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寛太郎のカイト日誌

内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置

   
カテゴリー「その他」の記事一覧

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宇宙人

昨日は堀江海岸で宇宙人のような人間に会った。いや、人間のような宇宙人だったのかもしれない。

多くの人にとって珍しいことをやってると、こちらの意図とは関係なく、いわゆる「目立つ」ことが多いらしい。ウィンド時代はショートボードに乗り始めた頃、パラグライダーの初期もそう、エンジン付きパラ(PPG)は、ほとんど飛ぶ場所を選ばない上に、それなりの騒音を発するから、よけい多くの人の目にとまる。

PPGの初期などは、海岸エリアでひと飛びして降りてくると、いつの間にか人が集まってきて、「これは何というものか?これらの道具ははいかほどの値段か?飛び方をどうやって習えばいいのか?・・・」等々の質問攻めにあうことがほとんどだった。

初めのうちは、彼らの好奇心に応えるべく丁寧にお相手していたのだが、その内、面倒くさくなり、やがて鬱陶(うっとう)しくなることは自然の流れだ。一時は、いつも繰り返される質問事項を整理したパンフレットみたいなものを見物人に配布して「これに全部書いてあります!」にしようか・・・などと本気で考えたものだ。

しかし、今日の質問者はちょっと変わっていた。

ガスティではあるが、腰の強い秋の北風をそれなりに味わって浜に上がり、ブレークダウン(片付け)に取り掛かった頃に、細面(ほそおもて)の青年が「ほんとに楽しそうですね。ずいぶん小さいボードなんですね。」などと静かに話しかけてきた。仲間のサーフタイプも見て、「サーフボートみたいなのでもできるんですね。僕はサーフィンをやってるんです。」と言う。5b7dbceb.jpeg

私の接客の習いは、時々の気分や状況によって、まずお相手をするかどうかを決め、次に、その人物を観て話の内容を決める。疲れているときや面倒くさいときは、ほとんど無視する。そうでもない時は、かなり人の良い話し相手になる。「袖(そで)触れ合うも多生の縁」・・・この広大な時空世界で、短い生涯に出会える人間の数は極めて限られている。何かの縁があるかもしれないし無いかもしれないけれども、人(だけではない)との出会いはできる限り大事にしたい・・・というのは、私の生き方の一つでもある。

「このナチュラルスポーツはね、半分以上はスカイスポーツで、空を飛びながら海の上を走っている感じだよ・・・」などと話している間、彼はずっと両手を軽く広げてフラフラとサーフライドみたいな動きを続けながら聞いている。ところが、彼の容貌はどう見てもサーファーではない。まず、肌の色が驚くほど白い。次に、身体全体が針金のように細く、肩の筋肉は無いに等しい。こんな姿態はまずサーフィンからは生まれない。

そして、その色白・細身・細面の風貌全体から発する雰囲気が、どうも人間離れしている。どこか遠い世界からやってきた宇宙人のような感じだ。特段、不愉快な空気を持っているわけではない。徐々に私は、何かフワッとした別の種の生物に話しかけているような気分になってきた。これはちょと頭の温かい種類の人かもしれないとも思ったが、どうもそれとも違う奇妙な印象だった。

10分ほどの遭遇の後、彼は相変わらずクネクネ・フラフラとした動きを止めないまま「また、お会いしましょう~・・・」と、フワリと言い残して、どこかに帰っていった。彼の姿になんだかこの世のものでないようなものを感じたのは確かだ。

私は、いわゆる「地球外知的生命体」は、まちがいなく存在すると考えている。地球も宇宙の一部だから、私たち自体が宇宙人であるとも言えるのだが、まさに数え切れない数の星々や銀河で満ち溢れる大宇宙に、地球のような惑星がたった一つしかなく、地球人しか存在していないと考えるぐらい不合理なことも少ないとさえ思う。

