内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
この学生時代、十八歳から二十六歳までの八年間の東京(周辺)生活について書き始めると、ほとんど際限なく記憶の連鎖が始まり収拾がつかなくなる。
この辺りのあれやこれやは、いろんな意味で記念すべき六十歳の還暦までに、ある程度まとまったものとしての『自分史(自伝)』を書き上げるつもりでいるので、そこで詳しく述べることになるだろう。ただ、僅(わず)かでも背景に触れておくと、話の流れがたどりやすくなるような気がしたので少し触れた。
さて、本題にかえる。なんだかんだと急がしい生活を送りながら、さらに教職課程の数十単位を履修することにしたのは、単なる思い付きばかりではなかった。
学内のゼミや研究室、更に学外にも繋がるサークルなどであれこれ活動しているうちに、私の年齢は既に二十代も半ばに至り、今後の身の振り方について、田舎の実家からのプレッシャーが徐々に強くなっていた。「オマエはこれから何をどうするつもりなのか?!早いとこ、ちゃんとした社会人になって身を固めるべきではないか?!」・・・という、どこにでもあるような話である。
当時の学生としては平均的な仕送りを受けていた私は、それに匹敵する程度の収入を先に上げたアルバイトで得ていたから、我が身一人自活していく程度のことは、さほど難しいことではなく、充分可能だと考えていた。
「人はパンのみにて生きるにあらず。しかし、パンなしで生きることはできない。そして、そのパン代くらいはいつでもどこでも稼いでやるわい・・・」などと、わりあい平然としていた。この姿勢はしかし、少なくとも実家の両親には、とんでもなく甘い考え方に見えたようだ。
そこで、私は一計を案じた。自分がしていることをもう少し掘り下げて考える時間を、両親に納得の行くかたちにして確保するのも悪くなかろう・・・という計画である。
ちょうど当時は少年非行の全盛期と言われ、TV番組の「なんとか先生シリーズ」が大受けしている時代でもあった。「武田鉄也の金八先生」とか「熱中時代の水谷豊」とかの世界の一部を経験しておくのも悪くないなぁ・・・とも思ったのだ。
この計画はある程度功を奏して、両親はいくらか安心し、田舎の島にある小さな中学校で、教育実習の三週間を過ごすことになった。
教員資格としては中等教育免許にあたり、中学校と高等学校が選択肢にあった。明治大学には東京にも付属校があったから、こちらで済ませばもっと楽だったのだが、少しは親を安心させたいという殊勝な気持ちが優先したようだ。
次の選択は、出身校である今治の高等学校にするか、島の中学校にするかなのだが、結局、終始、表向きの優等生で通し、楽しい思い出も相当に残した島の中学校に決めた。
この三択問題の正解がどこにあったかは、ずいぶん後になって分かることになる。ともかく、この短い教育実習の三週間で、私は現在と連続する当時の、日本の教育現場の現実を見たし、その現実を作り出す社会的背景についても、より広く深く考える機会を得たのだろうと思う。
(つづく)
我が家には4年ほど前から同居しているパームという、元気この上ないビーグル犬がいる。こないだまで事務所の空き部屋を一つ与えて、基本、室内犬にしていたのだが、毎日の下の世話が面倒くさくなったので、以前、やはりビーグルのロビン(14歳にして他界)が住処にしていた、母屋の庭に引越しをさせた。
しばらくの間は、犬小屋が何の役に立つのか分からない様子だった。しかし、さすがに雨水は冷たく「これに濡れたままでいると気持ちが悪い!」ということを悟ったらしく、梅雨に入って雨の日が多くなると、彼にとっては狭苦しいだろう新居で丸くなるようになった。
日課の散歩は夕方、彼と最も気の合う息子の担当なのだが、数分間の散歩の後に庭に帰り、リードを放して好きにしろと言っても、元室内犬はやはり室内が好きなようで、家の周りを一回りしたら決まって裏口のドアの前で「早く中に入れてくれ!」という姿勢でじっと待っている。
可愛そうだから中に入れる。夕食時の食卓の横に張り付いてヨダレを垂らす。さらに可愛そうだから、サンマの頭などをやる。毎朝、定量のドッグフードを食べた上に、余計な栄養を与えることになる。
かくして、子犬の頃の「こんなリスみたいに小さいのが、ちゃんと成長してくれるのか・・・?」などという心配は無用となり、みるみる太り、今や立派な、食うことだけが楽しみみたいな^^;肥満犬の仲間になってしまった。
それはまあいい。つい数日前に気付いたことがある。どうやらこいつが以前の住居のあちこちにシッコをしているらしい。あちこちの一画には、カイトバッグが3個置かれてある。これらがビッショリ濡れて、部屋中に小便臭を放っていることが分かってしまった。
