内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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民主主義とは政府内部で権力を排除することではなく、共同体全体の権威を基にした法との協調によってのみ、権力の使用が許されることである。世界的な民主主義における権力とは、世界的共同体によって権威付けられることによって許される限りにおいて、使用され得るものである。
-クウィンシー・ライト『過渡期における政治的状況』
アメリカ合衆国・日本大使への書簡 2012年7月14日付
拝啓、H・E・ジョン・V・ルース大使 閣下
昨年の九月の貴殿への書簡の中で、私は国際連合憲章が想定した「過渡期」に踏み出す必要性について示唆しました。私はまた、五常任理事国が。そのプロセスを開始することがほとんどできなくても、ヨーロッパ各国は強力な立場にある、という私の信念についても述べさせて頂きました。
先日、東京において、私はドイツ国・日本大使のフォルカー・スタンツェル博士と、「過渡期における安全保障の合意事項」について会談しました。続いて、彼に宛てた書簡(同封)の中で、アメリカ合衆国とドイツ国とが来《きた》る「広島の日」に、旧ドイツ国によって引き起こされた先の戦争全体への謝罪と、戦争終結の手段として実行された原爆投下に至る経緯の概要などを含めた「共同宣言」を発表することを提言しました。私はすでにインドの日刊紙・ステイツマン紙上に同趣旨の小論を寄せています。
これまでにこのような提案が成されたことがあったかどうか、私は知りません。しかし、かつて、アメリカの指導者たちの心の中には、戦争が全面的に廃絶されるべきものであること、その目的のためにこそ原爆の使用が手段化されたのである、という考え方があったように私には思えてなりません。これに関連して、当時の合衆国大統領、ハリー・トルーマンは軍隊に向けた彼の対日戦勝演説の放送の中でこう述べています。「我々は地球上から戦争を廃絶しなければならない。地球が我々が知っている形で存続するのであれば。」
(同様の意図を合衆国が持っていたことの証拠は、アイゼンハワー大統領のスピーチの幾つかにも、1961年のマクロイ-ゾーリン合意の中にも現れています。)
私は、原子爆弾がもしもドイツに落とされていたら、この戦争廃絶という目標は達成されていたに違いないと確信しています。しかし、日本への原爆投下について同様のことを言うことはできません。恐らく、原爆を落とされたという事実は、その後日本が、自らの憲法の中で、戦争廃絶に向けての課題を扱うための視座に力を貸すことになったのでしょう。
先の書簡で述べさせて頂いたように、私は、この点に関して、両国がその歴史的に明白である、「特別な責任」を負うことによって、また、集団安全保障システムを目的とし、法的に「安全保障上の主権委譲」を定めた1949年憲法の趣旨によっても、ドイツ国がその移行過程への導因になると信じています。
(この“安全保障上の主権委譲”という言葉は、私が信書を交換しているジャン・ティンベルゲン教授が、国連安全保障理事会に向けて使った用語です)
私はまた、かつて植民地主義を採っていたフランスやイギリスが、インドのような偉大な国の代理役となるかもしれないことを提案させて頂きました。インドは、国連憲章の27条2項による「手続き条項」に従い、各国の合意さえあれば、当然、安全保障理事会の常任国の候補になってしかるべき国であります。
この目標達成への道のりは遠いものになるでしょうが、今はまさに、その過渡期に踏み出す時であり、ドイツと米国が共同声明を発表する時であります。
この件について、貴殿が米国政府に働きかける機会を見出して頂ければ、私の喜びこれに優るものはありません。
敬具
自由・独立的、活動家かつ研究家: 歴史平和学者、クラウス・シルヒトマン
日本語訳: 渡 辺 寛 爾
同封:
・駐日ドイツ大使、フォルカー・スタンツェル博士宛ての書簡
・日刊紙ステイツマンへの寄稿記事
・クインシー・ライト著『過渡期における政治的状況(1942年)』
・IPRA(International Peace Research Association:国際平和研究協会)での私の講義(抜粋)
○カーボンコピー送付:駐日ドイツ大使、五常任理事国大使館、インド大使ほか
