内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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冬至もとうに過ぎて日に日に日が長くなってきている。しかしまだ北寄りの風は冷たい。午前中あれこれとデスクワークをしていたら、あっという間に昼が過ぎ午後も3時になってしまった。ちょいと塩屋の様子を見ると、そこそこ吹いている。よし、少し体を動かしてこよう。
どうやら出遅れたようで、冷たい北西風は大きな波長で呼吸し始めていた。15㎡で少しは水に浸かったがアビームさえ取りがたい。後はトーイング・システムの調整などしながら体を温めているうちに、お日様は西に傾き今日も見事な夕焼け空に変わっていった。ずいぶん昔からそうなのだが、海でも山でも空でも、一人静かにこの種の空気の中にいると、たいがいアホな私もいくらか思索的になる。
美しく海に沈む夕日を眺めながら、「そうか・・・縄文人はみな芸術家だったんだ!」などと思い、画家の熊谷守一が出会ったアイヌ人の話を思い出した。熊谷は美術学校(今の東京芸大)を首席で卒業し将来を嘱望されながら、農商務省の調査団に加わって樺太に渡っている。現地でアイヌを知るわけだが、大好きになったアイヌの人たちについてこんなことを書いている。
「彼らは漁師といっても、その日一日分の自分たちと犬の食べる量がとれると、それでやめてしまいます。とった魚は砂浜に投げ出しておいて、あとはひざ小僧をかかえて一列に並んで海の方をぼんやりながめています。なにをするでもなく、みんながみんな、ただぼんやりして海の方をながめている。魚は波打ちぎわに無造作に置いたままで波にさらわれはしないかと、こちらが心配になるくらいです」
「ずいぶん年をとったアイヌが二人、小舟をこいでいる情景を見たときは、ああいい風景だなとつくづく感心しました。背中をかがめて、ゆっくりゆっくり舟をこいでいる。世の中に神様というものがいるとすれば、あんな姿をしているのだな、と思って見とれたことでした。私は、そのころも今も、あごをつき出してそっくり返る姿勢はどうも好きになれない。反対に、老アイヌのああいう姿は、いくら見てもあきません」
熊谷の絵は、時に抽象画の極致のように見え、事物の本質を直裁に描いたものに違いない・・・とは感じるが、私にはまだ良く分からない。ただ、彼が残した言葉には大きく頷(うな)ずく。その風貌はほとんど仙人で、こんなに神々しい老人の顔も珍しいと思う。彼もやはり縄文気質を強く持った人間だったのかもしれない。
「学校の先生はしょっちゅう偉くなれ、偉くなれと言っていました。しかし私は人を押しのけて前に出るのが大嫌いでした。人と比べて、それよりも前の方に出ようというのがイヤなのです。偉くなれ、偉くなれと言っても、みんなが偉くなってしまったらどうするんだ、と子供心に思ったものです」
「川には川にあった生き物が住む。上流には上流の下流には下流の生き物がいる。・・・自分自身を失っては何にもなりません。自分にできないことを世の中にあわせたってどうしようもない。川に落ちて流されるのと同じ事で何にもならない」
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