この部屋は母屋と事務所との通路にもなっているので、無用心にもたいがいは窓を開けてある。ヤツがここから懐かしい古巣にコッソリ侵入して、この許しがたい悪戯をしていたわけだ。今日は、そのカイトバッグを一つを水洗いをして、堀江の風で乾かすことにした。
それと、GoProカメラをなんとかしてカイトのロワー・サーフェイス辺りに取り付けできないか・・・という思いつきの一つを試してみた。リーディングエッジ直下のウィークリンク4箇所から、かなり長めのライン4本を引いてカメラの台座につないだ。
結果は、やっぱり長すぎて大きく揺れ、以下のような映像になった。今回は12㎡だったので、次回は19㎡で試してみる。取り付けラインのテンションを上げれば、揺れも少なくなるはずで、実用になる可能性はある・・・と考えている。
私は幸せになりたい、でも、幸せにならない
あなたを幸せにするまでは
人が喜びを与えあっているとき
人生はほんとに生きるに値(あたい)する
そんな時に、どうして私が
あなたに何かを与えずにいられるでしょう
空が暗く、あなたの心がブルーな時は
私が太陽のような笑顔を贈(おく)りましょう
私は幸せになりたい、でも、幸せにならない
あなたを幸せにするまでは
(リピート) (寛太郎拙訳)
考えごとをするのが面倒くさくなった時々、酔人はこの曲を子守唄にする。「ドリス・デイ」・・・さて今時、どれほど多くの人たちが彼女の名前を知っているのだろうか。
彼女をしばしば日本のTV番組で目にしたのは、たぶん私が10歳過ぎの頃だったのかなぁ・・・ほとんど記憶はない。しかし、あの母のような(実際、かあちゃんの年齢を超えていた)の優しい声は今でも耳に残る。
改めて注意深くこの歌詞を見てみると、ジェリー・ロペツなどの言うハワイアンの「与える心」や、無神論者のラッセルが説く「愛は賢明」が含まれていることに、しばし驚く。
歌詞の確認にとサイト探しをしていたら、こんなページを見つけた。これを書いた人も、かなりの酔人にちがいない。そのうちアドレスが分かれば、メールの一つも差し上げたい。
私はきわめて普通の人間だ
幸せの計画を現実にするように歩んでいる
他の人が自分にしてもらいたいことを
自分も他の人にしている
私の魂がまことに孤独であると知った時
まもなくそのゴールがやって来る
周りの人たちに私の哲学を語るとき
私の気分はずっと爽快になる
I want to be happy, but I won't be happy.
Till I make you happy too.
Life is really worth living when we are mirth giving.
Why can't I give some to you.
When skys are gray and you say you are blue,
I'll send the sun smilling through.
I want to be happy, but I won't be happy.
Till I make you happy too.
... Repeat ...
I'm a very ordinary man
Trying to work out life's happy plan
Doing unto others as I'd like to have them doing unto me
When I find a very lonely soul
Soon be-kinda-comes my only goal
I feel so much better when I tell them my philosophy
ここで少し、私自身の拙(つたな)い経験に触れる。70年代後半、学生時代も中盤を超え、そのまま大学に残って学究の道を歩むか、就職して実社会の波に身を任せるか、いずれにしても進路を決めざるを得ない時期を向かえた頃、一度(ひとたび)教員になろうと思い付いたことがある。
当時は(現在も似たようなものかもしれない)、特に長く暮らした新宿・早稲田周辺の学生の多くは地方出身者で、親からの仕送りに乏しく、下宿やアパートの家賃にこと欠く仲間もいて、住む場所に困った学生たちは、たいがい何の遠慮もなく同じように貧しい仲間のアパートに転がり込んで、ほとんど昼も夜もない生活をしていた。お互いさま、今日の君が明日の私になることは大いにあり得たのである。
