内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
昨日、「昼寝の夢」からの連想に浸っていたせいか、昨夜、何年かぶりにT君の鮮明な夢を見た。
学生時代のあの姿のままで私の左側に立ち、右手には分厚い辞書風の書物を抱えている。研究社の英和中辞典の5倍の厚さくらいはある。彼が自分で作った暗記用英語辞書で、中身はすべで手書きの小さな文字でびっしり埋まっている。
「これは・・・大変だったでしょう?」私が聞いても、彼は爽やかに微笑むばかり。「どれくらい時間かかった?」と更に聞くと、「何年かなぁ・・・これで辞書に出ている程度の単語は全て身に付いたよ」と当たり前のように言う。私は嬉しいばかりで、彼がそれ以上何も語らなくてもそのまま一緒にいたいと思っていた。
しかし、じきに続いて「努力はね、誰も見てないところでするものだよ」・・・と言い残して背後の闇に消えていった。
夢のほとんどは間もなく輪郭を失い忘れ去ることが多い。とりあえず鮮明なうちに書き留めておく。
すでに春眠の季節はとうに過ぎ初夏の陽気であるにもかかわらず、近頃、昼飯を終えてしばらくすると眠たくて仕方がなくなる。風模様が良いときは海に出て眠たいなんて言ってられなくなるのだが、たいがいは睡魔に負けてベッドにゴロリひと眠りということになる。
今日の昼寝では、暖かい夏の海で気持ち良く泳いでいる夢を見た。パンツ一つで海を漂うにはまだちと時期が早いのになぁ・・・などと思いながらユラユラと海水の揺らぎに身を任せているのはまことに気持ちの良いもので、やっぱりオレには南方系の民族の血液が流れているのだ・・・なんてことも考えていた。
母から聞いた話では、私は満一歳を過ぎた頃から生家の前の海で泳いでいたそうだ。海に入ると簡単には帰ってこない。ある日などは、あんまり帰りが遅いので探し回ったら、港に舫(もや)った漁船の裏側につかまって一人で「かくれんぼ」をしていた・・・などということもあったらしい。
こんな子供は昔の漁村ではそう珍しくもなかったに違いない。村の小学生にとって年間最大の楽しみは、夏休みの海水浴の時間だった。唇が紫になるほど身体が冷え切るまで泳いだり潜ったりした後、太陽光で暖めた水を満たしたタライで身体を洗い温める。
その後10円持って近くの駄菓子屋に出かける。その10円アンパンの旨いことこの上なく、店に至る小道のそばでは大きなヒマワリが湧き立つような輝きで花を並べていたこと・・・等などは、今でも鮮明な記憶の範囲にある。
自分も周囲のあれこれも、全てが生命(いのち)の喜びで満たされている。これが子供の世界であり、自然の世界であり、あらゆる生き物たちの本来の姿なのだ・・・という直感は、私の場合、夢や記憶の中だけでなく極めて現実的な、しかし、ややもすると忘れがちな感慨である。
Men are born ignorant, not stupid. They are made stupid by education.
- Bertrand Russell
人は無知に生まれるが、愚かに生まれるわけではない。人を愚かにするのは教育である。
- バートランド・ラッセル
Don't let schooling interfere with your education.
- Mark Twain
自らの教育を学校教育に邪魔されないようにせよ。
- マーク・トゥエイン
ラッセルもマーク・トゥエインも同じようなことを言う。その言は鋭い。たいがいの人は、教育は人間を賢明にし幸福にするために行われていると思っている。ところが、たぶん最も分かりやすい一例として、戦前日本の軍国主義教育のように、人間をほとんど限りなく愚劣にし不幸の極みに追いやるものがある。
戦後、日本も一応は民主国家の体裁を整え、個人の尊厳を根本価値とする憲法を持ち、自由や平和についても、戦前ほどバカげたことを教える教師は少なくなり、したがって、バカげた教育に苦しむ子供たちも比較的に少なくなったのだろう。しかし、戦後から現在に至る日本の教育が、必ずしも人間を賢明にし幸福にしているわけではないことも、日々世相に浮かぶ様々な現象を観れば明らなことのように思える。
そして、無知は子供に限ったことではない。どんな技芸の習得においても、初めて習う者は通常、無知から始まり、生徒役の人間は、先輩でも先生でも師匠でもインストラクターでも呼び方は何でもいいが、教師役の人間から大きな影響を受ける。彼らの個性や資質はそれぞれで、私はその多様であることを好む。
しかし、これまでの限られた観察によれば、山に高低があり海に深浅があるように、それら教師役の能力や人格にも、隠れがたい高低深浅つまり優劣があるように見える。先の優に付けば後も優に育ち、劣に付けば劣が育つのも自然な成り行きだろう。
どんな世界でもそうだが、自然を相手にする活動の一つとしての風読みスポーツにおいて、その違いがどれほど重いものであるかについては、また気の向いた時に書くとして、ただここでは、優れた教え役とはどういう人間か、についての思い付きを少し。
経験と知識が豊富なことは当然の前提として、要を取って言えば、「自分の無知や未熟をよく心得ている人物。その必然が導くところとして謙虚である人物」・・・ということになる。それは、あえて古今あちこちの先人の言葉を借りるまでもなく、ある事柄について知れば知るほど未知の領域が広がり、ある技能が上達すればするほど未達の高みが見えてくることは、事の必然だろうからである。
そして、後先(あとさき)の違いこそあれ、習う側も教える側も大差なく、更に言うと、他の動物達と同様、そもそも「人間は本来自ら学ぶもの」であって、「教える」なんてことは、せいぜい車輪の回転を助けるために車軸に油をさす程度の行為であることをよく知っているからである。
