内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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私にとって、政治の世界に関わるモノゴトの多くは、アホらしくてなかなか話題にする気にならない。それは何故か・・・。そこに「権力欲」というアホらしくもやっかいな人間的宿業が付いてまわるからだ。
例えば、近頃巷間(こうかん)はやりの「尖閣問題」・・・これは深刻な国際的・政治問題だと思われがちだが、そんなことはない。少し乱暴な言い方をすれば、ヤクザの類(たぐい)の単なる縄張り争いの延長に過ぎない。
自然本来、誰のものでもないものを、日本は日本のモノだと言う。中国は中国のモノだと言う。台湾は台湾のモノだと言う。それぞれが勝手な権力主義的我欲を恥ずかしげもなく披露しているにすぎない。
本物のヤクザは、深遠なる「仁義」という、カタギの方々も見習うべき倫理規範の一分(いちぶん)を心得ているものだが、現在の政治家にそんな奇特な徳をそなえた人物など、まずはいない。
国際問題とは国家と国家の際(きわ)で発生するモメゴトを契機(けいき)とする。しかし、そもそも、その国家とは「領土と国民と主権の3要素で成立する」・・・なんて勝手なことを決めたのは一体誰だ? どんな賢明な存在がどんな深遠な知恵を持って決定したのか? 多くの法律家は「そんなことは常識中の常識ではないか」・・・と、それぞれの用語についてもっともらしい解説を始めるだろう。
しかし、ニーチェのような天才狂的哲人はおいといて、この問題に、絶対の自信を持って間違いなく答えられる人は、この人間世界にはたぶん一人もいない。人間は全知全能の神ではなく、かけがえの無い地球上の生命(いのち)たちは人間だけではないのだから。
それではどうすればいいのか?・・・結局は、一人ひとりの人間がもっと心を開いて、日常的には当たり前の「思いやり」の心を、より賢明に応用すればいいだけの話だろう。とりあえず、日本の漁師と中国の漁師が、一晩でいい、同舟(どうしゅう)の仲になったら、少なくとも漁業権問題はたちまち解決する・・・楽観に過ぎるだろうか?
いくらかやっかいなのは、(悪しき)商業主義と直結した鉱物資源の問題。しかし、通常、強欲を善しとする大資本家たちが、「知足・足ることを知る」という、何千年も前から聞かされている教えを素直に実行して、はるか多くの人々に範を示せば、やがては解決する。かなり見通しの暗い希望ではあるが・・・。
そういえば、昔、台湾の高等専門学校(15~20歳)の社会科の授業に招かれた際、賢(かしこ)そうな一人の生徒から、まさに「尖閣諸島はどこの領土だと思うか?」・・・という真面目な質問を受けたことがある。大陸中国との関係で、かの国はまだ臨戦状態にあり、一般道を平気で戦車が走っていた。
私は少々面食らいながら、「とりあえず国連に解決をゆだねるのが最良の方法だと思う」と答えた。もっとハッキリした反応を期待していただろうその青年生徒は、ちょっと複雑な失望の色を顔に浮かべた。現在のところ、国際連合に大きな力はない。しかし、私は、その可能性に少なからぬ希望を抱き続ける。
とにもかくにも、日本でも中国でも台湾でもどこでも、モノゴトを合理的に考えることのできる普通の人たちは、愚劣の先端を走る政府や政治家の喧伝(けんでん)に、簡単には騙(だま)されてはいけない。
自分自身の頭で考えることは時にメンドクサイもので、だまされ続ける方が楽な場合も多のだろうが、その種の楽は、次に来る更に大きな苦しみの原因になる・・・と悟っておいた方が無難だろう。この国でもあの国でも、ほんの70年ほどの前の歴史が証明する通り。
かくして、アホな話題にここで言及するのは、結局、この酔人もアホの一類だからである。
昨日、「昼寝の夢」からの連想に浸っていたせいか、昨夜、何年かぶりにT君の鮮明な夢を見た。
学生時代のあの姿のままで私の左側に立ち、右手には分厚い辞書風の書物を抱えている。研究社の英和中辞典の5倍の厚さくらいはある。彼が自分で作った暗記用英語辞書で、中身はすべで手書きの小さな文字でびっしり埋まっている。
「これは・・・大変だったでしょう?」私が聞いても、彼は爽やかに微笑むばかり。「どれくらい時間かかった?」と更に聞くと、「何年かなぁ・・・これで辞書に出ている程度の単語は全て身に付いたよ」と当たり前のように言う。私は嬉しいばかりで、彼がそれ以上何も語らなくてもそのまま一緒にいたいと思っていた。
しかし、じきに続いて「努力はね、誰も見てないところでするものだよ」・・・と言い残して背後の闇に消えていった。
夢のほとんどは間もなく輪郭を失い忘れ去ることが多い。とりあえず鮮明なうちに書き留めておく。
すでに春眠の季節はとうに過ぎ初夏の陽気であるにもかかわらず、近頃、昼飯を終えてしばらくすると眠たくて仕方がなくなる。風模様が良いときは海に出て眠たいなんて言ってられなくなるのだが、たいがいは睡魔に負けてベッドにゴロリひと眠りということになる。
今日の昼寝では、暖かい夏の海で気持ち良く泳いでいる夢を見た。パンツ一つで海を漂うにはまだちと時期が早いのになぁ・・・などと思いながらユラユラと海水の揺らぎに身を任せているのはまことに気持ちの良いもので、やっぱりオレには南方系の民族の血液が流れているのだ・・・なんてことも考えていた。
母から聞いた話では、私は満一歳を過ぎた頃から生家の前の海で泳いでいたそうだ。海に入ると簡単には帰ってこない。ある日などは、あんまり帰りが遅いので探し回ったら、港に舫(もや)った漁船の裏側につかまって一人で「かくれんぼ」をしていた・・・などということもあったらしい。
こんな子供は昔の漁村ではそう珍しくもなかったに違いない。村の小学生にとって年間最大の楽しみは、夏休みの海水浴の時間だった。唇が紫になるほど身体が冷え切るまで泳いだり潜ったりした後、太陽光で暖めた水を満たしたタライで身体を洗い温める。
その後10円持って近くの駄菓子屋に出かける。その10円アンパンの旨いことこの上なく、店に至る小道のそばでは大きなヒマワリが湧き立つような輝きで花を並べていたこと・・・等などは、今でも鮮明な記憶の範囲にある。
自分も周囲のあれこれも、全てが生命(いのち)の喜びで満たされている。これが子供の世界であり、自然の世界であり、あらゆる生き物たちの本来の姿なのだ・・・という直感は、私の場合、夢や記憶の中だけでなく極めて現実的な、しかし、ややもすると忘れがちな感慨である。
ジャンプを漢字にすると跳躍となるが、跳躍とは「跳び上がる」ことで「跳び下りる」という意味を含まない。カイトサーフィンのジャンプも、カイトの揚力や波の斜面やラインの張力を使って海面から空中に跳び上がるという動作で、着水に失敗して落ちるということはあっても、跳び下りるという感覚も意味合いもない。
しかし、ジャンプの原義には「跳び上がる」と「跳び下りる」双方の意味があり、後者のジャンプは、航空の先史から現代の様々なジャンプスポーツに至るまで非常に長い歴史を持っている。それはまたカイト(凧)と並んで、空を飛ぶことの出発点としても欠かすことのできない二つの要素であった。
紀元前2200年の昔、舜帝(※しゅんてい)は巨大な麦わら帽子2個の助けを借りて炎上する塔から脱出し、領地の上空を飛んだという。ただ、麦わら帽子は私もよくかぶるし大きいものは1m近くもある。だが、こんなものをいくら集めてもパラシュートの用は成さないだろうから、これは神話・伝説の域を超えない。
しかし、852年、スペインのアーメン・ファーマンが巨大な外套を着て高い塔から跳んで大怪我をしたという話は本当だろうし、その後多くの“勇気ある向こう見ず”が、両腕に様々な素材でできた羽のようなものを付けて高い所から跳んだことも事実だろう。
かく言う私も、小さい頃にこの種のジャンプを試みた一人だ。私の生家は小さな漁村にあり、目の前がすぐ砂浜になっていた。現在のように冷凍技術が進んでいなかったので、漁師たちが獲ってきた魚は市場に出す前に海中に浮かべた直方体の“生けす”に入れておく。私たちはこれを“ダンベ”と呼び、用済みのダンベは無造作に浜に並べてあった。これが結構大きなもので、横に立てると4mほどの高さになる。
この上から傘をさして跳ぶのである。下は砂浜だから怪我をすることはない。随分長い間飽きることもなく、このダンベからの傘さしジャンプで遊んだものだが、結局この程度のパラシュートでは落下速度はほとんど減衰されないということがよく分かった。
