内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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ここで少し、私自身の拙(つたな)い経験に触れる。70年代後半、学生時代も中盤を超え、そのまま大学に残って学究の道を歩むか、就職して実社会の波に身を任せるか、いずれにしても進路を決めざるを得ない時期を向かえた頃、一度(ひとたび)教員になろうと思い付いたことがある。
当時は(現在も似たようなものかもしれない)、特に長く暮らした新宿・早稲田周辺の学生の多くは地方出身者で、親からの仕送りに乏しく、下宿やアパートの家賃にこと欠く仲間もいて、住む場所に困った学生たちは、たいがい何の遠慮もなく同じように貧しい仲間のアパートに転がり込んで、ほとんど昼も夜もない生活をしていた。お互いさま、今日の君が明日の私になることは大いにあり得たのである。
これは決して誇張表現ではなく、先輩や後輩の中には、塩・醤油ライスを常食とし「今夜の晩飯はマヨネーズ・ライスだ!」とか「ご飯にクリープもわりとウマイぞ!」などと語る豪傑もいて、何の屈託もなく明るい。その内側にはもちろん、それぞれの夢や悩みを抱えながら・・・。
私もお金が尽きて外食に困るようになると、田舎から送ってきた海苔(のり)とタマゴだけをおかずに、月末の何日間を過ごすことも珍しくなかった。自宅組(東京出身者)以外の仲間はまず例外なく、何らかのアルバイトで生命(いのち)をつないでいた。60年代ほどではないにしても、70年代もまだそういう時代だったのだ。
類にもれず、まず埼玉の下宿から江戸川の安アパートに越し、明治大学に籍を移した直後から、私も家庭教師のバイトを始め、新宿時代は塾の講師が加わり、さらに川崎時代の2年半の間は、なぜか集まる近所の子供たちが徐々に増えて、傾きかけたボロアパートの一室は、ちょっとした学習塾の様相を呈するようになっていた。
後に4年半勤めた堅い団体職を辞めて学習塾を生業(なりわい)とするようになったのも、この頃の経験がベースになっていることは確かだ。たまたま高校の後輩で一緒になった女性は小学校の教師をしていた。ともかく、いつまで経っても子供の様で子供好きな人間が、どこに行っても子供と縁が切れることがなかった・・・ということになるだろう。
この川崎市の北のはずれに位置する多摩区菅(すげ)という、ある面で松山よりもはるかに田舎の空気が漂う土地柄やそこに住む人々は、田舎出の私の感性と相性が良かった。東に徒歩数分で広々とした多摩川の河川敷に出ることができる。周辺は梨畑だらけ、西側裏手には緑豊かな多摩丘陵が広がる。好きな夕陽は高尾山の方向、遠くは丹沢山系から富士の裾野に落ちていた。多摩丘陵の中には「読売ランド」があり、一画に日本テレビの読売スタジオがあって、多くのTVドラマが作られていた。
この地で友人の一人になった大工の長男(後に一級建築士となった)が、その時期、ワタナベプロという芸能事務所に所属していた。岸本加代子と共にピッカリ・コニカのコマーシャルで全国に顔を知られてしまうことになる彼が、ある日、宇津井健主演のドラマにエキストラを必要としているから、バイト感覚で出てみないか・・・という話を持ってきた。
興味に任せて私は快諾し、一度だけテレビ演劇の現場に参加することになった。スタジオ内の飲み屋通りのほとんどは木材やベニヤ板で器用に作られていおり、強烈なライトの下は、私がそれまで経験したことのない種類の活気と緊張感に溢れていた。昼食時の食堂の隣の席では、まだ若き日の西田敏行が、目をギラギラさせながら共演者と熱く語っていた。これはなるほど面白い経験だった。記憶の範囲で、私にとっての稀(まれ)なアルバイトとしては、その他、日当一万円の、当時では破格の引越し作業の二度だけである。
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