内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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昨日「梅雨空が戻って来てなんだかホッとした」なんて書いたら、一夜明けて本日、気象庁が西日本の梅雨明け宣言を出した。例年よりかなり早いが、何にしても今年も本格的な夏が来てくれて私は嬉しい。堀江の浜で19㎡の痛んだプーリー交換の方法をF君に教えてもらいながら、缶コーヒーで梅雨明けのカンパイをした。これからいよいよ、“あの”別府と小松の季節なのだ。
私と同世代のF君いわく「年寄りには残り時間が少ないのだから、(残り時間の多い若者よりも)一生懸命やるのは当然だ・・・と若い仲間には言っている」。もちろん半分冗談だが、彼のことだから半分は本気だろうと、なんだか感心した。自分の本当にやりたいことに、真っ直ぐに取り組んでいる人間の姿ほど美しいものも少ない。
暦計算では、私もあと3年で還暦を迎える年齢に達した。それなりの「歳月を重ねた」ことは事実だ。たしかに、数十年前の自分と比べると身体の動きは徐々に硬くなってきている。ところが若い時の予想に反して、精神の動きははるかに柔らかくなってきている。「歳を取ると考え方が硬直化し頑固になる」という巷間(こうかん)の常識はまったく当てはまらず、事実は逆だ。こんな「非常識」な人間は、同時代に限らず、歴史的にも地理的にも広く存在するので、そう珍しい現象でもないらしい。
中国や日本の長い歴史を通じて、実に多くの人々に影響を与えた続けた孔子という人物は、彼の人生を10年区切りに整理し、「吾(われ)十有五(15)にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑はず、五十にして天命を知る。六十にして耳順ひ、七十にして心の欲する所に従ひて矩(のり)を踰(こ)えず」と言っている。四十の「不惑」の字義は「惑(まど)わない・迷わない」ではなくて、「狭い枠にとらわれない」といったほどの意味だ。四十歳を超えた頃の私は、「不惑からはほど遠いなぁ・・・」と、ごくたまにだが、ため息をついた。そして、20代、30代で逝ってしまった何人かの友人が、「惑わず」も「天命」も「不惑」も知らなかったとは、簡単には思えない。
単なる物理的時間で人間の年齢を測ることに、大きな意義を感じることがない私の理由はこの辺りにある。この世界に二つとはない大切な一人の人間の人生は長短さまざまで、この世界に「絶対的」な何かがあるとするなら、それは神や仏ではなく、この「一人の人間の生命の大切さ」だと私は信じている。この絶対の世界を年齢という相対のモノサシで測ることにどれほどの意味があるというのか。
ちなみに、孔子の『論語』は現代でもなお多くの経営者にも、座右の書の一つとして教訓を与え続けているが、じゃあ、現在の教育論では非常に大切だとされる15歳までの幼少年期はどうしてたの?・・・と聞いても記録がないから分からず、72歳までしか生きなかった彼に、今では珍しくない80代、90代の人生指針を聞くことはできない。
こう書くと、なにか「論語読みの論語嫌い」のように響くかもしれないが、とんでもない。私は『老子・荘子』や『孟子』と並んで、かなりの『論語』好きである。
若干困ったことに先日、5~6年前から使っていた外付けハードディスクが、突然クラッシュした。まあ、主にバックアップ用だったから、痛痒(つうよう)はないけれども、マメに残していた大量の写真画像や動画などはみな消えてなくなってしまった。
信頼していたIOの250GBだったのだが、原因は常時通電のオーバーヒートによるものではないかと思う。ヘビーユーザーのハードディスクの寿命は3年~5年が当たり前だという。まあ、今は1TBが数千円で手に入る時代で、最近の外付けハードは動く必要の無いときは通電量を落とす節電機能なるものが付いているらしい。
そういえば、何年か前に愛用のノートPCがハードクラッシュを起こしたときの経緯(いきさつ)を書いたことがあったなぁ・・・と、4~5年前のブログ記事に検索をかけたら、懐かしい記事がいろいろと出てきた。ブログ管理を簡素化しておくためにも、目ぼしい記事は徐々にこちらに移動することにする。
YBBからNTTへ (私のPC歴)
「この数年お世話になったYahooBBから思い切ってNTTの光フレッツに変えることにした。思い切ってというのは、ホームページやらメールアドレスの件があって長い間躊躇していたということがあるのだが、これが実は杞憂であることが分かった。
ソフトバンクもこういう顧客が多いことを想定してちゃんとそれなりのサービスを用意しているのだ。ジオシティーズ・ライトとかゴールドとか・・・今日の解約申し込みの電話では解約ではなく休止ということにすれば、月額300円ほどかかるが、ネット接続を除いて今まで通り何の支障もなくYahooBBのサービスを継続することができることを知った。次のサーバーは老舗のニフティが運営する@ニフティに決めた。これで、サーバーの全体容量も幾らか増えるので、少々大きなファイルも安心してUPすることができるだろう。
ウィンドウズ95が出てすでに12年、干支が一回りしたわけだが、この間のインターネットやパソコンの技術革新は目まぐるしかった。ほとんど驚異的と言ってよい。私が手にしたWin95最初のPCは14インチモニター一体型のNECキャンビーだった。(当時25万円、今これだけ使えばかなりの性能のデスクトップが3台は買える。)Win3.1に比べると格段に扱いやすいOSになって、随分多くの時間をワクワクしながら、時にはノイローゼになりそうなくらい熱心にこの世界との付き合いを始めた。
ちょっと振り返ってみると、私のパソコンの原点は25年前のまだマイコンと呼んでいた頃のシャープMZ7000だ。これを安月給をはたいて購入したときの嬉しさは格別だった。モニターは家庭用のテレビ、プログラムはBASICをカセットテープで小さなメモリに何分もかけて読み込ませてから更にゲームソフトのテープを読ませる。それでやっと『スタートレック』などのアドベンチャーゲームみたいなものが楽しめる・・・というもので、ともかくゲームがしたくて始めたようなものだった。
そして、このBASIC言語を何日もかけて組んでやっと完成させ大喜びしたのが単純なピンポンゲームだった。これで充分感動できた時代だ。このゲーム熱も数年後にファミコンなる万能ゲーム機が出て一挙に冷めてしまうことになる。
12年前のネット環境は今から考えるとバカ高い料金の従量制で、ピーヒョロと鳴く14.4Kbpsのモデムで、常に時間を気にしながら100kb程度の(楽しい)画像を落とすのに何十分もじっと待っていたこともあった。これが今や100Mbpsの時代だ。ざっと1000倍の速度!
HPを中心とするネット上の情報の総量も圧倒的に少なかったけれども、英語サイトの文書類にはかなり使えるものがあった。すごい時代になったな!これからもっとすごいことになるだろうなー・・・と考えていた。そして、その通りになった。PCのCPUやハードなどはもう言葉にもならないくらい大変なもので、私の想像をはるかに超えていた。メガバイトの単位のハードディスクの容量がギガバイトになったのだから、これも単純に1000倍進歩したということになる。10年ちょっとで1000倍に変化するものなんて、第一次世界大戦後のドイツを除いては、終戦直後の日本の物価くらいのものだろう。
人間の環境適応能力は全ての動物に優れる・・・という人がいる。私もある程度はこの説に賛同するが、しかし、どんどん前に進むだけが人間の幸せでないことも良く知っている。つまり、日の当たる進歩の裏にはおそらく同程度の退歩の影がくっ付いているという見方をする。長い目で見た場合、その退歩・後退が人類の存続にとって決定的な負荷になり、取り返しの付かないものにならないことを、とりあえず今は願うよりないのかもしれない。」
先日まで夏空が続き、すでに梅雨は明けているのではないか・・・などと言ってたら、梅雨前線は再びちゃんと下りてきて、昨日からまた暖かい雨が降り出した。自然のリズムが大きくは狂っていない証拠みたいなもの・・・なんだかホッとしている。