エアコン嫌いの私が、昨夏から事務所に導入した「換気扇」の効き目は素晴らしく、昨夜も夜間28℃程度の室温を維持してくれたおかげで、多少面倒くさい話しに流れて熱くなりそうだった頭も、ほどよく冷却されてちゃんと眠ることができた。今朝は、続きにかかる。
何が言いたかったのか。クラウス先生の紹介に関係しながら、「体験」と「認識」は深い関係にはあるが、同時に、別次元の問題であるということ。モノゴトを主観的に体験しながら客観的に認識評価することは、まず不可能であろう・・・というようなことだった。
これを私好みの「相対主義」の観点から身近な例で語れば、「リンゴの中に住んでいる虫は、リンゴの姿を知らない。だから結局、リンゴの養分で生きてはいるが、リンゴの味もリンゴ自体を理解することもできない」・・・となる。
これは、まあ当たり前といえば当たり前の話なのだが、私も含めてたぶん多くの人たちがしばしば、この「当然の事実」を忘れて、つまらない間違いに気付くことなく、無駄な苦労をしていることがある。
私たちは2012年の現代に生きていて、しかも、この現代は1945年の現代と確実に連続している。更には1868年の日本近代とも間違いなく連続している。今私たちがどのような時代状況の中にいるかを知るためには、日本国やその他の国々が驚くべき愚劣さを示したあの時代や、それに至る筋道を付けたあの時代について知ることは、必然的要件になるだろう。
そしてまた、過去と未来は現在の一点を挟んで連続しているから、過去を知り現在を知れば、ある程度の未来は予測できるようになることも、容易に結論できるだろう。あの大戦が勃発したとき、ほとんどの日本国民は躍り上がって喜んだが、加藤周一は言うまでもなく、その他極めて少数の「当然の事実」を知る人たちは、その結末を確実に予測していた。あの時代、未だ日本国内から一歩も出ることなくして、である。
クラウス先生の今回の小論のタイトルは『ドイツ人は井の中の蛙であってはならない』だ。これはもちろん、インドの偉人ガンジーの言葉を踏んで、先生流に『荘子』の「井の中の蛙、大海を知らず」をもじったものだが、おそらく彼も、多くの先人たちがそうであったように、横に広く、祖国を離れて南ヨーロッパをヒッチハイクし、精神の大国・インドを何年間にも渡って放浪する過程で、初めてドイツを発見し、縦に深く、歴史を研究するに従って、ドイツ国と遥か東方のちょっと変わった国・日本との、ただならぬ関係性を発見したのだろう・・・と思う。
先生とは来々月にも再会する予定なので、この辺りの事情についても、少し突っ込んだお話しをしてみたいと楽しみにしている。
2010年8月28日 インド・「カルカッタ・ステイツマン」特別寄稿
『敗戦から65年:ドイツ人は「井の中の蛙」であるべきではない』
歴史平和学者 クラウス・シルヒトマン 著
今年(2010)、第二次世界大戦後初めて、国連事務総長とアメリカ合衆国の日本大使がそろって広島を訪れ、毎年行われる原爆の記念式典に参加した。オバマ大統領は、彼の在任中には訪問することを約している。
ニューメキシコのロスアラモス実験場で、核科学者たちによって開発された原子爆弾は、1945年、すでにドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結した後、日本を降伏させるために投下されたのだった。ニューメキシコの原爆工場で働いていた研究者により成るロスアラモス科学者協会(ALAS)は、1945年の11月、「この原子爆弾が多くの国々に所有された世界では・・・それは報復への恐怖によってのみ使用が躊躇《ためら》われるのであり、世界の恐怖と猜疑心が最終的に爆発に至ることは避けられないだろう」・・・と警告していた。
幸いなことに今日では、グローバルゼロ運動は公式な世界政策となった。しかし、ロスアラモスの科学者たちが考えていたのは、核が「世界的権威によってコントロールされること」で、そのためには、「ある程度の国家主権の制限」が必要になるということだった。しかし、グラウンド・ゼロから65年たっても、バン・キー・ムーン氏(国連事務総長)が広島の聴衆に語りかけたように、私たちは「いまだに核の傘の下で生きていて」、主権国家はその「主権」の一部たりとも手放そうとせず、必要ならいつでも戦争を始める権利をほとんど永久に捨て去ろうとはしない。