しかし、彼らが今現在、この地球にやって来ているかどうかは別の問題だ。彼らには彼らの都合というものがあるだろうから、こんな悲哀や憎悪や同類殺傷に明け暮れる人間という生物が、他の多くの生き物たちの生命を平気で奪いながら何十億も生息する小さな惑星に、わざわざやって来るには、きわめて特殊な興味が必要なはずだ。

私たちが他の惑星の住人と出会う確率については、たしか「ドレークの公式」というのがあって、遠大な空間の問題だけでなく、ある文明の存続期間の条件もある。数百億年と言われる宇宙の歴史から見れば、数千年の人類文明史などは、取るに足りないものだ。百億分の千としても一千万分の一ということになる。宝くじを1枚買って一等賞に当たるのとほぼ同じ確率・・・しかも、人間の一生はたいがい百年に満たない。

この公式に素直に従うと、やはり相当強力で「特別な縁」がなければ、ホンモノの宇宙人に出会うことは不可能に近い、なんて夢のない話になってしまうのだが、もしも、案外、近在の惑星に人間に似た生物が住んでいて、しかも彼らがこの惑星の古代文明などと深い関係にあり、今の時代もまだ「特殊な興味や特別な縁」があると仮定すれば、ことの次第は別な流れになるだろう。

この辺りの話も、始めればキリなくなる。今回これまで。

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分かり方

先日からカトちゃんが半年以上ぶりに練習を再開した。ほとんど何の労もなく「つづき」が始まった。やはり、身体で覚えたことは間単には忘れない。体験の蓄積は知識の蓄積よりもはるかに残りやすいというのは確かな事実だ。IMGP0636-s.jpg

それはどうしてか?・・・またまためんどくさそうなことを考えるのであるが、これはもう私の抜くことあたわざる性癖なので仕方がないことだし、これはこれでけっこう楽しい、というのも事実である。

「考える」ということは、その方法が理にかなっている(合理的である)限り、頭の中をスッキリさせて健康にもかなり良いらしい。しかも、ある現象の奥に潜んでいる「原理」や「仕組み」をつかんでおくと、当然、類似の現象への応用や対応が楽になるので、この種のめんどくささと付き合うことの「利点」もちゃんとあるのである。

私の考え方の基本は、一見、当たり前とされるモノゴトも、なんとなく複雑に見えるモノゴトも、常識も非常識も、できるだけ単純で明快なかたちにして理解することを出発点とする。それには、当面する難しい言葉を、使い慣れた身近な言葉に言い換える(翻訳する)ことが役に立つ場合が多い。

「理解」は、たぶん明六社の誰かが作り出した訳語で、分かりやすく言えば、まさに「分かる」ということだ。「分かる」はもちろん「分ける」と根を同じくしている。或るモノやコトを別のそれらと分別してとらえる・・・ということで、これは、少なくとも日本人の歴史が始まったときからずっと続いている当たり前の行為だろうと思う。

私は、この程度の日本語とわずかな外国語しか知らないが、「分かる・理解する」の英語は、仏語と同根のラテン語からの"comprehend = compre + hend"で「完全に+つかみ取る」というのと、もっと一般的なのは、古英語からの"understand = under + stand"で 「下に+立つ」ということらしい。

これに従い、日本語で「私はあなたの考えがよく分る」を英語にすると、「I undestand (comprehend) what you mean very well」・・・とかになるのだが、ラテン的英語では「私はあなたの考えを完全に掌握している」、古英語的には「私はあなたの考えの下に立つ・・・つまり従うか、底支えする」などという意味を暗に含んでいるわけで、「理に解する」や「分別する」よりも、かなり主語(私)に勢いがあるように感じたりする。こんなところでも、「言葉というのはまったく面白いなぁ・・・」などと私は思ってしまうのである。

今回は、「忘れたくないことは身体で覚えるべきだ」ということを、「体験と認識」の問題に関連付けながら、少し理論的に説明してみたかったのだが、またしても完全に脱線してしまった。またの機会にする。

効率的

昨日はずいぶん久方ぶりに愛用の軽バンで高速道路を走った。私はもともと高速道路という「道」が好きな方ではない。確かに目的地まで速く移動できて便利なものだ。一般道路でゆうに六時間以上かかっていた行程が三時間足らずで充分だった。つまり効率的ということだろう。しかし、「効率的」とは何だ・・・などと、まためんどくさいことを考え始める。5db0f713.jpeg

戦後(だけではない)、日本の経済復興に一役買ってきた電力事業だけでなく、きわめて広範な産業・経済分野、ついには教育分野でさえも、この「効率」という言葉は当然の了解事項として広く使われてきた。いわく、「如何にして生産効率を上げるか」「如何にして何々を効率よく学習するか」・・・等々。

しかし、先の東北大地震に伴う原発事故を契機《けいき》に、この「効率なんとか」の「功」の面だけでなく「罪」の面を問い直し始める人々も確実に増加しているように見える。

手元の辞書には「効率的」を以下の二義で定義してある。つまり・・・1:機械によってなされた仕事の量と、消費された力との比がうまく調和しているさま。2:一般的に、使った労力に対して、得られた結果の方が大きいさま。能率的。効果的。

1は、まずその通りだろう。機械類は常に物理法則に従う。エネルギー保存の法則から、入力と出力の均衡を取ろうとするのは当然のことだ。だが、2についてはどうか。一応「一般的に」と留保をつけてあるから理解はできる。これを数式化すると「効率=成果÷労力」となり、その値が大きいほど効率的ということになる。6f48fbec.jpeg

しかし、人間にとって「使った労力」や「得られた結果」を、一般的に語ることにどれ程の意味があるのか・・・。私の片道六時間の運転労力で得る結果は、もちろん腰の痛みや疲れのマイナス面もあるが、それを差し引いても、三時間の単調な高速移動で得られる結果を何倍かしてもずっと大きいものになるだろう。

道中ゆっくりと移り変わる風景や、一休みで味わう山間《やまあい》の澄んだ空気や小川のせせらぎ、過ぎ行く夏を惜しむように森をゆらすセミしぐれなどは数量化することができない種類のものである。

「より強く、より高く、より速く」・・・一昔前のオリンピックの標語だ。そして、この標語は、西欧列強の外圧によって近代化を急いだ明治日本の基本姿勢だったし、敗戦後、経済復興を急いだ昭和日本の基本姿勢でもあった。国家のレベルで言えば他国に負けず、企業のレベルで言えば他社に勝ち、個人にすれば他人との競争に勝つこと。つまりは競争原理の全面的肯定と採用ということになる。

しばらく前に、大阪の海運会社に勤める四十代の従弟《いとこ》と会ったら、「どんなに働いても、いつも何かに追いかけられるように気が急《せ》いていて休まらない・・・」という話が出てきた。この感慨は彼だけのものではない。現代物質文明を享受する世界中の大多数の人々が、心のどこかに宿す共通した「不快感」だろうし、一種の「病理」と言ってもいいかもしれない。

その原因は、多くの先人によって明らかにされている通りである。そして当面、その原因を無にすることはできないにしても、少なくとも自覚することによって、その結果の現れ方は大きく異なってくる・・・と思ったりもするのである。

 

忘却と亡失

今日で八月も終わる。今月はなんだかんだと忙しい日々が続いた。昼間の気温はまだゆうに三十℃を超えて充分に暑い。だが、辺りに漂う空気は着実に秋の匂いが濃くなってきている。今日などは、湿度が低かったということもあるのだろう、気温のわりには爽やかで、別府の海に久々に入った西風順風が殊に心地良く感じた。16e7c25e.jpeg

しかし最近、なんだか忘れモノが多い。めんどくさい事はなるべく忘れ去ることにしている私にとって、忘却は得意技の一つではあるが、必要な物をどこかに置き忘れたりするのは、普通喜ばしいことではない。「普通」というのは「特別」があるからで、意図しない亡失が、より良い結果をもたらすことも、時々はある。

先日は愛用の板を堀江海岸に置き忘れて、どうやら引き潮の土産にしてしまった。今日の別府では、車内の定位置にハーネスが無いことに初めて気が付いた。これはどうも徳島のどこかで眠っているようだ。

新たに届いた板は、同じメーカーのまったく同じ板のはずだったのだが、幾つか気になっていた点をちゃんと仕様変更してあって、一言で言うと、更に快適に走り、楽に跳べるようになっていた。

ハーネスは、ジャンプの際のズレ上がりを嫌って、長い間、手製のフンドシを取り付けていたのだが、私が信頼する或るイントラ・ディーラーに相談したら、彼に「どんな種類のジャンプにもズレ上がることなく快適に使用できることは私が保証する」とまで言わしめる優れモノがあった。

話は少し跳躍するが、人間は記憶する動物であるがゆえに忘却する動物でもある。何の用にもならない過去はどんどん忘れ去ればよい。しかし、できれば消し去りたいと願うような過去でも、現在の自分が変化すれば、その意味付けも変化する。大きく変われば大きく変化する。過去の体験の意味・評価が変わるということは、言い換えれば「観え方が変わる」ということで、それは実質、自分の中で過去が変わるに等しいと言えるだろう。

深い苦悩や重い後悔の過去が、現在の喜びの原因となり、未来の成長の要因となることも確かに有るという事実は、すでに多くの人たちが、それぞれに貴重な例で示してくれている通りである。

漢字がなければ


夜の九時を回っても、机上のアナログ温度計の針は33℃を指し、壁掛けのデジタル温度計は32.8℃を示している。こんな夜に、まともなことは書けるわけがないので、少しだけ、まともでないことを書いてみようと思う。私にとっては、ものを「書く」という行為は、ものを「読む」ことと並んで、幾らか「人間らしく生きる」ために、ほとんど抜きがたい習いになっているのかもしれない。

それは、ずいぶん昔、人間の「言葉」というものを覚えた時に始まり、その言葉によって自分の外側に広がる広大な世界が、「そら」とか「うみ」とか「やま」とか「かわ」・・・などに分別され、自分の中の小さな世界に映し出されて理解可能なものに変わることの、驚きや喜びの時期を通過していることは言うまでもない。

次に文字を覚える段階がやってきて、この時点から「読み・書き」が始まるわけだが、実は、人類が・・・などというとまた大きな話になるから、日本に限って言うと、この国に朝鮮半島を経て中国から漢字という文字が入ってきたのは、この国が、まだ「国」という体裁を整えていなかった紀元の初め辺りではないかという説を採用してみる。それでも、まだ二千年ほどしか経っていない。

それ以前の弥生時代、更に以前の縄文時代と呼ばれる、ゆうに万年を超える長い年月、日本には現在知られているような文字は存在しなかった。しかし、もちろん音を伴う言葉は存在し続ける。私もいわゆる「口承」の世界の一分を知らないわけではなかった。しかし、その口承の「ことば」の世界がどれほど豊かなものであったか・・・ということに想像を巡らすようになったのは、わりあい最近のことだ。

例えば「かく」という、現在では、文字を「書く」、絵を「描く」、背中を「掻く」・・・などと細かく分けて表現されるものの全てが、土や岩や土器の表面を「引っかく」の「ひく」+「かく」の「かく」に源を持っていることなどの意味を少し深く考えると、これはちょっと大変なことかもしれない・・・などと思ったりする。

つまり、今は当たり前のように漢字を使って限定しながら使い分けている一つの「ことば」が、今よりもずっと多くの意味を内包していたということで、それだけ大昔の日本人の心の世界、心によって映し出している世界そのものが、より大らかで豊かなものだったのではないか・・・ということである。