これは決して誇張表現ではなく、先輩や後輩の中には、塩・醤油ライスを常食とし「今夜の晩飯はマヨネーズ・ライスだ!」とか「ご飯にクリープもわりとウマイぞ!」などと語る豪傑もいて、何の屈託もなく明るい。その内側にはもちろん、それぞれの夢や悩みを抱えながら・・・。
私もお金が尽きて外食に困るようになると、田舎から送ってきた海苔(のり)とタマゴだけをおかずに、月末の何日間を過ごすことも珍しくなかった。自宅組(東京出身者)以外の仲間はまず例外なく、何らかのアルバイトで生命(いのち)をつないでいた。60年代ほどではないにしても、70年代もまだそういう時代だったのだ。
類にもれず、まず埼玉の下宿から江戸川の安アパートに越し、明治大学に籍を移した直後から、私も家庭教師のバイトを始め、新宿時代は塾の講師が加わり、さらに川崎時代の2年半の間は、なぜか集まる近所の子供たちが徐々に増えて、傾きかけたボロアパートの一室は、ちょっとした学習塾の様相を呈するようになっていた。
後に4年半勤めた堅い団体職を辞めて学習塾を生業(なりわい)とするようになったのも、この頃の経験がベースになっていることは確かだ。たまたま高校の後輩で一緒になった女性は小学校の教師をしていた。ともかく、いつまで経っても子供の様で子供好きな人間が、どこに行っても子供と縁が切れることがなかった・・・ということになるだろう。
この川崎市の北のはずれに位置する多摩区菅(すげ)という、ある面で松山よりもはるかに田舎の空気が漂う土地柄やそこに住む人々は、田舎出の私の感性と相性が良かった。東に徒歩数分で広々とした多摩川の河川敷に出ることができる。周辺は梨畑だらけ、西側裏手には緑豊かな多摩丘陵が広がる。好きな夕陽は高尾山の方向、遠くは丹沢山系から富士の裾野に落ちていた。多摩丘陵の中には「読売ランド」があり、一画に日本テレビの読売スタジオがあって、多くのTVドラマが作られていた。
この地で友人の一人になった大工の長男(後に一級建築士となった)が、その時期、ワタナベプロという芸能事務所に所属していた。岸本加代子と共にピッカリ・コニカのコマーシャルで全国に顔を知られてしまうことになる彼が、ある日、宇津井健主演のドラマにエキストラを必要としているから、バイト感覚で出てみないか・・・という話を持ってきた。
興味に任せて私は快諾し、一度だけテレビ演劇の現場に参加することになった。スタジオ内の飲み屋通りのほとんどは木材やベニヤ板で器用に作られていおり、強烈なライトの下は、私がそれまで経験したことのない種類の活気と緊張感に溢れていた。昼食時の食堂の隣の席では、まだ若き日の西田敏行が、目をギラギラさせながら共演者と熱く語っていた。これはなるほど面白い経験だった。記憶の範囲で、私にとっての稀(まれ)なアルバイトとしては、その他、日当一万円の、当時では破格の引越し作業の二度だけである。
(もっとつづく)教育の字義が「教え育てる」ということであることは言うまでもない。そして、親が我が子に成長を教え、幸せに育てるために注ぐ愛情は、人間だけでなく、どんな動物、どんな時代、どんな生息世界でも変わることはない。これが、教育に関する全ての出来事の原点である。ある意味、こんな自明な事実も少ないかもしれない。
我が家の屋根瓦の裏側には、毎年数回スズメが巣を作り、数羽の子を育てる。梅雨も近づく晩春になると、事務所の玄関口にはツバメが、近くの田んぼや草地で集めてきた泥や枯れ草で美しい巣を作り、数羽の子を育てる。
彼らの子供たちに対する情愛の深さ、その育て方の巧みさは、どんなに言葉を重ねても説明しきれるものではない。私などはただ見惚(みと)れるばかりである。
また、松山に暮らすようになって30年の間に2度、メスの捨て猫を拾い、それぞれ5匹、4匹の子供たちを生み育てるのを身近で観てきた。彼らの育児方にも教えられることが多かった。
かくして、人間教育の歴史も、元をたどれば先史以前、人類発祥の地点まで遡(さかのぼ)ることができるはずだが、有史の日本に限れば、中国から律令制が輸入され国家の体裁(ていさい)が整った頃から、家族や部族の単位を超えて、一部貴族を対象にした国の教育制度が始まったと言っていいだろう。
そして現在、他の多くの学問分野と同様、「教育学」は、表題をざっと並べるだけでも肩がこるくらい細分化され、一通り目を通すにも何年かを要する。
学校教育に限って言うと、さらに教員免許を得て、「単純ならざる学校」という窮屈な舞台で、かなり頼りない「理論」を応用し実践するという作業は、ますます面倒で困難、つまり苦労が多いものになっている。
(まだつづく)
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |