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寛太郎のカイト日誌

内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置

   
カテゴリー「国際」の記事一覧

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翻訳書

訳書『ドイツ人学者が見た日本国憲法』が本の泉社から届いた。昨年の秋から半年ほどかけて、ゆっくりとした翻訳の過程を私なりに楽しみながら仕上げたものだ。多少の苦労もあったが、たぶん人間にとって、深い楽しみのたいがいは多少なりとも労苦を伴うものである。

製本されたものを見てみると、多くの写真やイラストがきれいに配置されていて、編集者の力量が伺える。かなり見栄えが良く読みやすいものに仕上がっていた。もともとは脚注含めて倍ほどの量がある論文で、文章は決して柔らかいものではないが、日本国の根本法である憲法を、歴史的に相当に深く掘り下げて評価する内容である。興味のある方はご一読いただきたいと思う。

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訳書の出版

ずいぶん久方ぶりの更新になる。

過去17回に渡って連載してきたクラウス先生の著書の邦訳が『平和憲法と集団安全保障』を副題とする『ドイツ人学者から見た日本国憲法』と題して、本の泉社から出版されることになった。

著作権の関係で、これらの記事は近々削除することになるが、これに関連する事々については、また触れることもあるだろう。

平和憲法と集団安全保障 1

かなり面倒くさい部類の話である。しかし、このブログは内容の如何を問わない、およそ何でもありの体裁なので、これも一つの記録として何回かに分けて連載する。

元々、この翻訳は、歴史平和学者のクラウス先生から東京在住のK女史に託されたものであったが、ドラフト(原稿)が3分の2ほどできかけた頃に、お二人の間で何かしらややこしい経緯《いきさつ》があったらしく、残りの部分を私が担当することになったものだ。

原文は完全に論文そのもの。原文英語の原文はドイツ語で書かれドイツで出版され、クラウス先生ご自身が英訳されたものが英文でも出版されている。それなりにドイツ語の匂いが残っていて、ともかく一文が長く、回りくどい言い回しが多い。しかも、論文には付きものの脚注が、本文と同じくらいの分量ある。

なるほど、これは彼女が途中で嫌になるのも無理はないなぁ・・・などと思いながら、引き受けるからには最後まで、翻訳作業そのものをじゅうぶん楽しませてもらおう・・・ということで始めることにした。脚注にまでは手が回らず本文のみ。K女史の部分は彼女の領域なので、総目次以外は触れない。

私の拙い翻訳作法はまたどこかで書くことがあるかもしれない。ちょっとだけ触れると、その最第一は、「過程を楽しむ」ということであり、あらゆる「結果」は、地道な「過程」の連続の後に自ずとやって来る、ということだ。もちろんこの姿勢は翻訳に限ったことではない。過去でも未来でもない「今」を目一杯大切にしながら生きるという「生き方」とリンクしている。言うは安く行うは難いが、そういう姿勢を心のどこかに持っていると、それなりの効果はあるようである。

尚、とりあえず仕上がった全体原稿は、すでに幾つかの出版社に送られ、やがて一冊の書籍になるかもしれないし、ならないかもしれない・・・という段階である。巷間、憲法改定論議が話題になることも多い昨今ではあるが、この種の全く売れそうもないものを喜んで出そうという出版社が現れる可能性は極めて低いだろう。

ただ、これら記事に出会った方々が、日本国憲法の特大の美点ともいえる「平和主義」について、ドイツと日本の何だか不思議な縁《えにし》について、また「世界の平和とは何か」という大きな問題について、いくらかでも想いを巡らす機会となり、何らかの刺激になれば在り難いことだと思う。

大使からの返答

昨年夏、クラウス先生がドイツとアメリカの駐日大使に宛てた「独米共同声明の提言」について、アメリカ大使からの返答が先日届いた。(ドイツ大使とは既に会談済み) 以下、日本語粗訳。
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アメリカ合衆国駐日大使 東京 
2013年2月28日

拝啓 シルヒトマン博士:

貴殿からの書簡および安全保障上の取り決め事項に関する洞察力に満ちたご意見に、そして究極的には、世界的平和への状況を更に力強く喚起する姿勢に、この機会をお借りして感謝したいと思います。オバマ大統領がプラハでのスピーチで述べたように、アメリカ合衆国は核兵器なき世界の安全と平和を探求することを誓約しています。更なる安全保障と更に絆を強める世界への前進を目的とする我々には、より大いなる対話やコミュニケーションは極めて重要であります。

敬具 
ジョン・V・ルース (在署名)

 

竹島問題 6

竹島問題については、以前ここでも、クラウス先生の見解を載せた。今回は、彼の小論の日本語訳を掲載する。途中、「日韓両国の主張」の歴史的資料などについては、私的に省略や編集を加えた。脚注はすべて省いてある。

『竹島(独島)問題の解決に向けて』

歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン
日本語訳: 渡 辺 寛 爾
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日本・韓国間の竹島問題についての解決をICJ(国際司法裁判所)に委ねるという日本の姿勢は正しいと思う。この問題を考える上で、両国間の歴史を一瞥《いちべつ》することが役立つだろう。国際紛争を、戦争という手段ではなく国際法廷の評決に依ろうという提案がロシア皇帝ニコライ2世によって提唱され、まず1899年に第一回ハーグ会議、1907年には、ジョン・ヘイアメリカ合衆国国務長官の提唱で第二回ハーグ会議が開催され、共に公式な議論や評決もなされた、という事実を多くの人々は知らない。f8ccd06f.jpeg

初めての国際会議は、残酷な戦争期の後の平和な時期に持たれたという点でユニークな出来事だった。26の参加国には、日本、中国、ペルシャ、タイなども含まれていたが、韓国は1876年に日本の影響によって既に「開国」していたにもかかわらず、参加しなかった。当時の韓国はまだ、独立国家が集まって拡大を続ける国際社会の中で、一人前として受け入れられていなかったのである。しかしながら、1876年の「日朝修好条規《にっちょうしゅうこうじょうき》:江華島(カンファ条約」の第一款では「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」と明確に主権国家であることを認めていた。しかし、この「不平等条約」は、江戸末期に日本が西洋諸国から受けたような治外法権(朝鮮国内においては、国籍によって裁判の管轄を分けるが、日本国内においては朝鮮側の領事裁判権を認めない)も認めていたので、この条約は多くの国民に自国の主権を侵害されたものとして侮辱的に受け止められたのだった。58d35eae.pngNicholas_II_of_Russia_cropped.jpg

日本は韓国や中国の近代化について中心的な役割を果たそうと強く望んでいたが、中国と韓国の両国は変化を受け入れるのにあまり熱心ではなかった。その後進性のゆえに、中国は西欧諸国から「東洋の病人」、韓国は「不可解な隠居国家」などと侮蔑的なあだ名が付けられていた。もちろん、その一因が、西欧の植民地主義的優越感や帝国主義的業績から発生した、悲しむべき状況に起因していたことは間違いない。

日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを賢明に採用し、韓国の1884年の民衆蜂起・「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)や10年後の1894年の革命運動を支援した。1884年の政変に際しては、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいたのである。

しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、徐載弼は全ての家族を残酷な方法で殺され、彼は日本に亡命する。韓国の改革者たちの運動が失敗に終わり、中国でも、康有為(こうゆうい)の約100日間の改革運動「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」が潰されて日本への亡命を余儀なくされたことなどによって、彼らがハーグ平和会議で成しえたかもしれない、「西欧支配とのバランスをとる」という事業に貢献できなかったのは全く悲劇的なことである。

徐載弼は日清戦争で日本が勝利を収めた後で赦免され、1895年に韓国に帰国した。当時、非常に多くの自由主義を掲げる政治家が勢力を増していた。徐は独立運動を開始し、たちまち多くの支持者を得ることになった。1896年には「独立クラブ」が立ち上げられ、その年の4月7日には、最低1ページは英文を含む機関紙「独立」が発刊された。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本でも採用していた「東洋の道徳と西洋の学芸」を融合させるという考え方だった。その海外向けに表明されたアピールは、フランスの凱旋門にならって「独立の門」を建設することであり、それは1896年に始まった。次の年「独立ホール」が完成した。どちらの記念碑的建造物も現存し、重要な国家遺産となっている。

しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への政治的亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。当時の『週間神戸』には、「韓国の政治犯が日本に亡命している」と報道し、同時期、ハーグ平和会議が開催中であることも報じている。かくして、結果的に、韓国が1899年のハーグで、より大きな外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。

日本は韓国を巻き込んだ二度の大戦を行い、中国軍とロシア軍を港内に留めることで、自国のみならず韓国の独立と安全を保とうとしていた。ちょうど日露戦争の時期、アメリカのルーズベルト大統領が仲裁役として両国の敵対関係を収めようと努め、両国をハーグ国際会議へ招いた。日本は休戦に同意し、ハーグでの仲裁裁判に従う姿勢を示したが、勝利を確信していたロシアは招待を断った。そして、韓国政府が改革者たちを追放した後、事態は急速に悪化することになったのである。

日本の植民地政策について語るとき、心に留めておかなければならないことは、ドイツ人とは異なり日本人は西欧諸国の植民地での商業活動を禁止されていた、ということである。同時に、歴史学者の三輪公忠(みわきみただ、1929年 - )が指摘するように、「日本の植民地に関する考え方は、当初から自国の防衛に力点が置かれていたもの」であった。

アメリカ大使であったウィリアム・フィランクリン・サンズは、伊藤博文伯爵との会話の中でこの事実を詳しく述べている。伊藤博文は明治期における博識な政治家で総理大臣を4回経験し、当時は朝鮮総督府の長官であった。伯爵はアメリカ大使に「日本と中国と韓国が緊密な友好関係を築き、その中で西欧の知識を吸収することに恐らく最も成功した日本が、一般行政や西欧流の訓練の導き役となって極東連盟を創る」というような提案をしていた。

サンズはまた、彼(伊藤)は他者の意見を聞くことができる人間であったから、韓国の人たちを満足させる、より良い制度を新しく創り出すことができるかもしれない、とも考えていた。しかし、伊藤は1909年の10月、満州のハルピンで、韓国の愛国主義者(安重根)によって暗殺される。cf632841.jpeg

竹島(独島)の歴史に目を向ける時、私たちが思い出すべきことは、500年前には、いわゆる「国境」は今日ほど重要な意味を持っていなかった、という事実である。当時、今日のような国家(民族国家・ネイション・ステイツ)は存在しなかった。30年戦争(1618年か~1648年)の後、ウェストファリア条約が締結されてから、ヨーロッパの植民地主義勢力が他の地域に対して、国家主権の原理を押し付け始めたのである。それまで、主権という概念は、「境界」というより「通路」という別の意味を持っていた。実際、厳密な意味で「境界」など、ほぼ全く存在していなかったのである。

竹島問題についての日韓両国の主張は、両国政府の公式サイトはじめ、幾つかの信頼に足るWEBサイトに詳しく記載されているので、ここでは、そのサイト名称を挙げるにとどめる。どちらの主張に分があるかは読者の判断に任せたい。

・ウィキペディア『竹島』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%B3%B6_(%E5%B3%B6%E6%A0%B9%E7%9C%8C)
・日本国外務省『竹島問題』 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/ 
・韓国『韓国之独島』(英語・日本語) www.dokdo-takeshima.com

ともかく、先にも述べたように、ここで重要なことは、これらの領土を巡る議論は、ヨーロッパの国家制度が、国際関係における外交政策で支配的な「原理」になってから後のことだということである。いずれにしても、歴史家のロナルド・P・トビーが指摘しているように、1638年以降、日本は東アジアにおいて政治的存在から消えることはなかったし、韓国を含むその他のアジア地域との外交関係も継続していたのである。さらにトビーは、歴史学者の朝尾直弘(あさお なおひろ、1931年12月17日~ )の名を挙げ、彼が「(日本の外交姿勢が)鎖国政策を採っていた江戸時代でさえ、その発展の中心的要因の一つを構成していた」と解する最初の人物であったことも指摘している。Hague_Secret_Emissary_Affair.jpg

ハーグ平和会議の話にもどろう。1906年にロシア政府は韓国政府にも招待状を送っていた。しかし、他の国々は前向きな返答を遣(よこ)したにもかかわらず、その年の10月末になっても韓国からの返答はなかった。1905年以降、日本は韓国の外交権を摂取していたから、韓国が招待に応えることに反対し、結果的に参加が許されることはなかったのである。しかし、会議の前に、3人の密使が投げかけた日本の対韓姿勢に対する疑問は衆目を集めた。