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朝の9時から堀江へ。若干冷たく東寄りのガスティも、北に振れるにつれて心地良く安定したスプリング・ブリーズとなる。今日も空は明るい。優しいIやんに見守られて、R君も着実に上達している。
期待していた北風は北西に触れて4m前後。19㎡でやっと走れるという程度の風だったが、空はライトブルーに澄み、海面も空色を映して明るく光っていた。満ち潮時ということもあったのだろう、多少の細波(さざなみ)はヒザに優しく、堀江港沖までちょっとレグを伸ばす。
こういう微妙な風と付き合うときは、ウィンドの微風レースのように無駄な動きは禁物だ。カイトも板もカッチリと位置を定め、空気にも水流にも無用な乱流を起こさないようにする。要は、静かに走る。静かに走ることに集中していると、心の中も徐々に静かに澄んでいく。もちろん、順風や強風で飛んだり跳ねたりの激しい動きをするときも、この「清澄な心」は大きな働きをする。これも風読みスポーツの醍醐味の一つだ。
We are the subjects of an experiment which is not a little interesting to me. Can we not do without the society of our gossips a little while under these circumstances...have our own thoughts to cheer us? Confusius says truly. "Virture does not remain as an abandoned orphan; it must of necessity have neighbors.
「だれでも、私が少なからず興味を抱いているある実験の被験者になることができる。こうした状況において、しばらくのあいだ、仲間や他人のうわさ話に興じるのを止め、自分自身の思想に興じよう、という実験である。孔子がいみじくも言っているではないか。「徳は孤ならず。必ず隣あり(孤独の徳を備えた人間は孤立することはない、必ず理解者や道を共にする者が現れる)と。」 実際、ソローは決して頑固な人間嫌いなどではなく、彼の掘っ立て小屋には、時に数十人の訪問客があった。また、『市民的不服従』の思想は、ガンジーのインド独立運動やキング牧師の市民権運動に影響を与え、『森の生活』は後に生まれる多くのナチュラリストを啓発した。私もその一人かもしれない。
ソローの『森の生活』を読み返していたら、いくらか唐突に論語の一節が出てきた。19世紀の彼が紀元前の人物の言行録を読んでいたとしても何も不思議なことではないが、その自然観が中国古典思想(東洋思想)にも深く影響を受けていたことをうかがわせるに充分で面白いと思った。彼は孔子の論語のみならず、老子も荘子も読み込んでいたに違いない。
論語にも老子にも荘子にも、キリスト教的「神」などは登場しない。私のいいかげんな理解によれば、老荘の中心概念は「天」と「道」であり、今流に解釈すれば、「天」は「大自然」、「道」は「大自然の根本法則」と言いかえて大きな支障を生じない。
だた、論語の中心には「仁」という、人と人との間を律する社会的な概念、つまり道徳律がデンと座っている。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(人格者は周囲の人々と調和はするが、自己の独立を失って付和雷同することはない。未熟者はその逆である。)」などは、私の座右の銘の一つになって久しい。
私は初めてこの一文に触れたとき、昔の中国には見事なことを見事に表現する人物がいたものだ・・・と感動したのだが、たぶんソローもこの一節を目にして大きく頷(うな)づいたに違いない。生まれも育ちも、元より個性も異とする人と人とが、ほんとうに気持ち良く調和して付き合うこと自体が容易なことではない上に、「同じない」ためには、屹立(きつりつ)した個人としての自覚、つまり近代西洋の個人主義の精髄とでもいうべきものが必須となるからである。
ついでに、多くの現代人の共通する悩みである「人間関係」について、荘子には「君子の交わりは淡きこと水の若(ごと)く、小人の交(まじ)わりは甘きこと醴(れい・甘酒)の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故(ゆえ)無くして以て合う者は、則(すなわ)ち故無くして以て離る。」と説く。
つまり、「君子の交わりは淡くて水のようであり、小人の交わりは甘くて甘酒のようなものだ。君子の交わりは淡いので親しみ、小人の交わりは甘いので絶えてしまう。理由がなくて結びつく者は、理由がなく離れてしまうのだ」・・・と子桑戸が孔子に説く場面が出てきて、これも面白いと思う。
"There can be no very black melancholy to him who lives in the midst of Nature and has his senses still. There was never yet such a storm but it was AEolian music to a healthy and innocent ear. Nothing can rightly compel a simple and brave man to a vulgar sadness. While I enjoy the friendship of the seasons I trust that nothing can make life a burden to me."
