよう。
どうやら出遅れたようで、冷たい北西風は大きな波長で呼吸し始めていた。15㎡で少しは水に浸かったがアビームさえ取りがたい。後はトーイング・システムの調整などしながら体を温めているうちに、お日様は西に傾き今日も見事な夕焼け空に変わっていった。ずいぶん昔からそうなのだが、海でも山でも空でも、一人静かにこの種の空気の中にいると、たいがいアホな私もいくらか思索的になる。
美しく海に沈む夕日を眺めながら、「そうか・・・縄文人はみな芸術家だったんだ!」などと思い、画家の熊谷守一が出会ったアイヌ人の話を思い出した。熊谷は美術学校(今の東京芸大)を首席で卒業し将来を嘱望されながら、農商務省の調査団に加わって樺太に渡っている。現地でアイヌを知るわけだが、大好きになったアイヌの人たちについてこんなことを書いている。
「彼らは漁師といっても、その日一日分の自分たちと犬の食べる量がとれると、それでやめてしまいます。とった魚は砂浜に投げ出しておいて、あとはひざ小僧をかかえて一列に並んで海の方をぼんやりながめています。なにをするでもなく、みんながみんな、ただぼんやりして海の方をながめている。魚は波打ちぎわに無造作に置いたままで波にさらわれはしないかと、こちらが心配になるくらいです」
「ずいぶん年をとったアイヌが二人、小舟をこいでいる情景を見たときは、ああいい風景だなとつくづく感心しました。背中をかがめて、ゆっくりゆっくり舟をこいでいる。世の中に神様というものがいるとすれば、あんな姿をしているのだな、と思って見とれたことでした。私は、そのころも今も、あごをつき出してそっくり返る姿勢はどうも好きになれない。反対に、老アイヌのああいう姿は、いくら見てもあきません」
熊谷の絵は、時に抽象画の極致のように見え、事物の本質を直裁に描いたものに違いない・・・とは感じるが、私にはまだ良く分からない。ただ、彼が残した言葉には大きく頷(うな)ずく。その風貌はほとんど仙人で、こんなに神々しい老人の顔も珍しいと思う。彼もやはり縄文気質を強く持った人間だったのかもしれない。
「学校の先生はしょっちゅう偉くなれ、偉くなれと言っていました。しかし私は人を押しのけて前に出るのが大嫌いでした。人と比べて、それよりも前の方に出ようというのがイヤなのです。偉くなれ、偉くなれと言っても、みんなが偉くなってしまったらどうするんだ、と子供心に思ったものです」
「川には川にあった生き物が住む。上流には上流の下流には下流の生き物がいる。・・・自分自身を失っては何にもなりません。自分にできないことを世の中にあわせたってどうしようもない。川に落ちて流されるのと同じ事で何にもならない」
昨夜、寛平さんが出発点に帰ってきた。約2年の時間をかけて、東回りに地球を一周。41000kmの移動手段に自分の脚と自然の風しか使っていない。これは全くスゴイことだと思う。ひょっとすると、人類史上、前例のない出来事ではないか・・・再度、絶賛の拍手を送る。
例のごとく、テレビ業界の演出過剰にはウンザリするところもあり、「時流に乗って善しとする」関係者の皆さんの姿勢も少々鼻に付いたが、そんなことは彼にとってはとうに承知済みのことに違いなく、彼自身が「自分の本当にやりたいことを正直にやり切った」という事実は動かない。
時々見せる「感極まる」という彼の表情を見ながら、私も何度も感極まってしまった。そして、彼が繰り返し口にしていた言葉が、「ありがとう」だった。2年前の出発時にも「ありがとう」と言い、旅の途中でも、この言葉を使い続けていた。
最も美しい日本語は何か?・・・と問われたら、私は迷わず「ありがとう」の一言を挙げる。その語源は「ある」+「かたい」ということで、漢字を当てはめると「有り難い」となるが、「ある」も「かたい」も和語として古来からこの国で大切に伝承されてきた言葉だ。もちろん、ある出来事を稀(まれ)で貴重なものととらえて感謝の気持ちを現すときに使う。
そして、人生たいがいの場合、この「ありがたい」の心持ちを忘れなければ、人は幸せである・・・というのは、私の経験則でもある。
ここで話は少し跳躍するが、あらゆる科学や学問と呼ばれるものは、まず「何故(なぜ)?」と問うて、さまざまな現象(結果)の原因を追求する。言い換えれば、森羅万象の必然性を明らかにしようとする。ある出来事はある原因と過程とによって当然そう成るのである。当然生起するできごとは、当たり前のことだから、それらを「稀(まれ)で貴重な・・・」ととらえることは難しくなる・・・ということにならないだろうか。
ときどき考えてみる「アホがなんでこんなに魅力的なのか」への答えの片鱗が、どうやらこの辺りにあるのではないか・・・と、ちょっと思いついた、明るい冬の朝である。
最近、PCの調子がおかしい、原因はどうもハードディスクにあるようだ・・・という話をこないだ書きました。
そして何というタイミングか・・・今朝、いつものようにPCを起動したら、今まで見たことのないライトブルーの画面が現れて、なんとPCが「自分で」ハードディスクのチェックと修復を始めました。これには驚いた。
これが、CHKDSK「チェック・ディスク」という、WINDOWSに元から備わっている機能だということは後で分かったこと。私はまったく知りませんでした。最近のPC(といっても年代ものですが)は、自己管理のみならず自己修復までするのです!