だが、残念ながら彼らの主張はほとんど支持されることなく、数年前に地位を得たばかりの大韓帝国皇帝が退位すると共に、この件は終焉(しゅうえん)した。7月20日のニューヨーク・トリビューン紙には「3年前、日本によってロシアの侵略から守られた韓国は、その財政政策や外交政策を日本政府を通じて行うことに合意した。その換わり、日本は韓国領土の保全と皇帝の地位を保障しなければならないことになった。この合意事項は全世界が承認したものである」とある。この事実は当時、世界の常識であり(15)、ハーグに集った平和主義者たちにとっても当然の了解事項であった。

今日興味深いことは、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の密使(※)が、韓国への内政干渉に抗議したということの他に、ハーグ平和会議での目標、すなわち、軍備縮小や国際法廷の開設を支持しようとしていたらしいということである。ロシア、イギリス、フランス、アメリカ(そしてたぶん中国も)を含む44カ国の大多数の国々が、すでに1899年の第一回ハーグ平和会議において、もしそれがなければ国際紛争を収めることができず戦争に至るであろう国際法廷の創設に力を結集することに賛同していたのである。

彼らは、国際的な法秩序が力を増せば、軍備縮小は達成可能であると信じていた。それが、当時の参加各国の大きな希望であり目的でもあったのである。ハーグ平和会議は、国際社会のシステムに本質的に新しいパラメーター(要素)を与えるものだった。これらの動きが、まだ帝国主義が支配する時代に起こったことであり、ハーグで成された努力は真剣に受け止められることなく、多くの点で軽視されたという認識は、実際のところ的外れである。事実は正反対なのだ!

そこで、疑問なのは、その韓国からの密使が、この会議の2つの目標、軍備縮小と、同意に至らない場合には仲裁に服従するという事前確約について、どの程度、支持賛同しようとしたかである。唯一可能な推測は、彼らが1899年の第一回会議すでに案件となっていたこれらの目的についての知識を持っていたということである。残念ながら、当時、ドイツが国際法廷の開設を拒否しただけでなく、韓国や中国の改革運動者たちも、ハーグでの努力を支持することができなかったのである。

1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、ハーグに集まった賢明な多数派を支持するという動機に拠っていると推察できれば、それは素晴らしいことである。この推測を裏付ける何らかの資料、すなわち、彼らの行動が単なる愛国主義者の熱狂から生まれたものではなかったとする資料があれば、それは今日の韓国政府の決定を容易にしたかもしれない。軍備縮小と国際法廷という2つを主目的を、彼らが知らなかったということはないだろう。

過去に何があったかはともかく、今日の韓国は、1899年と1907年に、大多数の国々が達成しようとしたことに賛同の意思を表すことはできる。もっとも、これら2回の平和会議は、少数の列強国がその国家主権の縮小に同意せず、したがって、判決に拘束力を持つ国際法廷の開設に反対したことによって、結果的には失敗に終わった。

しかしともかく、各国の結束力は弱いものだったにしても国際法廷は創られたのである。ハーグでの平和計画は、1~2の国に続く実に少数の反対派の同志国によって台なしにされたのであるが、今日の状況は正反対で、1~2の国に続く少数の同志国でさえ、武力によらない恒久的な平和を達成することができるのである。韓国は、国際秩序の維持を目指し、すでに「法の支配」が優位を占めている国々の一員となるべきである。

今日では更に多くの国々が、国際紛争を収めるために、脅威や武力の使用ではなく、国際司法裁判所の司法判断を無条件に受け入れる方向に向けて動かなければならない。それが100年以上も前のハーグ平和会議の目標でもあった。竹島問題だけでなく、ロシアとの領土問題や尖閣諸島の問題などについても、最終的にはこれ以外の解決方法はありえない。

現在の国際司法裁判所(ICJ)は国連システムに不可欠の機関であるが、その判決を義務的に受け入れるかどうかは当事国の選択により、加盟国が公式に「法律的紛争についての裁判所の管轄を同一の義務を、受諾する他の国に対する関係において当然に且つ特別の合意なしに義務的であると認める」(国際司法裁判所規程・第36条2項)(※)と宣言する必要がある。