それでも、広島と長崎の惨状を見て、世界中の政治家たちは、国際問題を戦争で解決することはすでに適切な方法ではないと考えていた。戦後のドイツ連邦が、新しく創設された国際連合の要請に沿った軍隊制度を持つことを拒否した理由の一つもそうだった。いくぶん日本国憲法に似て、新しく作られたボン基本法には、当初、軍事・防衛を制度化する条項は含まれておらず、それに代るものとして、国連の方針に沿って国家の主権放棄を進める国際機関の強化に備えていた。そしてそれは結果的に、国家からその平和と安全を確かなものにするために用意しなければならない過大な軍事費という重荷から解放させるものだった。アインシュタインが言ったように、この時期は「私たちの(身近な)屋根の上から世界中の政府に向かって叫ぶ」時だったのである。
ガンジーはまだ戦時中の1942年8月のインドで、市民的不服従運動を導きながら、すでに次のように宣言している。「我々は井の中の蛙《かわず》でありたくはない。我々は世界連邦の樹立を目指す」・・・と。1947年のドイツでは、国際法の教授でもあり、ワシントンと東京で長く外交官を務めたウィリアム・グルーが、ドイツもまた「国連憲章が有効に使われ得ることを目指して、国際連合が連邦制の世界機構に発展すること」に反対しない・・・と述べた。
しかし、グルーは国家社会主義のファウスト(富と力のために精神を失う者)の天才的信奉者であるカール・シュミットの影響下に入ることになった。グルーは中央ヨーロッパをドイツ主導のものにすることを思い描き、同盟国が世界的機構を創り上げようとする努力に力を尽くすことはほとんどなかった。その後、東西ドイツは冷戦下における超大国間の猛火のごとき熾烈《しれつ》な対立の中に長く留まる事になるのである。
1950年、朝鮮危機が訪れたときに初めて、国連の集団安全保障システムが機能するかどうかが、きびしく試されることになった。国連加盟国は「その責任の履行を開始するために」、国連憲章・第106条に各国の注意を集め、透明な安全保障の合意を発動させるべく、安全保障理事会を機能させるプロセス、つまり、「特別協定成立前の五大国の責任」を履行すべきであった。
その移行過程では国連への権限委譲が必要になる。ドイツ憲法下で規定された国連への代表団の派遣は世界平和に向けて効果的に歩みを進める最も重要な第一歩となるべきであった。しかしこの年、西ドイツは過去の過ちを補い、自らが課した苦境から逃れるチャンスを逃した。過去の例は、1899年と1907年のハーグ平和会議にまで遡る。その時、大多数の参加国の願いや平和運動に反して、幾つかの大国が結束して国際裁判所の設立を拒否した結果、第一次世界大戦の勃発を招くことになったのである。
戦後ドイツで、長期に渡りキリスト教民主連盟の党首を務め、連邦首長でもあったコンラッド・アデナウアーは、ドイツの再軍備に熱心であった。グローバルに考えることができなかったのか、考えたくなかったのか、彼はカール・シュミットがそうであったように、ヨーロッパを「世界の母」であり、「国家主義の萌芽」の責任はフランス革命にあって、その結果、ドイツ国家社会主義とロシアの共産主義の過多およびイデオロギー的な追撃を与ることになったのだと考えていた。アデナウアーの最も重要な外交顧問がウィルヘルム・グルーであったことは驚くに足りない。
広島への原爆投下に続いて、ラジオ東京は以下のようなアメリカの新聞記事を放送した。「実質的に、人間も動物も、生きとし生けるもの全てが、文字通り、焼き尽くされた」。後に合衆国エネルギー省は、広島の即死者数は7万人、長崎では4万人と見積もっている。しかし、それに続く検閲によって、その惨状を現す死体や痛々しい犠牲者などの写真類の報道は禁止された。それらは、ドイツのアウシュビッツでのホロコーストを思い出させるものだったからである。天皇ヒロヒトはこの「新型で恐ろしい兵器」について、「多くの罪の無い生命を奪い、計り知れない痛手をもたらす力を持ったもの」と言及し「我々は戦い続けるべきであろうか?それは究極的な破局をもたらし、日本国を消滅させるだけではなく人類文明そのものの絶滅を招くかもしれない。」と語った。そして、8月14日、彼はポツダム宣言の受諾を命じたのである。