昼から雨も上がったので、南東寄りのガスティウィンドで蒸し暑い中、M君とグラハンで汗をかいた。とても沖に出てみようというようなコンディションではない。ところが、ちょうど目の良いF君がやって来た頃に、風がいくらか南に振れ、6mほどまで上がってくれた。そろそろ帰ろうか・・・と思っていたところだった。なんだか拾いものをしたような気分で30分弱、19㎡で10kmほど。明日は、もうちと西に振れてくれると有り難いのだが・・・。
改めて一般的に使われている意味を確かめようと思って、小学館の統合辞書で「有難迷惑」を引いてみたら、国語辞書には無いのに和英辞書には幾つかの用例と共に載っていた。少なくとも英語圏には同じような煩わしさを抱える人がいるらしい。いわく"unwelcome favour"、「歓迎されない好意」・・・最も使えそうな文は、"Thank you for nothing."「有り難いけど何の用にもならないよ」・・・だそうな。私は聞いたことも使ったこともないが、ハッキリものを言う英米人なら時々言いそうなことだ。
当人には「何の用にもならない」どころか「迷惑なばかり」の他人(ひと)の好意は、多くの社会人が日常しばしば遭遇することで、そう珍しいことではない。頼みもしないのに勝手にモノやサービスを与えようとする電話勧誘や訪問販売の類(たぐい)は最も分かりやすい有難迷惑だろう。もっともその動機が「好意」かどうかは大いに怪しいので、私はたいがいの場合、完全に無視する。
これだけ情報化が進んでいる時代だ。自分が必要とするものは自分の方からアプローチする方法を全く知らない人間など、極めて稀(まれ)なことは充分分かっているはずなのに、あんなバカげたことに大事な時間と労力を使わせる経営者はバカに大を付けてあげた方が良い。
ところが、これら日常世界の出来事と似たようなことは、かなり非日常的な「風読みの世界」でもしばしば起こり、まだその「社会的現象の基本構造」に理解が及んでなかった若い頃の私は、まったく余計なことをする人たちに腹を立てて噛み付くことさえあった。
その基本構造の本質は、要するに「無知」にあり、未だ社会的認知度の低い(多くの人が知らない)何かをする人間が、たいがい似たような経験をするのは、当然といえば当然のことだった。少しシャレた言葉を使えば、「あらゆる分野のパイオニアの宿命」と言っても良いだろう。
その一例は、パラグライダーが今ほど多くの人に知られていない頃のことだ。変な形をした飛行物体に人がぶら下がりながら山の林に降下するのを見かけた人がビックリしたらしく、「飛行機みたいなものが墜落した!」と警察や消防に救助通報をした。これはパラグライダーの世界ではよくある「ツリーランディング」で、これ自体で怪我をすることは自転車でこけて気絶するより難しい。高い樹から安全に降りる技術や機体の回収方法などは、その技能の初歩として一人前のパイロットはみな身に付けている。しかし、そんなことは何も知らない地元の住人が、これを「墜落事故」だと思ってしまったらしい。
私が木の上のサルになったよう気分で、のんびり機体の回収をしていたら、間もなく、ご苦労にも消防所の人たちが数人、息を切らしながら急な山の斜面を登ってきた。「お~い、大丈夫か~!」私の姿を認めても何も出来ず、何度も大声をあげる彼らに、まだ30代半ばで血の気の多かった私は少々イラついて「大丈夫なのは見たら分かるだろう!こっちに用はないから帰れ!」・・・と、まあ今の私ならまずしない無慈悲な言い方で追い帰した。大いにガッカリした彼らは、帰り際に「降りたら警察に寄って事後報告をするように・・・」などと言い残したが、こちらが頼んだわけでもないのに、そんな面倒くさいことをしなければならない義理はない。
国民の生命と財産を守るために、国民の税金で作っている警察や消防の組織制度は、国民から要請があればそれに応えるのが当然の職務義務で、この場合も当然のことを当然行ったに過ぎない。また、何も知らずに事故だと思い込んで通報した親切な人をとがめる理由もない。単なる「無知」が、私も含めて、それぞれの立場の人々の貴重な時間と労力と多少の税の浪費を招いた・・・という事実だけが残る。