日本は1958年と2007年の2度に渡りその「宣言」をした。それは、多くの不満を持つ韓国を驚かせ、韓国は未だ宣言しないでいる。今はまさに、韓国政府がICJの司法判断に従うことを義務であると宣言している他の国々に従い、この宣言を成して、国際的な法秩序の強化に向けて歩みを進める時である。

また、国際連合はもっと精力的に「共有遺産」の理念を実行に移し、国際協力を促進し、自然資源や大陸棚(鉱石・石油などの鉱床)などの探索・利用に関しても、関係国間の調整努力をしなければならない。竹島など、紛争の場となっている地域を国連管理の「共有財産」にする、と宣言するのも良い考えかもしれない。

竹島問題 5

今回は、竹島問題についての、クラウス先生の簡単な見解を日本語訳したものを記す。いくらか私的に加筆・修正してある。彼は、その解決策を100年以上前の「ハーグ国際平和会議」の時代にまで遡りながら論じる。

この記事を掲載予定だったある雑誌の編集長から、「読者はさらに“客観的記述”も求めているから、日韓併合以降の歴史背景にも触れて欲しい」という要望があったが、先の記事でも述べたように、それは双方の主張を並列表記するに過ぎないことで、私の趣向ではなく、今回のクラウス先生の意図にも合わないだろう・・・とお伝えして、お断りした。

少なくとも、この100年ほどの国際社会における韓国政府の外交姿勢は、残念ながら明治以降、日本政府が採ってきた「富国強兵策」や、西の隣大国の「中華思想」に大きく翻弄され、「自由主義・民主主義」という点で多少の遅れをとっていることは否定できないように思える。

今後の未来を予測することは難しい。韓国の隣国は日本や中国だけではない。韓国が北朝鮮との関係で、いつまでもナショナリズムの大勢から脱却できなければ、次のステップへの基本的な条件は変わらないだろう。しかし、更に多くの国民が国際平和の理想を強く意識するようになれば、政府の姿勢も変わらない訳にはいかないだろう。44955db5.jpeg

詮ずるところ、全ては、一人ひとりの国民、つまり「一人の人間の心の姿勢」の問題に帰着するように思われる。

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『竹島(独島)問題の解決に向けて』

竹島(独島・ドクト)問題の解決をハーグの国際司法裁判所に委ねる、という日本の方針は正しいと私は思う。日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを、賢明に吸収しようとしてきた。韓国では、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいた。

かくして、日本国は1884年に起こった李氏朝鮮を打倒するためのクーデター「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)を助けることになったのである。しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、彼らは亡命を余儀なくされる。

1890年代の韓国と中国における改革運動の失敗によって、これら二国はハーグ(オランダ)の国際法廷の創設に貢献することはできなかった。公式なハーグ平和会議は1899年と1907年に開催された。日本、中国、ペルシャ、タイなどアジア各国からの参加も得て、国際紛争を戦争と言う手段によらずして収めようという理想を掲げたこの国際会議は、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、(中国でさえも)など大多数の国々の全面的な支持を得ていた。しかしながら、ごくわずかな少数派の反対によって完全に結束された力となることなく終わることになる。

1895年、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)は亡命を終えて帰国し、翌年の春、「独立クラブ」を設立し、4月7日には『独立』という、少なくとも1ページは英文を含む雑誌を発行した。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本も採用していた「東洋の道徳と西洋の学芸」を融合させるという考え方だった。しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。近い関係にあったロシアが、韓国を1899年のハーグ国際会議に招いたにもかかわらず、結果的に、より強力な外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。

1906年の夏、ロシア政府は翌年に予定されていた第2回ハーグ平和会議に再び韓国を招いた。会議では、軍備縮小や国際紛争の平和的解決に向けた国際法廷の創設など重要な事項が継続協議されることになっていた。1905年の段階で、日本はすでに韓国の外交権を摂取していたから、会議は結果的に韓国が参加することを認めなかった。しかしながら、その初め、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の使節は、韓国が日本に対して抱く疑義についての各国の注意を集め、なんとか日本を守勢に置くことができたのである。今日、興味深いことは、彼らが日本政府の行動に抗議したということだけでなく、ハーグ平和会議の意義を支持するという意見を表明したということである。