さて、1797年、史上初と記録に残るフランスのガーネリンのジャンプはもちろんこんな遊びではない。水素気球で一気に2000mまで上がり、そこからバスケットごと落下するというものだ。
その名も「大きな傘」。ベントホールが無いので乱流でキャノピーはかなり暴れまわったらしい。しかし、出発地点から1km足らずの地点に無事着地したというから凄い。とんでもない勇気と幸運だ。
しかし、私の興味はそれだけではない。フランス軍に従軍する前に物理学を学んだ彼がパラシュートジャンプに情熱を注ぐようになった切っ掛けが「フランス革命」にあり、敵軍の捕虜になって3年間捕らわれていたハンガリーの牢獄から脱出するために、その構想に没頭したという事実である。これは、ミノス王の追っ手から逃れるために、クレタ島の断崖から飛んだというダエダロス・イカロスの伝説に通じるものがあるだろう。
地上は王の領地つまり隷従を強いる領域、大空は神の世界つまり自由の領域・・・という考え方が、長い歴史を通じて人間の心理の深層に横たわっていることは否定できないように思える。
※舜帝(しゅんてい・中国古代の伝説上の聖天子。尭(ぎょう)と並称して「尭舜(ぎょうしゅん)」という)
※すでに50年以上前の1960年、米国空軍のジョゼフ・キッティンジャーがヘリウム気球で高度31330mまで上昇した後ジャンプし、5分近く落下(最大速度は時速988 km、毎秒274 m)したという記録もある。
道中のサービスエリアで休み休み移動しながら6時間。山陰地方最初の町は境港(さかいみなと)だった。北に半島、南に中海、東に弓ヶ浜という長大な砂浜をひかえるこの田舎町には「水木しげるロード」なるものがあり、家内はぜひ見ておきたいと言う。私も同様。(写真・商店街の裏口→)
『ゲゲゲの鬼太郎』のファンなら大概そうだろう。私にとっても水木しげるは、漫画家という肩書き以上の存在だ。おそらく日本よりも海外で評価の高い博物学者・南方熊楠を私は天才的大学者だと思っているのだが、水木も彼が好きで、その伝記を水木流にマンガ化した『猫楠(ねこぐす)』という本を書いている。このマンガ単行本は和歌山の南方熊楠記念館にもあって、私はこの春の紀州旅行の際にここで手に入れた。
水木は典型的な「劣等生」や「おちこぼれ」の半生を経て漫画家になった。幼い頃から神童と呼ばれ、今でこそエコロジーの元祖と言われる熊楠も、晩年を迎えるまで高く評価されることはなかった。性格も分野も生き方も大きく異なる二人だが、遅くまで時代・社会に認められなかったという点で共通している。
しかしもちろん、水木が熊楠に魅かれる理由はそんなことではない。この辺のあれこれについて、私はいろいろと想いを巡らせるが今は頭が熱い。ちょっと面倒くさい話になりそうなのでまた気が向いたときに書く。
境港はとても細長い港町だった。水産庁の調査船や大型のイカ釣り船が全て横付けで着岸している。すぐ奥に続く小ぢんまりした商店街は、おどろくほど多くの観光客で活気があった。もし妖怪たちが登場しなければ、全国に広がる寂(さび)れたシャッター通りの一つになっていても不思議ではない。
境港から米子まで続く弓ヶ浜は並行して走る道路から眺めたに過ぎないが、素晴らしく長く美しい砂浜であることはよく分かった、もし、翌日が東寄りの風だったら、この浜で存分に風に吹かれていたことだろう。
米子で一泊したホテルのサービスは満足以上のものがあった。過去の旅で、あれもこれもと欲張りすぎた失敗を踏まえて、今回は米子周辺から大きく動かない。境港の見物で主目的は達成している。翌日はノンビリ過ごして帰るのみ。一応、近くのカイトエリアもネットでチェックし、良い風に吹かれて後悔しないようにと跳び道具もワンセット持参している。
結果・・・何も後悔することはなかった。昼前に到着した安木の河口エリアには、カイトやウィンドが30人ほどは集まった。香川のYさんに会ってビックリ喜び、F君を知る広島のカイトボーダーともお話できた。やがて西風7m前後で安定。15㎡で跳ぶにはちょうど良いコンディション。地図で読んだとおり素晴らしいエリアだ。多くの風は東西方向に吹きぬけるのだろう。中海に向かって伸びる小さな砂州周辺にはフラット水面があちこちにある。海水かと思っていたら淡水に近い汽水だった。
今回のプチ旅行ほど予定通りに事が運んだ旅も少ない。ただ、一泊旅行で往復12時間の高速移動は少々キツかった。高速道路はまちがいなく便利で効率的、そして、それだけのものだ。 旅の妙味はたぶん便利や効率の対極辺りにある。
昨日、いくぶん面倒くさいこと考えていたら、ふたたび、若くして逝ったT君のことを思い出した。青春時代の彼は、私が還暦に近くなっても、二十歳過ぎの、あの同じ姿で現れる。有り難くもあり、悲しくもある。
彼が私に与えた影響はほとんど計り知れないものがあり、彼が静かな口調で語った言葉の断片は、ことあるごとに私の脳裏に蘇る。その一つが「他人(ひと)の身になって考えろ」ということだった。
つまりは「思いやりの心を持て」ということだ。これは西洋風にいうと「愛」であり、仏教的「慈悲」を和風に言い換えたものに他ならない。
こんな、ある意味深遠な教えを、わずか10代の若者が真顔で語り、実際その指針にマジメに従って生きていたことを、私はよく知っている。T君とはそういう男だった。
そして、それは昨日書いた世界宗教の「黄金律」そのものでもある。「人を思いやってその身になる」とは、愛や慈悲の発露そのもので、キリストと孔子は、まったく同じことを反対側から表現したにすぎない。
ただ、その中に釈尊の言葉が入っていないのは、彼の慈悲が人間に限らず全ての「生命」に向けられていたからで、もし彼が同様のことを言ったとしたら、「自分がしてもらいたくないことは、全ての生き物たちに対してもしてはいけない」となったに違いない。まあ、初期経典の中には似たような言葉がたくさん出てくるのではあるが・・・。
私は自分のことを相当に頑固な合理主義者だと思うことが多い。しかし、自然の世界と長いこと付き合っていると、この広大な世界の中で、小さな自分の理性の及ぶ範囲などはたかが知れているという、当たり前の事実に感動したりもするのである。
たぶん、つづく・・・。
信の世界を追求すると、どんな経路を通ったにしても、つまりは宗教の世界に至る。どんな原理でも主義でも、それを信仰の対象にすると、実証可能な合理性から遠ざかり、まずは信じることを強調する宗教の装いに変容する。
人は同時に2つの道を歩むことはできないから、一つの信念なり信仰なりを貫こうとすれば、他の道の路傍に咲く花を楽しむことが難しくなるのも道理だろう。
しかし、人間が何かを信じることなしに生きることができない存在である以上 なんらかの「信仰対象」を求めるのも、きわめて自然な心情の発露だ。
そして、私の拙い観察では、世界三大宗教といわれるキリスト教やイスラム教や仏教での原初の内容は、大方(おおかた)において、合理的で実用的であるという点でよく似ている。
キリスト教とイスラム教はもともと同じ一つの神の啓示から出発しているが、仏教では呆れるくらい多くの神や如来が登場する。儒教の始祖・孔子は仏教の始祖・釈尊より百年ほど前の人物で、これがまた興味深いことに、その教えの本質的な部分において、キリストやムハマンド(モハメット)などと同じようなことを言っている。
その一つは、いわゆる「黄金律」と呼ばれるもので、内容は以下の通り。
イエス・キリスト:「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイによる福音書7章12節)
孔子:「己の欲せざるところ、他に施すことなかれ」(論語 巻第八衛霊公第十五 二十四)
ユダヤ教:「あなたにとって好ましくないことをあなたの隣人に対してするな。」(ダビデの末裔を称したファリサイ派のラビ、ヒルレルの言葉)、「自分が嫌なことは、ほかのだれにもしてはならない」(トビト記4章15節)
ヒンドゥー教:「人が他人からしてもらいたくないと思ういかなることも他人にしてはいけない」(『マハーバーラタ』5:15:17)
イスラム教:「自分が人から危害を受けたくなければ、誰にも危害を加えないことである。」(ムハンマドの遺言)
前置きがずいぶん長くなった。すでに蛇足になるような様な気もするけど、5年ほど前に、私は次のような一文を書いている。
「私が、あえて言葉にすると“宗教”というものを、どうしようもなく必要とした時は、野外に出て星を描く」
-ゴッホ
When I have a terrible need of - shall I say the word - religion. Then I go out and paint the stars.
-Vincent Van Gogh
狂気の画家と言われるゴッホの言葉だ。
あらゆる自然の生きものは「信じる」ことによって存在し活動している。樹木は大地を信じ、魚は海洋を信じ、鳥は大空を信じ、子供は親を信じることで、自ずと成長しその分に応じて、この世界での使命をはたすことができる。
この場合「使命」とは文字通り「命を使う」ことであり「生きること」と同義だ。日々大自然の恵みと厳しさの中で生き死にする彼らの世界に、疑いや不信の入り込む隙間はないはずだ。
さて、元々は自然的存在である人間の世界はどうであろうか。人間の作った社会や国家はどうであろうか。あらゆる自然存在が相互信頼の上に成り立っているのに比べて、あまりに嘘やまやかしが多すぎはしないか。それに従って、疑いや不信という伸びやかな成長にとっては阻害要因ともなる不幸が多すぎはしないか。
西洋近代は神に対する疑いと人間理性に対する信頼から始まったとされるが、日本の近代は堕落した仏教を中心とする宗教界への疑いと明治政府が持ち上げた神道への信頼から始まったと言えるのかもしれない。何を疑い何を信じるかによって個人や集団の命運が決まっていくのも当然だろう。
いずれにしても、どこまで行っても大自然の一部である人間が、まっとうに存在を続け成長していくためには、信じるに値する何かが不可欠で、人並み外れて感受性の優れた芸術家が、嘘まやかしだらけの人間社会や神の世界に愛想をつかして、天空の星々に祈りをささげようとしたとしても何も不思議なことではない。
ノーベル賞のホスト国であり、村上春樹のベストセラー小説の題名の一部にもなった、あの美しい森の国ノルウェーで、やりきれないテロが起きた。
32歳の極右キリスト教原理主義を信条とする男が、ほとんど10代の大勢の若者たちを、恐らく何のためらいもなく射殺した・・・ということだ。
彼(か)の国々で近年増加し続ける移民労働者が、自国民の就職状況を悪化させたり、民族の誇りを傷つけたりすることが気に入らなくて、この残忍極まりない犯行に及んだらしい。
いわゆる「何とか原理主義」・・・私の頭の中のヘッポコ辞書では、「原理」は「ある現象を成立させる基本法則」で「主義」は「好み」程度のものなのだが、「現象や法則」は自然界には満ち溢れていて、「好み」は人の数だけある。
ところが、なんとか原理主義者と呼ばれる人たちの中には、往々にして、自らが好みの原理や主義を絶対的に正しいものとし、他の原理や主義の存在を認めようとしない狭量な人間が存在する。
つまりは独善と非寛容ということなのだが、どちらも人間の幸福にとっては無用の長物であることに気が付かない人が、何ゆえに後を絶たないのか・・・すでに数千年を経る私たちの歴史に少し目を通せば、その間違いにすぐにでも気づくはずなのに・・・。
およそ、人間が創(つく)り、認識できるモノゴトの中に絶対的な何かは存在しない。
なぜなら、「あれ」の存在がなければ「これ」の存在もありえないからである。この世界の存在認識は相対化することによってのみ成立する。どんなものでも、絶対化すると、その絶対化した存在そのものが意味を失ってしまうことになる。
いちいち例を挙げるのも面倒なことだが、例えば、全てが液体でできていて気体も固体もない世界では、液体という概念(考え)自体が存在できない。液体は気体や固体が存在するからこそ、それらと相対され区別されて液体として認識されるからだ。
ガリバーは小人の世界に流れ着いて初めて大男になった。彼が絶対的な神の存在を信じていたかどうかは忘れた。しかし、神が人間を創ったのか、人間が神を創ったのか?・・・と問われれば、私は躊躇(ちゅうちょ)なく後者に一票を入れる。
そして、私は「信の世界」を決して否定しない。この「信」を巡る私の思いつきはまた後で書く。
昨夜、テレビの報道番組で最後の部分をちょっとだけ観たに過ぎないが、 瀬戸内寂聴の言葉を重く聞いた。「私は我が身を挺(てい)して原発に反対する。私たちの子孫にこんな怖いものを残してはいけない。」 もと流行作家で既に九十歳になろうとする天台尼僧の口調は静かで力強く響いた。
その他多くの原発反対者と同様、私もずいぶん以前から原発には反対の意見を持っている。とりあえずどのように「身を挺(てい)し」たら良いのかは、今のところ分からないけれども、日本でも一応「言論の自由」は保障されているので、ここでもハッキリと「原発は一刻も早く廃止すべきである」と発言しておく。
その理由についても、多くの反対者が語っているのとほぼ同じ内容なので、改めて言うまでもない。ただ、一点だけ、「それは大自然の摂理に根本的に反しているからである」ということは、軒の上に何十の軒を重ねることになっても、繰り返して強調しておきたい。
およそ、原発好きな方たちが、①「原発はいらないというが、電気が無くなってもいいのか!?」などと言う口調は、世界の人々或いはその他の全ての生き物たちの生命よりも、国家という人工制度の方が好きな人たちが、②「(憲法9条に関して)軍隊はいらないというが、他の国に攻撃された時、黙って殺されてもいいのか!?」という語り口とよく似ている。
私は、日本では自衛隊という世界有数の軍隊組織を作りあげるだけの国家的労力を、一切の敵対国を作らないことに傾注する気持ちが少しでもあれば、②のような発言はできず、同じく、大自然が潜在する実に多様なエネルギー源を利用することに少しでも関心を持てば、①のような発言も出て来るわけがないと思うのだが、どうだろう?
興味がある人は、どのような方たちが、その「国家好き」や「原発好き」か、ちょっと突っ込んで調べてみるといい。たぶんビックリするほど明瞭(めいりょう)な事実に気が付くだろう。
この数十年、ナチュラリストの一人として、じっくりと大自然の膨大かつ絶妙な力用(りきゆう)と付き合ってきて得た貴重な結論の一つは、自然と言っても、宇宙と言っても、一切法界と言ってもいいのだが、ともかく「私たち人間はそこから生まれそこに帰る存在であり、一時たりとも、その母体とも言える「大自然」から莫大な慈悲や恩恵を受けていない時はない」という事実である。
英語では、原発は原爆と同じで、頭に"NU-CLEAR"が付く。どこがクリアなの?"NO-CLEAR"にしたら・・・と、ちょっと突っ込みたくもなるが、それはともかく、この広い地球上のどの生命圏を探しても、物質の基本要素を、つまりは大自然やその中で生きる生命の根源的存在である原子を「破壊すること」で、何らかの力を引き出すなんてバカげたことをするものはいない。
人間だけが、その大恩を受け続けている自然世界に無理と不合理の限りを尽くしているとも言える。「恩を仇(あだ)で返す」という言葉があるが、原爆は言うにおよばず、原発もまた全く同様の仕方で、人間は自らを生み出し生かしている存在を裏切り続けているのではないのか。
天に向かってツバを吐くとそのまま自分に返ってくる。これは単なる諺(ことわざ)ではなく、地球の重力作用という厳然たる物理法則でもある。
また、人間や自然を慈愛する人は、いずれ人間にも自然にも慈愛されようになる。人を尊敬する人は人に尊敬される。親切にする人は親切にされる。逆に、人を恨む人は人に恨まれる。バカにする人はバカにされる。騙す人は騙される。裏切る人は裏切られる。苦しめる人は苦しめられる・・・など等の人間社会でよく見られる現象も含めて全て、単に道徳律に反するからというだけではなく、作用に必然的に伴う反作用という普遍の物理法則だからでもあろう。
これが「人倫の基本は自然界の懐(ふところ)に在り」とする私の根本的な原発反対理由である。
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