日本が戦争犯罪を犯していたのであれば、日本を降伏させるために原爆の投下が必要だったのではないか・・・という議論がいまだになされている。しかしながら、1945年までの戦争では、一度それが起これば、今日のようには制御されることがなかった、という事実を理解しておく必要がある。戦争を終わらせるためには「何でもあり」であった。しかし、これは日本人全体を悪魔とみなすことを正当化しない。なんにしても、第一次世界大戦において日本は同盟国の一員であったし、戦争を終結させるために全てが許されるというルールはすべての日本国民を絶滅させることに如何なる許可を与えるものではない。
合衆国国務大臣だったウィリアム・フルブライトやジャスティス・オーウェン・J・ロバートと共に、アルバート・アインシュタインが、1945年の9月、ニューヨークタイムズ紙上の公開文書で、人類史上初の原爆投下は「広島市を破壊しただけではなく、我々が継承してきた時代遅れの政治理念まで破壊した」と述べたことは、よく知られていることである。
しかしながら、アインシュタインは後に後悔の念と共に「原爆は全てを変えたけれども、我々の考え方まで変えることはできなかった」と述べている。彼はまた、「私は常に日本への原爆使用を批難してきた。」とも書いている。元国務長官だったヘンリー・L・トンプソンは、1947年、原爆は「恐るべき破壊兵器以上のもの・・・心理的兵器である」という見解を持っていた。第二次世界大戦後も、また米ソの冷戦時代を通しても、同様の状況は続いているのである。
1946年1月24日、首相・幣原喜重郎は、ダグラス・マッカーサー元帥に対して戦争廃絶に向けての準備を提言している。これが後に、日本国憲法第九条(平和条項)となった。彼が議長を務めた3月の戦争調査委員会の会合で、彼は次のように語っている。
「他のどんな国家の憲法の中にも、この(第九条)のような規定が存在したことはない。さらに、原爆やその他の強力兵器への研究が減速することなく進められている現在、戦争の廃絶などは夢想家の戯言《たわごと》だと思う人々もいるだろう。しかしながら、今後続く技術の進歩開発によって、原子爆弾の何十倍何百倍もの威力を持った新しい破壊兵器が出現しないということを誰人も保証できない。もしそのような兵器が開発されれば、何百万人もの兵士も、何千もの艦船や航空機をもってしても、国家の安全を保障することはないだろう。ひとたび戦争が起これば、参戦国の都市は灰に変わり、その住民は数時間のうちに絶滅するだろう。今日、我々は戦争廃止宣言を高々と掲げながら、国際政治の広大な平原にただ一人で歩みを進めようとしているのだ。しかし、将来必ずや、世界中が戦争の恐怖に目覚め、同じ旗印の下に行進する日がやって来るであろう。」
1950年のユネスコ憲章が歌《うた》い、例えば、戦後(1949年)のドイツ憲法が規定したように、各国が「団結して平和を組織化するための次のステップに踏み出す準備」をしない限り、国際連合は「悲劇的な幻想」に終わるだろう。日本国憲法における戦争廃絶に向けての主張、国連憲章や民主憲法の数々はそのステップ、つまり、国際平和のための組織化を成功に導き、そのために今日取られなければならない手段を提唱している。ヨーロッパ連合と国際機構は手に手をとって進まなければならない。
かつてヨーロッパの議会に秩序があった頃、ドイツはヨーロッパで起こった多くの事件を制御する力によって、その国家目標を達成してきた。他の国々もそれぞれの合意のもとにドイツに続くだろう。しかしながら、それは大きな間違いだったのである。ドイツ連邦共和国はヨーロッパ中心主義から脱皮し、集団的安全体制を作り、厳格で効果的な国際的なコントロールによって恒久的に軍備を縮小し、世界平和を最優先させることで、グローバルな平和創設国家にならなければならない。軍備縮小は、国連が適当な権限を移譲され、集団安全保障のシステムが機能しさえすれば可能である。おそらくその時初めて、日本も国連の核の傘から離れて真に安全になるであろう。秋葉忠利・広島市長や他の識者が正しく提案したように。そして、それを達成するには、蛙は平和の王子と結婚しなければならないのである。
一言で言うと、ドイツは戦争廃絶を掲げる日本国憲法の動向に続かなければならない。そして、この問題について議論を始めなければならない。それによって、広島と長崎への原爆投下に対する謝罪は適所を得るだろう。しかし、それを成すべきはドイツなのであろうか、どうであろうか・・・?
日本語訳: 渡 辺 寛 爾
クラウス博士の記事小論の翻訳、『ドイツ人は井の中の蛙であってはならない』がほぼ完了した。この希にして少なる人物については、今後さまざまな機会に書くことになるだろう。ここでは、ただ少しの紹介に留める。
日本との同盟国・ナチスドイツが連合軍に敗北する1年余り前(1944年)にドイツで生まれ、青春時代にインドを放浪し、40歳を過ぎて歴史平和学の研究に進み、日本国の憲法史をテーマとして博士号を取得する。68歳の現在、日本人の妻と娘と共に埼玉県の日高市に住み、日本大学やインターナショナル高校で教鞭をとりながら、歴史平和学者として、時に日本の大臣に意見書簡を送り、時に各国大使に直言する。
彼はヨーロッパ戦線の末期に生まれた。私は太平洋戦争終結の9年後の生まれで、10年の歳の差があり、共に戦争体験はないに等しい。しかし、この世界には、体験しないと分からないことと、体験してしまうことで分からなくなることがある。一人の異性を深く愛さなければ愛の素晴らしさは分からない、しかしそれによって、この世界には実に多様な愛のかたちがあるという事実からは遠くなる。愛する一人が世界の全てになるからである。
戦争の最前線の現場では、理性よりも本能的・直感的感覚がものを言うだろう。彼がもし『コンバット』(ヨーロッパ戦線を舞台にしたアメリカ戦争番組)の戦場でサンダース軍曹と戦い、私が父のように連合艦隊の下士官としてスラバヤ沖海戦で英国主導艦隊を撃破していたら、あの戦争の意味を正しく捉えることは不可能に近くなっていただろう。
誰だったか、「人間の行動は深い思慮に基づくべきだが、ひとたび行動を始めたら、考えは停止するべきである(するしかない)」と言った先人がいる。私の経験でもこの言は正しいと思われる。人間は深く静かに思索しながら、同時に、速やかで時に激しい行動をとることはできない。これは、どんなスポーツに携わっている人間にも即座に分かる道理だ。しかも、戦争は殺し合いの世界だから、体験そのものが、体験主体の消滅を意味することもある。
クラウス先生についてちょっと書こうと思い付いたら、また話が長くなりそうな雰囲気だ。こんな時間、この類《たぐい》を書き始めるとまた寝れなくなりそうなので、以下に、幾つかリンクを記して、今夜はこの辺で終わりにする。
なお、翻訳内容は来る広島・長崎の原爆記念日前後、何らかの形で活字になる可能性があるが、ここにも、次のエントリーで全文を記載しておく。興味がある方は一読いただいて、ご意見頂ければありがたいと思う。
『歴史平和学者クラウス博士の紹介記事』
ジャパンタイムズ 2003年3月15日
《 歴史学者 平和に向けて 国際連合への明確な権限委譲の道を探求 》
ドイツ生まれのクラウス・シルヒトマン氏は歴史平和学者である。その人生後半において、あらゆる意味での「探求者」としての生き方を見出した学者だ。
彼は現在、埼玉県の日高市に住んでいる。私たちは、ちょうとジャパンタイムズ社との中間地点にある、彼がかつて教鞭をとっていた上智大学の校門前で会うことにした。彼の最大の関心事は国際連合に何が起こっているかだったが、インドへ研究旅行に出かける準備中でもあった。これは彼をアメリカのイラク攻撃から近い場所に置くことになる。彼の当面の疑問は、そこで何が起こるのか?・・・ということであった。
「国際連合は、現在、世界政府に代わる役割を果たすべく、大変な努力をしていることが分かります」「しかし、国際連合には、何の統治権も、平和に向けての権限委譲もなく、それが本来達成すべき内容を考えると制限された状態にあります」更に彼は言う。「実に日本の平和憲法第9条は世界政府の樹立を目指しているのです」
世界平和への提案は、国際連合で半世紀以上も扱われています・・・彼は説明を続ける。
通常、ある議案が提出されたら、次に続く民主的なステップは何でしょう? その議案は支持される必要があります。では、その前には何が成されるべきでしょう? 議論です。そして、投票という審判を受けることになるのです。国連に本当の権力を持たせるという問題は、今まで公式には議論されたことがありませんでした。どの国も日本の戦争廃絶への動きを支持するという提案をしなかったからです。
彼は第二次世界大戦が終焉する一年と三ヶ月前にハンブルグに生を受けたが、東西分断という紛争の悪夢はほんの10年余り前に終わったばかりだった。「心の中に傷はありません。母が私を守ってくれました。しかし、戦争の問題は10代の頃から私の心の中の大きな部分を占めていました」そして、彼は「白いミルクが黒色に変わる」という一行を入れてヒロシマを詠った詩を書いたことを思い起こす。
彼は芸術家になろうと思い立って高等学校を中退したが徴兵を逃れたいと思った。ローマでの一年間を絵画と音楽(トロンボーンジャズ)で過ごした。学生時代に仏教についての書物を読んだこともあり、赤レンガの学校の内で学ぶよりも外の世界で学ぶ方がより良いと判断した。そして、1964年に陸路でインドに向かう。「トルコで知り合った友人がパキスタンで病気になったので、その後は一人旅でした」
バラナシ(北インド、ガンジス川左岸にある。ヒンズー教の聖なる七都市の一つ)に着いてから半年間、彼は仏教徒の法衣を着る。その後ヒンズー教徒に招かれて、市内のサンスクリット大学で中国語と日本語を学びながら、同時に教えた。「今でも勉強を続けていれたらなあ、と思います」その後、彼はグラフィックデザインの工房を開くためにネパールに向かう。しかし、それは失敗して、西ベンガルでソーシャルワークと地域振興の仕事に携わることになる。
カーリーの寺院に滞在した後、「狂人のように放浪しながら」最終的にクラウスは巡礼の旅に出た。動物の皮を縫い合わせ、その上にワックスとニスを塗って一艘のカヤックを作り、ガンジス河を下る。「その後の二年間、ほとんど徒歩でインド中を旅しました」
1976年にドイツに帰る。「ワールドパスポート」を発行していたゲリー・デイビスの「世界市民」の話を聞いて、世界政府の仕事を始め、平和運動の活動家になる。1980年に世界連邦機構の議長に選任されから、幾つかの国連の会議を含む国際会議に出席する。そして、民主的で実際的な「世界憲法」を収集する作業をする。
この仕事や後の歴史平和社会学会の会員であることを通して、彼は「平和社会学者」とか「歴史平和研究家」とか「平和歴史学者」というような肩書きを持つこととなる。「コンピューターで私の名前を検索してみてください。少なからぬ記事や論文が出てくると思います」
彼が本気になって、キール大学で政治科学、歴史、国際法の研究を始めたのは41歳の時である。(私は「遅咲きの花なんですよ」彼は冗談で言う)1990年に博士号を取得した後、日本政府のベルリンセンターの奨学金を得て日本で研究を続けることになる。
彼の研究テーマは日本の政治家であり平和主義者であった幣原喜重郎(1872-1951)だった。「彼は1920年代の国際政治の舞台で中心的な役割を演じていました。当時、日本は主権国として、西欧諸国が政治目標と理解されていたこと、つまり戦争を中止・廃止して効果的な世界平和機構と創設しようという動きを支持しながら、それに積極的に参加する努力もしていたのです」
幣原は1945年10月から1946年5月まで首相でしたが、戦争廃止をうたった日本国憲法9条を1946年1月24日にダグラス・マッカーサーに提案したのも彼であります。「実業家としても、彼は日本の国益に反するようなことに関係しなかった。決定的に他と異なっていたのは彼が採った方法でした」
クラウスは、日本政府が外国からの圧力に抗して9条の精神を守ることについてずっと良心的であると信じている。
「読売新聞が一国平和主義を批判しながら改憲の議論を提起するなど、9条は侵食され続けていますが、その-軍事力を使わない-という中心の一点は変わっていません。だから、日本が自衛隊を持つ限り、他の国々は、なんとしても、戦争の悪習から脱するために国家主権を制限するという9条を「支持」することによって、日本が“一国平和主義”であるという境遇を認めなければいけません」
もし他の国、例えばドイツなどアメリカのブッシュ政権の戦争挑発主義に対抗する勇気を持った国が、この貴重な日本国憲法的「行動」を支持するならば、その議案は公式な議論討論の場に開かれたものとなるでしょう。そして、国際連合の戦争廃止問題についての議論は、どんな国にとっても反対することは非常に困難なものとなるでしょう。