1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、国際紛争を平和的に解決するという動機に拠っていると推察すれば、それは素晴らしいことである。今日では、はるかに多くの国々が、威嚇や武力によってではなく、国際司法裁判所の司法判断を断固として受け入れなければならない、という方向に向かって進んでいる。それはすでに100年以上前から世界の有志各国が目標としてきたものであった。竹島(独島)を巡る紛争の解決法はこの他にはない。
 
歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン
日本語訳:渡 辺 寛 爾

竹島問題 4

竹島問題の歴史的経緯について少し触れておこうかと準備していた近頃、にわかに尖閣諸島の周辺が騒がしくなってきた。最初の記事で述べたとおり、領土問題についての私の総論的意見は、尖閣でも変わらない。しかし、各論の一部については少し異なる。それについては、また気が向いたときに書くことがあるかもしれない。

もっとも、歴史的経緯といっても、両国間で何が起こったか、つまり過去のできごとを時系列で列挙することに、私は現在のところ、大きな興味を持たない。

過去に事件はあったろう。しかし、それらの事件に意味や評価を与えるのは現在の人間である。人間の意識は時と共に変化し、国政の方針はおおむね国益と共に変化する。

だから、ある歴史的事件をどんな立場にも属することなく客観的に語ることなど、およそ不可能なことだ。それでも、そこに何らかの客観的真実性を見出そうとするなら、とりあえず、ある事件に対する当事国の(主観的)主張を並列的に列挙することから始めるしかないだろう。

そして、事件・事実に対する評価を並列表記することは、学問的手法としてはあり得ても、意見・主張の表明にはなり得ないし、私の趣味にも合わない。それを趣向とする方はWEB百科事典をご覧頂きたい。おそらくこの分野の専門家が極めて詳細に解説してくれている

前回と前々回の、国際関係における覇権や利権に対する私の考え方は、理想的に過ぎるのではないか、という見方もあるにちがいない。たしかに、複雑怪奇に見える現実世界は理想世界よりもやっかいで、そう簡単に一筋縄では扱い切れないだろう、という議論も理解はできる。1253f920.jpeg

しかしはたして、ほんとうに国家間紛争の現実は、平凡な人間の思慮や方策が容易に及ばないほど、複雑で怪奇なものだろうか・・・私はそうは思わない。

逆に、これらの現実の本質は、遠大な理想の仕組みよりも、はるかに単純に見える。善悪で語れば、つまり、「覇権」については強者が善で弱者が悪。「利権」については利益が善で損益が悪。これだけのことではないのか・・・。

そして、カビの生えたナショナリズムに執着する人たちは、未だにこの極めて近視眼的な善悪基準から脱却できないでいる。世界の住人の意識趨勢は、とうの昔にこんなものなど飛び越えているかもしれないのに。

理想と現実に関係して・・・現在から未来に向かって進む人間の姿勢には二つの種類があると私は思う。一つは現実の延長線上に理想を描く姿勢。一つは理想に向かって現実を導く姿勢。この場合、理想を目標と置き換えても同じことだ。

たとえば、一年後の貯金額を目標としよう。現在の現実は毎日100円の貯金しかできないのだから、一年365日で総額3万6千5百円が限界であると考えてそれを実行すれば、その通りの結果になるだろう。

一方、まず一年後の目標を100万円に設定して、現在の現実で何をすべきかと考え、それなりの工夫や努力をすれば、その結果が100万円に至らなくとも、3万6千5百円よりは大きな金額が残ることになるだろう。

夢や理想は大きければ大きいほど良いのである。たとえその全てが現実にならなくとも。もっと言えば、夢や理想は、それを持つこと自体に意味があり、おそらく、それに向かって進む過程そのものの中に、労苦もあるだろうが同等以上の幸福もある・・・ということである。

竹島問題 3

次に日本政府は、まさに「大人の対応」を続けるべきである。あくまで冷静に対話に向けての姿勢を崩さないこと。間違っても、彼らと同じレベルで自衛隊や海上保安庁を使ってはならない。