修復が終わった老齢PCは、その後きわめて順調で、モニターに何も現れなくなる症状を示していたスリープモードからの起動も正常に復しました。これでまだ当分は頑張ってくれるでしょう。「ありがたい」の一言です。
実は、4年ほど前にノートパソコンのハードクラッシュを経験した時は、結局ハードディスクの換装をするしかなかったので、今回もすでに覚悟を決めたところで、つい昨日、同じマウスコンピューター社にデスクトップ本体の注文を入れたところでした。ハードディスクの修理代金と最新型PCの本体価格に大差がない時代になったということです。
もうじき届く新しいPCはCPUにしてもメモリにしても格段に高性能なので、いずれ臨終を迎えるであろうこのPCに代わってメインマシンになり、長いあいだ付き合ってくれたこのPCはサブマシンとしてバックアップの裏方を務めることになるでしょう。
以下、過去の関連記事を転記。
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「ウィンドウズ95が出てすでに12年、干支が一回りしたわけだが、この間のインターネットやパソコンの技術革新は目まぐるしかった。ほとんど驚異的と言ってよい。私が手にしたWin95最初のPCは14インチモニター一体型のNECキャンビーだった。(当時25万円、今これだけ使えばかなりの性能のデスクトップが3台は買える。)Win3.1に比べると格段に扱いやすいOSになって、随分多くの時間をワクワクしながら、時にはノイローゼになりそうなくらい熱心にこの世界との付き合いを始めた。
ちょっと振り返ってみると、私のパソコンの原点は25年前のまだマイコンと呼んでいた頃のシャープMZ7000だ。これを安月給をはたいて購入したときの嬉しさは格別だった。モニターは家庭用のテレビ、プログラムはBASICをカセットテープで小さなメモリに何分もかけて読み込ませてから更にゲームソフトのテープを読ませる。それでやっと『スタートレック』などのアドベンチャーゲームみたいなものが楽しめる・・・というもので、ともかくゲームがしたくて始めたようなものだった。
そして、このBASIC言語を何日もかけて組んでやっと完成させ大喜びしたのが単純なピンポンゲームだった。これで充分感動できた時代だ。このゲーム熱も数年後にファミコンなる万能ゲーム機が出て一挙に冷めてしまうことになる。
12年前のネット環境は今から考えるとバカ高い料金の従量制で、ピーヒョロと鳴く14.4Kbpsのモデムで、常に時間を気にしながら100kb程度の(楽しい)画像を落とすのに何十分もじっと待っていたこともあった。これが今や100Mbpsの時代だ。ざっと1000倍の速度!
HPを中心とするネット上の情報の総量も圧倒的に少なかったけれども、英語サイトの文書類にはかなり使えるものがあった。すごい時代になったな!これからもっとすごいことになるだろうなー・・・と考えていた。そして、その通りになった。PCのCPUやハードなどはもう言葉にもならないくらい大変なもので、私の想像をはるかに超えていた。メガバイトの単位のハードディスクの容量がギガバイトになったのだから、これも単純に1000倍進歩したということになる。10年ちょっとで1000倍に変化するものなんて、第一次世界大戦後のドイツを除いては、終戦直後の日本の物価くらいのものだろう。
人間の環境適応能力は全ての動物に優れる・・・という人がいる。私もある程度はこの説に賛同するが、しかし、どんどん前に進むだけが人間の幸せでないことも良く知っている。つまり、日の当たる進歩の裏にはおそらく同程度の退歩の影がくっ付いているという見方をする。長い目で見た場合、その退歩・後退が人類の存続にとって決定的な負荷になり、取り返しの付かないものにならないことを、とりあえず今は願うよりないのかもしれない。 」
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