「もし充分な数の国々が先例に従うならば・・・」彼は続ける。「安全保障理事会の常任理事国を含む全ての国々、そして結果的にはアメリカも武装解除することがあり得ます」
もちろん多くの障害があるだろう。今現在、富と力はごく限られた国々が握っている。より公平な富の分配が行われるようにならなければ、不平等が存在する世界中の大部分に根強い怒りが滞留する。例えばアメリカは、世界人口の6%にすぎないが、世界中の富の50%を独占している。
「私たちは、ベルリンの壁が崩壊した後の1990年代、“平和の配当”ともいえるものを全て浪費しましました。良いチャンスを逃してしまったのです。ヨーロッパは国連に入って、「我々は国連を支持する」と言うべきです。私たちは国連に本物の力を与えなければなりません。そのために国連はあるのですから。しかし、そのプロセスにおいてはアメリカの力を必要とするかもしれません。もしヨーロッパの国々が、日本が成し遂げたように、国家主権の一部を放棄することによって国連に合法的に権限を与えるなら、アメリカも協力するでしょう」
久方ぶりにクラウス博士からメールを頂いた。近況の連絡と近々出版される論文書"The Law of Peace Constitutions and Collective Security - Japan's Motion to Abolish War"『平和憲法と集団的安全保障-戦争廃絶に向けた日本の動き』(寛太郎的拙訳)の案内だ。
人と人との出合いは偶然と必然との出合いでもあるらしい。もう10年ほど前に、たまたま彼のWEBサイトに行き当たった私は、一人のドイツ人研究者が日本の平和憲法にただならぬ造詣と期待を持ち、国際連合の限界と可能性についても、およそ私と同じ見方をしていることを知った。
中学3年の弁論大会で「世界政府を作る」なんて幼稚な大ボラを披露して先生方の失笑を買い、親父に「もっと落ち着いてまともなことを言え!」と怒られた少年が、その後、長い学生時代後半の研究課題に選んだのが国際法であり、中心テーマは国際連合だった。
やがて、私の関心は、世界の平和から一人の人間の、畢竟(ひっきょう)自分自身の心の平和という、更に切実な問題に移っていくのであるが、少なくとも法的には、世界平和のために作られた国際連合の理想の行き着くところは、詰まるところ「世界連邦政府」の構築ということになるだろう・・・という結論は、今もまったく変っていない。
その旨メールを差し上げると直ぐに丁寧な返事があり、ここから静かな交流が始まった。やがて彼の記事や外務大臣への提言類などの翻訳作業をお手伝いすることになるのだが、その興味深い来歴を知るにつれて、彼の生き方そのものにも心魅かれるようになった。これは一度お会いしておかなければならないと思った。
8年ほど前になる、すでに60歳を超える彼の風貌について色々と想像を巡らせながら、埼玉の日高市にあるお宅を、学生時代からの友人と訪ねた。雨の中、博士は自転車で駅まで迎えに来ていた。
お会いした瞬間、遠い昔どこかで親しくしていたような懐かしい感覚が私の胸を満たした。たぶん多くの人が経験するだろう「初めて来た場所なのに以前から確かに知っている!」というあの奇妙な感じに似た感覚。
その人柄は私の想像とほとんど寸部の違いもなく、虚飾とは無縁、思慮深く誠実でユーモアを忘れない学究の紳士が、ドイツの哲学書の中から姿を現した・・・というような風貌だった。
質素なお宅は借家で、やはりドイツ人の女性芸術家と二人で共同生活をしていた。本や書類が雑然と積まれた小さな部屋で、お茶をよばれながら過ごした幸せな数時間を忘れることはない。
してみると、博士は現在68歳ということになる。いつかはこちらにもお招きしたいとは思っているが、限られた時間との相談ということになるだろう。
(後に電話でお話しているうちに、過去の事実と私の記憶の間に多少のズレがあることが分かった。わずかなことだが訂正しておく。6/11)
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