「自然」のまっただ中で暮らし、自己の感覚器官を静かに保った人間は、ひどい憂鬱症に陥ることなどあり得ない。本来、健康で純粋な耳には、どんな嵐も風の神に創られた音楽としか聞こえなかったのだ。単純で勇気ある人間は、つまらぬ悲哀に陥ったりはしない。私が四季との友人関係を楽しんでいるかぎり、何が起こっても、それが私の人生の重荷になるということはないと思う。
辞書的に「自然」とは「山、川、海、草木、動物、雨、風など、人の作為によらずに存在するものや現象であり、すこしも人為の加わらないこと」とあり、わたし的には自然科学的な「宇宙」や仏教用語の「一切法界」「三千大千世界」などの概念にまで至る。
だから、私が「自然」とか「大自然」という言葉を使うとき、人間や社会や国家や文明などと対比させることが多いにしても、これらは本来、対立関係ではなく包摂関係にある。つまり自然世界の中に人間世界があるのであって、その逆ではない。どんなに文明が発達して人類の活動範囲が広がっても、人間が作った世界が広大無辺な自然世界を超えることは決してないだろう。
そして、多くの動物たちと同様、どんな人間も親のもとに生まれ育ち、家族やより広い社会的な生物として生きることになるが、同時に常に自然的な存在であることから離れることはない。
今、多くの人工製品が並んだ部屋の一隅で、典型的な文明の利器に向かいながらこれを書いているのだが、この部屋の中にも外にも、ほとんど億年の昔からその成分を変えない空気という自然がある。窓の外には夜空の大気の流れがあり、その上空には無数の星がまたたいているだろう。
にもかかわらず、ある程度意識して、人間が作り出したもろもろの事物から距離を置くことなしに、その偉大なこと驚異的としか言いようがない自然世界を感じ取ることは容易ではない・・・という事実は悲しい現実である。
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今日の粟井は春らしい実に爽やかな南西風。潮時も良く、15㎡でジャスト。初心に帰ったような気分で風と波の動きを味わう。
I love to be alone. I never found the companion that was so companionable as solitude.
-Henry David Thoreau
私は一人でいることを好む。孤独ほど気の合う仲間を持ったことがない。
- ヘンリー・デビッド・ソロー
ソローが19世紀の中頃、アメリカ東部のコンコードの森で一人2年4ヶ月を過ごしながら書いた、あの名著"Walden:or, the Life in the Wood"『森の生活』には、他にも味わい深い洞察がワンサカ出てくる。
これは『孤独』の章の一文で、この前後を飯田実の翻訳から引用すると、「私は、大部分の時間をひとり過ごすのが健康的だと思っている。相手がいくら立派でも、人と付き合えばすぐに退屈するし、疲れてしまうものだ。私はひとりでいることが好きだ。孤独ほど付き合いやすい友達に出会ったためしがない。われわれは自分の部屋にひき篭もっているときよりも、外で人に立ちまじっているときのほうが、たいていはずっと孤独である」・・・となる。
たぶん生来的に大勢で群れることが苦手な私も、彼の洞察に深く共感する。だだ一人で心静かに向き合うことなくして、大自然がその深奥の秘密を現すことはまずない。
そして、その神秘の片鱗に少しでも触れた者は、人間社会のあちこちで避けることができない大小の集団の喧騒がたいてい陳腐なものであり、本来の自分の本来の幸福にとってほとんど意味を持たないものであるということに気が付く。
すぐれた登山家が単独で山に登り、海をよく知るヨット乗りが一人で大海原に出かける動機の一つもこの辺りにあるのかもしれない。
私は森の中で暮らしたことはないが、これまでの限られた自然界との付き合いの中で、そのような経験が何度かあった。そして、その一種不思議な感覚体験は、その後の自分の生き方を深い部分で方向付けているように思う。
また気が向いたときに書く。