内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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このブログでは、極力、特に日本が関係する政治や権力の世界の、余りにバカげた話は持ち出さないようにしようと思っていた。
しかし、最近話題の竹島問題についてのクラウス先生の記事小論に幾らか触発された・・・ということもあるので、私もこの「国際問題」に少し触れてみようと思う。私の意見は「尖閣諸島」についても似たようなものである。
領土問題をベースにする国家間の対立は、およそ「国家」という人間集団の中で、いわゆる「権力の座」にある人たちが提唱し、その唱導に賛同あるいは雷同する「国民」が一定数に達することで始まる。
これは現在進行形の歴史的事実だ。もっとも、そんな人たちは、たいがいマスコミの宣伝や国民の情緒的反応を表にして、自らの意図を裏にするのが常道なので、ことの成り行きを正しく見ようとする人は、多少とも注意深くある必要がある。
そもそも国家というものが存在しなければ、「主権」も「領土」も「国民」もあり得ないのだから、こんな問題は発生しないことは言うまでもない。
だから、結論から先に言うと、この問題を根本的に解決する方法は「国家が無くなること」であり、その国家の存立を支える「国家意識」が、統治する側でも統治される側でも、より深くより広大な「世界市民意識」に吸収され昇華されることしかないだろう・・・と私は思う。
ここでいう「国家意識」とは、集団の構成員がその主たる存在基盤を、国家という制度に求める意識であり、「世界市民意識」とは、いわゆる「コスモポリタン」としての自覚のことで、自分が一つの国家の国民である前に(あるいは同時に)、全世界の住民(世界市民)であるとする意識である・・・と定義しておく。
ユネスコ憲章の前文には「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。」とある。しかり、あらゆる人為的制度も人の心の中から生まれて、その外側に形を作り、制度化(法制化)されることで固定化されるのである。
したがって、私の総論的意見は、まことに単純ながら以上を結論とする。
しかし現実世界では、歴史的な経緯や覇権《はけん》や各種の利権が渦巻いている。複雑にもつれたカイトのラインを元に戻すのに苦労することが多いように、根深く錯綜《さくそう》する事情を調整するには、一定の手順を踏んだ、相当に根気を要する作業が必要となるだろう。
次の各論的意見では、少しその辺り触れる。
(つづく)
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