同様のできごとは当然、まだまだ知る人の少ないカイトサーフィンにもある。ただ空と違って海の風読みスポーツは人目につく環境で行うことが多いから、その機会も多くなるのだろう。この4年ほどの間に、私は3回通報されて、一度などは海上保安庁のヘリが飛んで来たりしたこともあった。基本構造はパラの場合と同様。まったくご苦労なことだ。ただ、たぶん親切な通報者の方々には、とりあえず、もう少し落ち着いてじっくり事の成り行きを観察してから、ほんとうに必要なときに警察なり消防なり海保なりが活躍できる場を与えるように・・・と願っておきたい。
なるほど、記憶は連鎖する。競技中のシーンをあれこれ思い出しているうちに、とうに忘れ去ったと思っていた当時の出来事の、しかもどうでもよいような事実の細部が蘇ってくる。
四十を超えたいい壮年が、初日の歓迎パーティーでフラフラと踊り狂ったことや、なんだかウマのあったスタッフの大男と肩を抱き合って写真を撮ったことや、まだ少年の面影を残していたA君がエアフィールドの飼い犬のキンタマを悪戯でデコピンしてキャンと言わせ周囲をビックリさせたこと・・・などなど、まったく他愛のない出来事が次々と脳裏に浮かび上がってくる。
PPGの選手たちの「姿勢」ついては、フランスチームの面々が必要以上の英語を決して使おうとしなかったということの他に、特に書くべきことはない。PPGの競技の歴史は当時まだ始まったばかりだったし、私の「世界の飛行家」への関心は、どちらかというとマイクロライトに関わる人たちに向けられていた。
後で分かったことだが、彼らの中には、後にトライク(ハンググライダーにエンジンとコックピットや車輪を付けたようなもの)でアフリカ大陸縦断という冒険飛行を達成したイギリス人のマイク・ブライスもいた。今は名前が出てこないが、10年ほど前に複座型のトライクで世界一周を成し遂げたのもイギリス人だった。(彼らは一種の超法規的措置で日本の空港も使った。ひょっとしたら彼らも当時イギリスチームのメンバーだった可能性がある)
松山と広島を隔てる瀬戸内程度の距離しかないにもかかわらず(だからでもあるが)、600年前の百年戦争以来、イギリス人とフランス人の競争意識は、他に例を見つけるのが難しいくらい激しいものがあり、近年はだいぶ和らいできたところがあるにしても、フランスチームがイギリスチームの言語である英語を喜んで使おうとしなかったのには、それなりの歴史と理由があるのだ。近代というトンデモナイ時代の大勢を作り出した2つの支柱・・・「市民革命」はフランスが筆頭をなし、「産業革命」はイギリスに始まる。
それにしても、マイクロライト・イギリスチームの「姿勢」には一種の「落ち着き」の空気が、フランスチームのそれには一種の「気品」の空気が漂っていた。これも自由の精神を本質とする航空の歴史の所産か・・・或いは、あるものごとに、自ら生命(いのち)を賭けながら取り組んだことのある人間のみが持つ、あの特有の雰囲気に由来するものか・・・。
私が数ある航空界の中でも特にこの種類に興味を持つ理由は、小はセスナから大はジャンボジェットや宇宙船に至るまで、現代航空の歴史の原点がここにあるからだ。それは、ライト兄弟が初めて動力飛行を成功させたとされる「ライトフライヤー」の外観や仕様を見ればすぐに分かる。飛行重量にしても使用動力にしても、現在の舵面操縦型マイクロライトよりもはるかに頼りないものである。彼らはもともと自転車屋さんで、20世紀初頭、前世紀にドイツのオットー・リリエンタールなどによって、着実に蓄積された滑空データを基にしながら、数々の失敗の山の上に、あの機体を作り上げたのだった。
ある夕食会の時、たまたま隣のテーブルに座っていた私は、フランスチームの皆さんに声をかけた。下手な英語よりもはるかに下手なフランス語だからどこまで通じたか分からない。今になって思えば、フランス人には日本びいきも多いはずだから日本語で行けば良かったのかなぁ・・・と反省したりもするが、ともかく、何でもいいから一言でも言葉を交わせたかったのだ。
私が「こんばんは、私はフランス語をちょっとだけ話します」などと意味のない言葉を投げると、彼らは「オー^^!」と言ったのみで、それ以上の何を話したかを全く覚えていないのは、もちろんアフリカ風邪とアルコールのせいだけではない。