「大人の対応」の大人とは、器量の小さい小人(しょうじん)に対して、広い教養と深い人格を体した君子と同格の「大人・だいじん」と考えてみたらどうか。

現在の韓国の政権に対話を望むのは酷だろうが政権は変転する。当面、対話が持てない、あるいは対話によっても解決できないならば、その判断をICJ(国際司法裁判所)に委ねることが、最も順当な対処方法になるだろう。この点、野田首相の先日の声明は、良識ある国際社会の一員として正しい主張だと思う。7486aaa7.jpeg

しかし、今の韓国政府が、その訴訟手続きを進める上で必要な「共同提訴」すら拒否している現状を見ると、日本政府はさらに「忍耐強く」説得を続け、それでも韓国が強硬姿勢を取り続けるならば、「単独提訴」するしかないし、それで充分、国際社会の良識の理解を得ることができるはずだ。

ただ、「共同」にしても「単独」にしても、国際法上の裁判手続きや判決の効力は、国内法のそれと大きく異なる。ICJは国連の内部機関であり、その国連自体が創設以来抱え続けている「国家主権」の問題がここでも壁になるからだ。国民の人権と異なり、国家の主権を制限する強制的手段は今のところ存在しないし、国際連合が国際連合(連邦)政府と呼ばれない理由もここにある。

「主権」という概念は幾つかの意味を含むが、めんどくさいのでここでは触れない。この文脈に従い、要を取って言えば、国民は強制力を伴った法律類に基いて国家によって統治されるが、独立国家を統治する権限は現在の国際組織には与えられていない・・・ということだ。

しかし、だからこそ、一国を代表するような方々は、自由や独立や敬愛の真髄を身に付けた人格者であって欲しいと願うし、そうである義務を国民に負っている。それが「成熟した民主国家」というものだろう。かの国やこの国が民主国家として成熟しているかどうかは、小さな疑問として残しておく。

(おそらく4につづく)

 

竹島問題 2

さて、竹島問題について、私の各論的意見だが、これも結論から先に述べる。

まず、韓国政府は、竹島を「実効支配」しているとする根拠、つまりは覇権《はけん》の最たる軍隊やそれに関係する施設を全て撤収すべきである。たいがいは静かに道理を語るあの「姜尚中」(カン サンジュン)でさえ、この「実効支配の継続」を根拠に韓国領であることを主張している事実に私は驚く。

儒教が浸透しているはずの彼の国の指導的立場にある方々が、いつの間に『王道は覇道《はどう》に優る』という孟子先生の教えを忘れたのだろう。王道とは仁愛に基づく治世のことで、対外的には隣国を敬愛する姿勢に立ち、対話による外交に拠るということになる。覇道とは、言うまでもなく、有無を言わさぬ力(武力)による支配姿勢のことで、対外的には、まさにこの「実効支配」がそれに当たるだろう。

この場合、「民間人も居住し交通しているではないか」などという主張に意味がないことは、実際に当地を訪れなくとも、グーグル地図ででも一瞥すればすぐ分かる。竹島二島は人間が生活できるような島ではない。

軍隊による銃撃も砲撃も、国家警察による逮捕・監禁などもなければ、このそう面白いこともなさそうな岩の塊にでも、何らかの興味を持つ人々は、どちらの国の側からも好きなように近づけるようになるだろう。3c60fb2f.jpeg

特に漁師の方々はその機会も多いだろうから、たまには船を寄せ合って一緒に一杯やれば良い。まあ、三日もすればいわゆる「同舟の仲」になることは間違いない。小さな漁村に育った私は、漁師の心根をかなり良く知っている人間の一人だ。どの道、同じような人間が同じようなことをしているのだから、互いに心を開いて仲良くなるのに、言葉の違いはほとんど問題にならないだろう。

「漁師には漁業利権の問題があるではないか」・・・という意見もあるだろう。しかし、この利権は、資本主義あるいは商業主義を命脈とする企業の論理で、農業など土地に梗塞される営みとは遠く異なる、広大な海を舞台とする漁業の本来的営みを忘れた議論ではないか。

境界線を地面に引くことはできるかもしれないが、海面に引くことはできない。米の味は長期間保てても、魚の鮮度は一日で落ちるのである。江戸庶民の「宵越しの金は持たねえ」じゃないけれども、過去数千年に渡る漁師の気質は、富の蓄積からは程遠い、概して極めてサッパリしたものである。利権云々に最も左右されにくい「民間外交」は漁師の交流にあり、と言っても良いくらいだ・・・と私は思う。

ちなみに我が家は、韓国からの大学生を二度ホームステイで受け入れたことがある。彼らは漁師ではなかった。しかし、間違いなく、先に挙げた「王道」を選択し、「民間外交」の一端を担う人たちの一類であった。

(たぶん3につづく)

 

竹島問題

このブログでは、極力、特に日本が関係する政治や権力の世界の、余りにバカげた話は持ち出さないようにしようと思っていた。

しかし、最近話題の竹島問題についてのクラウス先生の記事小論に幾らか触発された・・・ということもあるので、私もこの「国際問題」に少し触れてみようと思う。私の意見は「尖閣諸島」についても似たようなものである。f3695a27.jpeg

領土問題をベースにする国家間の対立は、およそ「国家」という人間集団の中で、いわゆる「権力の座」にある人たちが提唱し、その唱導に賛同あるいは雷同する「国民」が一定数に達することで始まる。

これは現在進行形の歴史的事実だ。もっとも、そんな人たちは、たいがいマスコミの宣伝や国民の情緒的反応を表にして、自らの意図を裏にするのが常道なので、ことの成り行きを正しく見ようとする人は、多少とも注意深くある必要がある。

そもそも国家というものが存在しなければ、「主権」も「領土」も「国民」もあり得ないのだから、こんな問題は発生しないことは言うまでもない。

だから、結論から先に言うと、この問題を根本的に解決する方法は「国家が無くなること」であり、その国家の存立を支える「国家意識」が、統治する側でも統治される側でも、より深くより広大な「世界市民意識」に吸収され昇華されることしかないだろう・・・と私は思う。

ここでいう「国家意識」とは、集団の構成員がその主たる存在基盤を、国家という制度に求める意識であり、「世界市民意識」とは、いわゆる「コスモポリタン」としての自覚のことで、自分が一つの国家の国民である前に(あるいは同時に)、全世界の住民(世界市民)であるとする意識である・・・と定義しておく。

ユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」とある。しかり、あらゆる人為的制度も人の心の中から生まれて、その外側に形を作り、制度化(法制化)されることで固定化されるのである。

したがって、私の総論的意見は、まことに単純ながら以上を結論とする。

しかし現実世界では、歴史的な経緯や覇権《はけん》や各種の利権が渦巻いている。複雑にもつれたカイトのラインを元に戻すのに苦労することが多いように、根深く錯綜《さくそう》する事情を調整するには、一定の手順を踏んだ、相当に根気を要する作業が必要となるだろう。

次の各論的意見では、少しその辺り触れる。

(つづく)

 

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プロフィール

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寛太郎
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風読み・読書・自転車ほか多数
自己紹介:
瀬戸内の小島生まれです。学生時代は国際法を少し。数年間の堅い団体職の後、子供好きが高じて学習塾を、風が好きでスカイスポーツのイントラを、等と趣味と仕事が重なる生活を数十年経験しました。55歳引退計画に従って現在は基本的にフリーですが、相変わらずあれこれ忙しくしています。

生活方針は「無理をしないでゆっくりと」およそ中庸を好みます。東西を問わず古典思想の多くに心惹かれます。まずは価値相対主義を採用し事物の多様性を愛しますが、ミソとクソを同等にはしません。モノゴトには自ずと高低浅深があり、その判断基準は「大自然の摂理と全ての生命(いのち)の幸福」の中にあると思います。敬愛する人物は古今東西少なからず、良寛やB・ラッセルを含みます。

ナチュラリストと呼ばれることを好みますが、人間が創り出した道具類にも大きな関心を持ちます。人間語だけでなく、あらゆる生き物たちの「ことば」に興味が尽きることはありません。60~70年代ポップスや落語を聞いたりすることも好きです。

・著作:『空を飛ぶ・一つの方法』
・訳書:『リリエンタール最後の飛行』
・訳書:『個人と権威』

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