さらに日本にやって来た漢字は、それまでの「ことば」(大和ことば)に漢字の音訓を宛てた万葉仮名から、遂には、カタカナやひらがなに姿を変えることで、極めて洗練された表音文字になった。これはまさに、文字の体裁を伴った原点復帰とも言えるものではないか。だから、カタカナやひらがなだけで書かれたものを読み取るには、相当に豊かな想像力を必要とする。平安朝の女流文学のように。

私の祖祖母は三日に一升の焼酎を欠かさない大酒飲みで、煙管《きせる》タバコを楽しみとしていた。どんな本も読んでいるのを見たことがなく、カタカナしか書かなかったけれども、八十七歳で亡くなるまで晩年の数十年間、老齢期にありがちな小言や愚痴とは無縁で、まったく飄々《ひょうひょう》と楽しげに生き通した。私の姉などは彼女を老年期の生き方の理想形と評価している。

ひょとしたら、漢字など読めも書けもしない方が、より気楽な人生を送れるのかもしれない。

ポンポンの夢

昨夜は蒸し暑かった。いつもの川べりに車を停めて、川面で揺れる市内の灯りや、夜半過ぎに東の雲間から現れたおぼろ月を眺めながら、様々な想いの漂うままにボンヤリと過ごした。ゆるい北風に乗って流れてくる畑の肥やしの臭いに、懐かしさや鬱陶《うっとう》しさを感じたりしながら・・・。

昨夕は、対岸のどこかで間欠的にポンポンと乾いた音が響いていた。たぶん花火師か誰かが、こんな時期から阿波踊りの祭りの準備でもしているんだろうな・・・などと思っていたら、今朝の夜明け前にはポンポンが三倍くらいに増えている。そうか!・・・昔、島の田舎の田んぼでもよく使われていた、あのカーバイトガスを使ったスズメ脅しだ。私が小学校時代にした悪戯《わるさ》の一つが、T字型円筒の下部に設置された、強烈な臭いを放つ固形のカーバイトを、仲間と少々盗んで花火にするということだった。

まず間違いなくこの音が引き金になったのだろう。明け方近く鮮明な夢を見た。父が関係する夢だ。彼は、戦争中、重巡洋艦の「那智」や「妙高」で高射砲を担当し、終戦時には佐世保沖・高島の高射砲陣地の指揮をしていた。そして、突っ込んでくる敵機の爆撃や機銃掃射との真剣勝負の現場がどれほど凄まじいことになるか・・・などについて、彼なりの脚色とユーモアを交えながら、幼い私に繰り返し話していた。

男の子はたいてい父親の武勇談を好む。しかし、その戦争の現場が、単に面白おかしい武勇の舞台だけではなかったことも、彼の横腹から背中に抜けた貫通銃創の傷跡が生々しく語っていた。

今朝の夢の内容は、およそいつものごとく支離滅裂。なんでか私が父に成り代わっていて、舞台は南方マリアナ沖ではなく、終戦後の混乱期に、来島海峡を挟む二漁協の間に起こった漁場を巡る争いの戦場だった。

そこで高射砲が使われるわけがないのだが、私は、自分が守る小さな漁村に、対岸に存在する大漁協の連中が数百人乗り込み、攻め込んできた二隻の鉄鋼船目がけて、高射砲みたいなものをドンパチ打ちまくっていた。

この小さな一地方の、愚かにも激しかった漁業紛争についても、子供の頃によく聞いたことがある。当時は全国的な話題にもなったらしい。身近で起こった歴史的小話としては、それなりに面白いと思うので、またどこかで書くことがあるかもしれない。

二周忌

今日は父の二周忌だった。ちょうど二年前の本日、午前三時四十五分に、彼は今治の大病院の一室の私が寝ているすぐ横のベッドで息を引き取った。

「脈拍が二十に落ちてます!!」と息を切らしながら病室に飛び込んで来た看護師の声で私は跳ね起きた。しかし、すでにその時、脈も呼吸も停止していた。今夜のように暑い夏の夜だった。

九十歳の彼は、そのちょうど三ヶ月前の四月二十九日の昼食時に左脳の脳梗塞で倒れたのだが、かろうじて動く左半身の細い腕で必死にベッド柵につかまりながら、なんとしても生き抜こうとしていた。普通の人間でも大変な、時に四十度を超す高熱を一ヶ月近くも耐えた。

二ヶ月目に入った頃からしばらくは小康を取り戻し、時に姉や母や私の顔を見て微かに笑い、左手をゆっくり持ち上げて握手し、車椅子に乗せられてリハビリが出来るまでに回復した時期もあったが、ついに言葉を発することはなかった。

そして、三ヶ月目の中頃、再び襲ってきた四十度の高熱に耐える体力はすでに残っていなかった。危険な期間を通して傍《かたわら》に付き添っていた私には、もの言わぬ父が、迫り来る死という大敵と全力で戦っているのが、ハッキリと分かっていた。

十六歳から二十六歳までの人生で極めて重要な時期を、職業軍人として数々の戦場で生き延び、その後の生涯でも、さまざまな種類の戦いの世界と縁が切れることがなかった人間らしい、まったく見事な最後だったと思う。

三十六年前、突然、親友のT君が逝ったとき、私の世界は光を失い大きく様相を変えた。しかし、それから長いあいだ捜し求めた生死の問題への確答はいぜん遠いところにあった。そして今回の父の死は、ゆっくりとしかし確実に、その意味の一端を私に教えつつある。

巧みの技

昨日は若干八歳のカイトボーダーR君の体型に合わせるために、FM君から頂いた122cmツインチップのフット・ストラップ位置を変更する作業に取り掛かった。頑丈に粘着されたフットパット剥がしに朝から少々汗をかき、先日、測っておいたデルリン位置にチェックを入れて堀江のF君の元へ持っていく。GOPR0069.MP4_000022455s1024pix100kb.jpg

彼はすでにメスネジに丸パッキンを蝋着《ろうちゃく》させた部品を4個作って待っていてくれた。特殊なドリルでデッキからボトムに穴を開け、そのパッキン付きメスネジを適当な位置に固定するのだが、その作業手順の素早く鮮やかなこと・・・板を抑《おさ》えて彼の器用な手際《てぎわ》を見ながら、私は、空関係の友人であり職人技術者でもるO君のことを思い出していた。

O君は、ある大企業のスカイスポーツ部門でPPGユニット製作の責に任じていた男だが、彼が作ったエンジンユニットは、世界中のPPG(モーターパラ)愛好家に信頼され、後に、新任社長の一声で、この企業が空の分野から撤退した後も、次々に舞い込む注文や部品の供給や面倒な問い合わせへの対応に孤軍奮闘していた。image004.jpg

私は十年近くそのディーラーをしていた。利に疎《うと》い職人気質の彼とはどこか気が合うところがあって少し深い付き合いをすることになるのだが、互いに共通した意見の一つは、「いわゆるモノ作りの世界で、「巧《たく》みの技」を保持している国は、日本とドイツとイタリアである。その理由はこれらの国々の巧み職人の長い伝統の中にあり、ほとんど遺伝的ともいえる繊細な美的感性と洗練された芸術的才能によるものであろう」というものだった。1152529729.jpg

実際、十九世紀末期に現代のハンググライダーに酷似したものや複葉型にしたような飛行道具を創作し、二千回以上にもわたる滑空実験を繰り返しながら揚力・抗力(揚抗比)などの諸データを蓄積して、二十世紀初頭のライト兄弟による動力飛行を導いたのは、ドイツのオットー・リリエンタールだった。イタリアの十五世紀には、あの超天才・レオナルド・ダビンチがいた。彼は成人してから四十年間に渡って飛行の問題にも取り組み、鳥の飛行翼の構造を解剖学的に解明し考案したオーニソプター(羽ばたき翼)で人間の筋力が最大に働くように考えたり、ヘリコプターの原型らしきもののスケッチを残しているのは有名な事実である。このような製図は十八世紀後半までのどんな航空関係者にも知られることは無かった。image001.jpg

あまり広くは知られてないが、日本でも、幾らか有名な愛媛・八幡浜の二宮忠八に先立つこと百年以上の江戸時代中期、備前(岡山)の表具師(家具職人)・浮田幸吉《うきたこうきち》は、リリエンタールの滑空翼に似たものを自作して、橋の欄干からの滑空飛行に成功した・・・という間接資料がある。

PPG(モーターパラ)に関しては、フランスのアドベンチャー社が先駆けるのだが、使用エンジンはドイツ製のソロ210《ツーテン》という頑強この上ないものだったし、ドイツのフレッシュブリーズ社は当然、長い間これを使っていた。イタリアのフライプロダクツ社も同様。日本ではある零細企業の極めて優秀な職人が航空用の超小型二気筒250ccエンジンを作り上げて、世界のPPGフライヤーを驚かせた。このエンジンの信頼性は他の群を抜いていた。私が南アの世界戦で使ったのもこのタイプで、競技用に持ち込んだ3台を含めた5台が、大会終了後、現地で完売したことはどこかの記事にも書いた。

巧み職人の世界が空の世界に跳躍すると、またまた長い長いお話しが始まる。また別の機会に触れることもあるだろう。

 

休題にして閑話 ドリス・デイ

私は幸せになりたい、でも、幸せにならない
あなたを幸せにするまでは

人が喜びを与えあっているとき
人生はほんとに生きるに値(あたい)する

そんな時に、どうして私が
あなたに何かを与えずにいられるでしょう

空が暗く、あなたの心がブルーな時は
私が太陽のような笑顔を贈(おく)りましょう

私は幸せになりたい、でも、幸せにならない
あなたを幸せにするまでは

(リピート) (寛太郎拙訳)


 

考えごとをするのが面倒くさくなった時々、酔人はこの曲を子守唄にする。「ドリス・デイ」・・・さて今時、どれほど多くの人たちが彼女の名前を知っているのだろうか。

彼女をしばしば日本のTV番組で目にしたのは、たぶん私が10歳過ぎの頃だったのかなぁ・・・ほとんど記憶はない。しかし、あの母のような(実際、かあちゃんの年齢を超えていた)の優しい声は今でも耳に残る。

改めて注意深くこの歌詞を見てみると、ジェリー・ロペツなどの言うハワイアンの「与える心」や、無神論者のラッセルが説く「愛は賢明」が含まれていることに、しばし驚く。

歌詞の確認にとサイト探しをしていたら、こんなページを見つけた。これを書いた人も、かなりの酔人にちがいない。そのうちアドレスが分かれば、メールの一つも差し上げたい。

私はきわめて普通の人間だ
幸せの計画を現実にするように歩んでいる
他の人が自分にしてもらいたいことを
自分も他の人にしている
私の魂がまことに孤独であると知った時
まもなくそのゴールがやって来る
周りの人たちに私の哲学を語るとき
私の気分はずっと爽快になる

I want to be happy, but I won't be happy.
Till I make you happy too.

Life is really worth living when we are mirth giving.
Why can't I give some to you.

When skys are gray and you say you are blue,
I'll send the sun smilling through.

I want to be happy, but I won't be happy.
Till I make you happy too.

... Repeat ...

I'm a very ordinary man
Trying to work out life's happy plan
Doing unto others as I'd like to have them doing unto me

When I find a very lonely soul
Soon be-kinda-comes my only goal
I feel so much better when I tell them my philosophy


 


金(かね)と金(きん)

「金(かね)になるだけが仕事ではない」・・・あの有名なTVドラマシリーズ『北の国から』の最終話「遺言」の一シーンで、生来ナチュラリストの倉本聰が、唐十郎演じる北国の漁師・トドおやじに語らせた文句だった。

あれからもう10年も経つのか・・・私はこのシリーズを、その構成において、配役において、そして根底を流れる思想性において、日本TVドラマ史上、最高傑作の一つだと思っている。想いを同じくする方々も少なくないだろう。

そして、さらに私は思う。「金(かね)になるだけが仕事ではないのは無論、真に優れた仕事はやがて必ず金(きん)になる」

こないだNHKの番組で、スペイン・アルタミラ洞窟の動物壁画をあらためて観た。最近のTV映像は急速な技術革新のおかげで、以前よりずいぶん鮮明に鑑賞することができる。Reproduction_cave_of_Altamira_01s1024pix100kb.jpg

はるかな過去の石器時代に、単なる物品交換の便を図るための貨幣なんてものは存在しなかった。もちろん現代のバカに複雑な貨幣制度やお金(かね)なんてものも。かの人物は、何らかの報酬を得るためではなく、純粋な楽しみ喜びのために、この大作を描いたにちがいない。

しかし、ピカソをして「こんなスゴイ絵画は現代の画家にはとても描けない!」と言わしめた、驚くべく優れた仕事がそこにあった。万年を経ても決して朽ちることのない金(きん)のような仕事。

ところで、仕事の和読みは「仕(つか)える事(こと)」だ。ヒトが自分以外の何か誰かに仕(つか)えるためには、上下・高低の身分的な階層が条件になるのだが、そういう社会構造が発達するにつれて「仕事」という概念も定着したことは容易に推定できるだろう。

もっとも、仕える対象がもっと形而上(けいじじょう)的な、普通の目には見えない世界、あるいは、自分の好みの世界である場合は、話しが大きく違ってくる。生業(なりわい)が趣味になっている人、趣味が生業になっている人などは、わりあい稀(まれ)なこの種類だ。

英語でワーク(work)とビジネス(business)が区別されて使われるのにも、それなりの歴史的背景があり、workはwalk(歩く・動く)が源であるに比べて、businessとはbusy(忙しい・手がふさがっていて他に何もできない)の派生語にあたる。

日本語にも「働(はたら)く=人が動く」という言葉が古くからあり、漢字の成り立ちとしても「忙」は「心を亡くす」ことが原義だ。このあたりも分かりやすく符合していて面白い。

世間がどんなに不景気になって、いわゆる「仕事」がなくなっても、ヒトは生きて、好きなことで体や頭が動いている限り、「働(はたら)く」のを止めることはあり得ないのである。


 


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プロフィール

HN:
寛太郎
性別:
男性
職業:
self-employed
趣味:
風読み・読書・自転車ほか多数
自己紹介:
瀬戸内の小島生まれです。学生時代は国際法を少し。数年間の堅い団体職の後、子供好きが高じて学習塾を、風が好きでスカイスポーツのイントラを、等と趣味と仕事が重なる生活を数十年経験しました。55歳引退計画に従って現在は基本的にフリーですが、相変わらずあれこれ忙しくしています。

生活方針は「無理をしないでゆっくりと」およそ中庸を好みます。東西を問わず古典思想の多くに心惹かれます。まずは価値相対主義を採用し事物の多様性を愛しますが、ミソとクソを同等にはしません。モノゴトには自ずと高低浅深があり、その判断基準は「大自然の摂理と全ての生命(いのち)の幸福」の中にあると思います。敬愛する人物は古今東西少なからず、良寛やB・ラッセルを含みます。

ナチュラリストと呼ばれることを好みますが、人間が創り出した道具類にも大きな関心を持ちます。人間語だけでなく、あらゆる生き物たちの「ことば」に興味が尽きることはありません。60~70年代ポップスや落語を聞いたりすることも好きです。

・著作:『空を飛ぶ・一つの方法』
・訳書:『リリエンタール最後の飛行』
・訳書:『個人と権威』

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