日々の競技内容は、その日の朝の気象状況を観て、主催者側が決める。PPGの競技は基本的にパラグライダーのそれを踏襲してはいたが、動力飛行ならではのものもあり、それらがミックスされたものもある。
我々も含めて海外の選手たちのほとんどは、もともとパラグライダーの経験者だったけれども、中にはソアリング技術に拙(つたな)い人もいた。滑空の世界では当たり前の、サーマルを使った高度獲得などの技術は、プロペラさえ回っていればいくらでも飛べるマイクロライトやPPGの世界では単なる乱気流以外の何ものでもないから、ほとんどの競技は早朝の大気が活発に動き始める前に開始された。
タスク内容は様々で、PPGならではのローパス(超低空飛行)でパイロンをキックして廻るお遊びみたいなものや、なるべく長距離飛んで良しとするディスタンス競技もあったが、メインタスクはやはり「ナビゲーション」と呼ばれるもので、地図の複数地点に目標物(パイロン)を設定して、それらを如何に数多く正確に迅速に撮影して戻ってくるかというものだ。
この種の競技で良い成績を収めるには、地図や地形を読むナビゲーションの技術はもちろん、パラグライダーの競技には不可欠のグライダーの「滑空性能」よりも、少々性能は落ちても安定して速く飛べる「翼面加重」の高い機体がものを言う。
海外の選手のほとんどは安全性の高いパラグライダー翼を使い、私などは滑空比が9を超えるコンペ機を持ち込んでいた。他の2人の日本選手は相当に気合が入っていて、PPG用に開発したばかりのグライダーで、勝つ気満々の様子だった。
ゲートが開いて、一人の選手がテイクオフしたら、その国の選手たちが後に続き、だいたいまとまってタスクをクリアしていく。日本チームもそうだったが、巡航(水平飛行)で10kmも遅い私は、どんなにフルアクセルで頑張っても彼らについて行くことができなかった。ちなみに「フルアクセル」とは地上のモータースポーツの常識と異なり、エンジンを一杯にふかすことではなく、飛行翼のピッチ角を最大限下げることでAoA(アタックアングル)を下げ、対気速度を増すことをいう。基本的に固定ピッチのパラグライダー翼で推力を上げると上昇はするが、速度は逆に落ちる。
ただちょっと面白いタスクが与えられた日が一日あり、これではそれなりの成績を残した。それは、排気量も燃料タンク容量も異なるエンジンに、正確に計量した等しい量の燃料を与えて、どれほど長時間飛んでいられるか・・・という、パラグライダーの競技では、その初期に流行したデュレーション(滞空時間競技)のようなものだった。
燃料の消費を抑えるには、上昇気流を利用する必要があり、これはつまりソアリング技術の基本だ。適当なサーマルを探し当てながら空中に存在し続けない限り、ガソリンが切れた時が地上に降りる時、ということになる。化石燃料をなるべく使わないという点では自然に優しいエコな発想なので、動力飛行主体のマイクロライトやPPGの競技でも、この種のタスクがなくなることは当分ないだろう。
ハンググライダーの時代から競技生活の長いチームリーダーのM氏や、若干20歳そこそこで恐れを知らないコンペティターのA君は、全ての種目で上位に食い込んでいた。私はというと、前に述べたような具合で、そうとうに不甲斐ない成績を重ねていたので、さすがにこの日は多少気合が入っていた。
ちょっと忘れられない光景は、この競技の最中に起こった。サーマル慣れしていない海外の選手の大半が次々に脱落(着陸)していく中で、地元・南アの選手の何人かは強烈なサーマルに果敢に突っ込んで滞空時間を伸ばしていた。彼らは私たち日本選手がサーマル拾いに慣れているということをよく知っていて、一人が良いサーマルを見つけエンジンを切ってセンタリングを始めると、たちまち追いかけて来る。
私がプラス5(毎秒5mの上昇率)程度の激しいサーマルに突っ込んだ時、数十メートル下には南アの選手が一人いて、ほとんど同じペースで高度を稼いでいた。およそリフト(上昇風)とシンク(下降風)は同居している。強烈なリフトの外縁部には、まず確実に強烈なシンクがあって、グライダーが運悪くこの境目に突っ込むと、翼の何割かは叩きつぶされる。
PPGでは滅多にないことではあるが、この時はまさにそれで、私は左翼を半分ほどを潰されただけですぐに回復したが、左下にいた彼は、翼のほとんどを無くした後、弛(たる)んだラインがエンジンユニットに引っかかり、サスペンションラインの何本かを切断した。バーンという音が聞こえるくらいだったからかなりの衝撃だったに違いない。センタリングの最中に近くの機体から目を離さないのは競技者の習いだ。私は少し上空からことの始終を見ていた。彼がいくぶん慌てながら、じゅうぶん不安定になった機体で急降下して行ったのは言うまでもない。
もう一つ忘れられない出来事は、重心移動型マイクロライト(トライク)の選手の死だ。詳しい状況を聞いていないのでこれ以上のことは書けないが、シングルシーター(一人乗り)の彼が競技中に事故死したことは、関係者の全てに悲痛な出来事だった。エアフィールドの端で華やかに揺れていた万国旗は、その日以降、半旗となって彼の死を悼んだ。参加者は皆、こういうことは、空の、特に無理をしがちな競技の世界では、誰にでも起こりうることを知悉(ちしつ)していた。
PPGは当初、モーターパラとかパラモーターと呼ばれることが多く、フランス人が芝刈り機を改良した小型エンジンを背負い、まだ滑空性能の悪いパラグライダーを飛行翼にして、山からではなく平地から離陸することができるようにしたのを始まりとする。80年代中頃のことだ。
この画期的な出来事は・・・といっても誰でも思い付きそうな発想ではあるが・・・たちまち日本のTVニュースでも紹介された。私は、たまたまそれを食い入るように観て心を躍らせたパラグライダー愛好家の一人だった。
日本の大沢製作所という小さな町工場が、カートの100ccエンジンで似たようなものを造って販売を始めるのに、さほど時間はかからなかった。「海外から輸入した文物を、たちまち消化し、さらに洗練しながら日本流のものを生み出す」という大和の時代から変わらない日本人の奇特な能力は、この世界でも存分に発揮された。数年のうちに、日本のPPG製品は世界中の飛行家があこがれの目で見るほど品質の高いものになっていた。飛行翼としてのパラグライダーの歴史もしかりである。
今回の大会には、カラオケで有名なDK(第一興商)のエンジンを5台持ち込んだのだが、会場でもその仕上がりの良さは際立っていた。光を放つような流麗なデザインが会場の一画にズラリと並ぶと、海外の選手たちの目はほとんど羨望の眼差しに変わった。結局、私が持ち帰る予定だった一台を含めて、これらのエンジンは大会終了と同時に現地で完売となった。
このエンジン付きパラグライダーの普及が進むに連れて、FAA(国際航空連盟)はその分類に戸惑うことになった。人間の脚で離陸着陸し、ちゃんとした着座装置を備えないものを、航空機の一分野である既存のマイクロライト(ウルトラライトともいう)の範疇に入れるのは難しい。かといって、小型ながらエンジンという動力を使うのだから、単なる滑空分野でもない。
まあ、自由を愛する人間の立場からはどうでも良いことなのだが、この問題は日本の幾つかの航空団体の間でも紛争の種となり、滑空を主体とする団体では「補助動力」として滑空分野に、マイクロライトの団体ではその傘下に加えようとして、FAAの方針に従い「PPG(パワード・パラグライダー)」と命名した。今回のPPG世界選手権大会が、マイクロライトと同時に行われたのは、世界の航空界を統括してきたFAAが、これをその一分野としてカテゴライズしたからだった。
ことの成り行きで、私はその両方の技能証や指導員の資格を持ってはいるが、こんなものは、人類の飛行の歴史から見ても、個人の自由への歴史から見ても、全くどうでも良いことの一つだ。
またまた脱線しそうになったが、これは今回の私の旅の2番目の目的「この分野における世界の飛行家の姿勢」に関係するので、ちょっと触れておいて、次回は最初の目的「競技」の中で起こった印象的な出来事を少し書く。
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