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寛太郎のカイト日誌

内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置

   
カテゴリー「読書」の記事一覧

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読書の秋

7月、8月、9月と暑い夏が過ぎて、もう10月、今年もちゃんと秋が来た。年中で最も好きな季節だ。周囲の大気は温度と湿度を落としてグッと引き締まり、山々や野原も、道端や海岸に生える草木の色合いも、徐々に落ち着いたものに変わって行く。

50代になって海に復帰し、更に事務所に換気扇を導入して、かなりしんどかった夏バテから開放された、ということはどこかに書いた。今夏は元気が余って(いたわけでもないが)、徳島に8回も通い、毎回1~4泊はするから、3ヶ月のうち1ヶ月近くは、車中泊のキャンプ生活をしていたことになる。

「この夏はこれこれをやろう!」と心に留めておいた計画の、およそ半分は完了し、残りは未完了、というよりちょっと手を付けた程度で、この気分の良い秋の季節に持ち越されることになった。

未完了の計画の中には、数冊の本があった。加藤周一の『羊の歌』と英訳本"A sheep's song"を合わせ読むこと、丸山真男の『日本の思想』を読み込むこと、ニーチェの『ツァラトストラは・・・』にサラッと目を通すこと。

『羊の歌』はもう40年以上の付き合いで何回読んだかわからない。それがこの夏前に、「英訳本の中には何か欠けているものを感じる」などという感想がクラウス先生から出てきたものだから、これも読んでおかにゃしょうがないだろうということになって、早速、USアマゾンから取り寄せた。

これが岩波新書の上下二冊の体積比10倍くらいの大部で、薄いクリーム色の表紙で上品に装丁されたものになっていた。すでに何章かは読了したが、原著の何が「欠けている」かはまだ分からない。後の二冊は数ページをめくった程度でストップしている。

私は典型的な乱読型の一人で、これは「読書術」の続きで書くべきことなのだが、ことのついでに触れておくと、他にも継続的に目をさらしている本が数冊ある。本といっても紙ではない。いわゆるデジタルブック。キンドルとIpadには、B・ラッセルの主要著書をまとめた"Complete Writings" や E・フロムの"Escape from Freedom"などの間に、アメリカの作家サーファーが書いた小説"West of Jesus: Surfing, Science, The Origin of Belief" なんてのも混じっている。7923d5e1.jpeg

気が向いたときに、気が向いた本から、気が向いた方法で読み始める。数ヶ月前から採用した方法に、「寝て読む」というのがある。ベッドの枕の上に所見台を取り付けて、上向きに寝たままIpadのキンドル本を読むのである。

普通、寝っころがっての読書は、頭を支える腕がじきに痺れて長い時間は続かない。それがこの姿勢でタッチパネルの利点を使うと、ちょっと驚くほど楽になる。しかも、身体姿勢はほぼ完全にリラックスしているから、活字の方もリラックスするのか、その内容が普段よりも、すんなり身体の中に流れ込んで来るような気がする。

多少の難点は、夜寝る前にこれを長時間続けると、頭が冴えてしまうということだ。下手をすると寝られなくなる。まあ、人間の頭は、ほんとに睡眠を必要としているときは、何があっても休止してしまうようにできてはいるから、そう案ずることもないのだが・・・。

 
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読書術 4

或る一つの強烈な体験は、それ以前に経験した数々の出来事の印象を薄めるのかもしれない。小学校時代の六年間に私が読んだ本は、教科書類や課題図書など他にも多くあったに違いないのだが、その内容のほとんどを今は思い出すことができないのは、単に時間の問題だけではないような気がする。

私の興味の対象が、圧倒的に「野外での遊び」にあり、小学校で配布される本類の中にも、小学校そのものにさえ、存在することが少なかったということもあるだろう。

しかし、小学校という特殊な閉鎖社会に全く魅力を感じていなかったわけではない。戦前から存在する木造平屋の横に長い校舎は、極めて汚い便所も含めて随所に、そこで多くの時間を過ごした子供たちや先生方が残していった痕跡が刻まれていたし、何よりも、当時の私にとっては、可愛いらしいことこの上ないKという同級生の女の子がいた。

彼女とは幼稚園から中学一年まで組が変わることがなかった。(小学校は松・竹の二クラス、中学校は1~4までの四クラス) 私が級長のときは。たいがい彼女が副級長で、勉強の上ではライバル的存在でもあったのだが、想えば、あの年齢で八年間も、たった一人の女の子が好きだったわけで、これは生命的時間論からすると、成人なら何十年もの永きに渡る片想いということになるだろう。さらに彼女とは同じ高校に進学したので、相当に深い縁があったと言わざるを得ず、高校時代には幾らか胸のときめく後日談があるのだが、ここでは触れない。

さらに、三年生から六年生まで通して四年間も担任だった矢野友弘先生の人格は、昭和二十年の敗戦を境に百八十度変わった国家の教育方針などとは、おそらく全く無関係に、私たちを大きく包んでいた。彼は便所の傍らに、彼しか使わない陶器用の釜を持ち、常にズボンの横からタオルを垂らし、なんであれだけ出るのかと子供心に不思議なくらいの鼻水を拭うことを習慣にしていた。

その口癖は、授業中に何かを言い違えたとき「もとい・・・」を連発して訂正することと、生徒たちの悪戯《わるさ》が時々発覚し、中の一人が別の生徒も同じことをしているではないか・・・というような弁解を始めると、「自分のことを棚に上げて人のことを言うな!」と鼻の頭を赤くしながら真剣に叱責することだった。

だが、私たちの誰もそれによって萎縮することも反省することもなく、数限りない悪戯を繰り返したのだった。彼の全身から溢れ出る巨木のような優しさは、どんな種類の彼の怒りにも勝っていたのである。私たちは親愛の情を込めて、ずっと彼を「友やん」と呼んだ。
小学校を卒業して十年以上も後、何かの祝いに頂いた大きな鯛の油絵は、今でも我が家のリビングの壁、中央上部で食卓を見守っている。

一人息子の教育に関しては、父も母もたぶん普通以上に熱心なタイプで、嫌がる私を一山向こうの村の習字塾と英語塾に通わせた。五年生の頃には、旧家の一室を開放してソロバン教師を招いたので、否応なく我が家がそろばん塾になり、村の子供たちの多くが、週に一回パチパチとソロバン少年・少女になった。

しかし、習字塾も英語塾も数ヶ月も続かなかったと思う。かろうじで、ソロバンだけは自宅塾から逃げるわけにもいかず、大いに落ち着きに欠ける少年の集中力の養成にはある程度の用になったかもしれない。まだ二十代後半のソロバン教師は、穏やかな微笑みを絶やさない、大声で怒ること一度もない、実に気持ちの良い青年だった。春休みの或る日だったか、彼は私を含む子供たち数人を鈍川渓谷への一日旅行へ連れて行ったりもした。

何を成すにも言えることだろうが、教育にもタイミングというものがある。本人がまったくやる気のない時期に、強制的に何かをやらせようとすると、どこかに無理が出る。従順な子供は一時それなりに成果を上げる。そうでない子供は表面的には従順を装うが、どんな服従も長く続くことはあり得ない。いずれにしても、やがて無理が高じて反抗に変わり、周囲が望むところと反対の結果が出ることがほとんどだ。

本人の先天的な才能を前提としても、有名スポーツ選手の例では、卓球少女の愛ちゃんやスケート少女の真央ちゃんなどは例外中の例外で、おそらく彼女の母親やコーチには、相当に合理的な計画と、並ではない忍耐と、極めて緻密な配慮があったのだろう・・・と私は推察する。

(5につづく)

読書術 3

概して病弱な子供は熱心な読書家になる。一つは他に楽しい遊びを知らず、一つは家庭の中にそれなりの書物と環境がある場合。加藤周一などはその典型で、『羊の歌』の「病身」の章では、その辺りの事情が詩的ともいえる美しい表現で語られている。もっとも彼の書いたものは大体において詩的なのだが・・・。

子供時代の私はさほど病弱でもなかったが強靭でもなく、しばしば原因不明の熱を出して、幼稚園児の頃に一時、今治の病院に入院していたことがある。しかし、そこにあったのは書物ではなく、若く美しい看護婦さんの優しい笑顔と、夕方五時になると決まって街のどこかから流れ響くドヴォルザークの「家路」だった。

「遠き山に日は落ちて・・・」の旋律は、その後長く私の耳奥に残り、いつどこでこのメロディーを聞いても、あの白い病室とアルコールの匂いと、病院という秩序正しく閉じた世界の暖かさを、ある種の哀愁と共に思い出す。そして家庭の中には、当時、母が読んでいた『婦人の友』の他に、父の仕事関係の実用書や辞書類を除いて書物らしい書物はなかった。

生家の周囲には大自然の運動場があり無限に広いプールがあり、元気この上ない漁村の子供友達が大勢いたから、屋外での遊びに事欠く要素は一つもなかった。だから、ある年齢に達すると幼稚園という窮屈で退屈な檻のような施設に通わなければならない、という事の理由が納得できるはずがない。

しかも、その幼稚園は一山超えた四kmも彼方にあり、そこまで子供用の自転車で行けというのだ。私が毎朝、お隣の玄関柱にしがみ付いて泣きながら登園を拒否した・・・という話を母はよくしていた。それでも、狭い幼稚園の中庭の様子や「お昼寝」の一刻や遠足の風景などをかすかに覚えているということは、ある程度はこの苦行に耐えていたのだろう。

小学校に上がっても、原因不明の発熱はときどきやってきて、これを幸いによく学校を休んだ。外で遊べなくても学校よりはまだまし。カッチンカッチンと正確に振り子を揺らす柱時計の音《ね》を聞き、天井板に散らばる節模様の中に様々な鬼妖怪の姿を見るのに飽きたら、たまに買ってくれるプラモデル作りを除いて、小学館の月刊誌『小学○年生』を眺めるくらいしかすることがなかった。この子供向け学習雑誌の中には、算数や国語などの他にも、それなりに面白い科学的・芸術的記述もあったはずなのだが、私の記憶には「鉄のサムソン」などマンガの類しか残っていない。

そして、小学校六年生の時に、この繰り返し訪れる発熱の原因が、どうやら扁桃腺《へんとうせん》の異常にあるらしいという診断が下された。再び、幼稚園の頃に入院していたあの病院に舞い戻って切除手術を受けることになる。

その手術の手順はまことに原始的なもので、2012年現在の内科医が、もしも同じことを自分の子供にしたら、私は躊躇なくその医者を殴り倒すだろう。優しい看護婦は後ろから私の両目を塞いでことの成り行きを見えないように努力していたけれども、指の間には隙間《すきま》というものがある。浣腸器のような太い注射器を喉の奥にズブリと刺して部分麻酔した後、キラリと光るハサミを突っ込んで扁桃腺の根元からパチンと切断する過程を、私は全て見ていた。51ysHKaVKfL__SS500_.jpg

ところが、あの麻酔注射は何の用をなしたのか・・・それはまさに「これまで生きてきた中で最大の痛み」だった。入院期間は一週間ほどだっただろうか・・・術後3日ほど経ち、やっと少量の水が飲めるようになった頃に、父が「よく頑張った!」、と最たる苦行に耐えた褒美《ほうび》として、「今治タイガー」というステーキハウスに連れて行ってくれたのだが、当時は余程のことがなければ目にすることのなかった分厚いステーキが私の喉を通過することはなかった。しかし、この苦行の褒美はステーキだけではなかった。

父母の出自については、別に詳しく述べることもあるだろう。ただ少し母方の事情に触れると、母は十六歳の今治女学校卒業直前に、父つまり私の祖父を佐世保の軍需工場の爆撃で亡くし、その後多くの同級生が選択した教師への道を諦《あきら》めて、ちょうど終戦直後のその歳、戦後処理の任務に当たっていた海軍仕官(博多武官付)の妻になった。

彼女は長女で、幼い頃に病死した男子の他、下に三人の姉妹がいた。その末っ子とは歳の差が十四もあったが、彼女がちょっと変わった女性で、当時としては珍しく、周囲の反対を押し切って単身アメリカ西海岸に留学し、帰国後、貿易商社の秘書を仕事とした。51kz0vcEuKL__SS500_.jpg

その「Yねえちゃん」(と私は呼んでいた)が、入院中の甥(私)への見舞い品として置いて行ったのが、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』とジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』の二冊だった。この二冊の本は、私と同世代の少年たちが活躍する、はるか彼方《かなた》の世界に大冒険の数々が確かに存在することを鮮やかに教え、ビルよりも高い脚を持った宇宙船が簡単に人類文明を破壊し、タコのような火星人の気色の悪い触手が病室のドアの隙間から今にも侵入してくるのではないか、と錯覚するくらい強烈な衝撃を私に与えた。

扁桃腺熱の終わりの時は、その後遭遇するであろう多くの書物がもたらす衝撃の歴史の、始まりの時でもあったのである。

(その4につづく)

緑の世界史 クライブ・ポンティング著

・人類史の99%・・・人類の出現以来、今日までの200万年間で、最近の2000~3000年を除けば人類は狩猟と採集で生活を営み、ほとんどの場合、小さな集団で移動しながら暮らしていた。これは紛れもなく、最も環境に適合した融通のきく暮らし方であり、自然生態系への影響も最小限に抑えることができる。p351185067010.jpg

・・・狩猟採集民は、飢えの恐怖にさらされながら暮らしているわけではない。それどころか、広範囲の食料資源から、栄養的にも優れた食事をしているのである。・・・彼らにとって、食料を集めたりそのほかの生きるための労働に費やさなければならない時間は一日のうちのほんのわずかに過ぎず、遊びに費やす時間や祭祀に当てる時間はふんだんにある。p38

・ブッシュマン・・モンゴンゴの木から取れる非常に栄養価の高い実・・穀物のカロリー5倍、蛋白質10倍。常用植物84種のうち通常23種類、日常17種類だけでも今日の必須栄養水準と比較して、ブッシュマンの食事はなんら遜色がない。カロリー摂取量は必要水準を上回り。蛋白質は3割以上も多い。・・・こうした食物を手に入れるために必要な労働は、決して長時間ではない。平均して週に2日半程度。農耕民とは異なり、労働量は一年中ほぼ一定で、乾季の最盛期を別にすれば、食料調達のために一日10km以上を歩き廻ることはますない。・・・女性は毎日1~3時間働き、残りの時間は余暇を楽しんで暮らしている。男性の狩りはおそらくもっと断続的で、1週間続けて狩りをすれば、2~3週間は全く何もせずに過ごすのだろう。さらに集団の約40%の人々は、食料調達のための仕事をまったくしていない。10人に1人が60歳を超えて長老として敬われ、女性は20歳、男性は25歳頃になって結婚するまでは、食料を集める義務はない。東アフリカのハッツァ族、オーストラリアのアボリジニもでも、事情は良く似ている。p40

・ここで上げた全ての種族は、今では生活条件の悪い辺境地域に追いやられてしまっている。したがって、彼らと同じような集団が、かつて更に好条件の場所で生活していた時には、暮らしぶりははるかに余裕のあるものだったと考えてもよいだろう。残存する多くの先住民が、はるかに労働のきつい農耕に見向きもしないのは当然である。p40

・あるブッシュマンは、人類学者にこう言ったという。「ふんだんにモンゴンゴの実があるのに、何でわざわざ作物をうえたりしなければいかんのかね」と。ノンビリ過ごす時間は、必要以上に食料を集めたり、移動の妨げにしかならない道具を作るよりは、はるかに貴重である。・・・・16世紀にブラジルを訪れたポルトガル人も、これと同じような状況をインディオに認めていた。「インディオたちは奴隷でない限り、自分が使う金属器を買うのに必要なだけ働いて、あとは余暇を楽しんでいた」p41

・もっとも信頼に足る推定に寄れば、一部地域で農耕が始められる直前の約1万年前、世界の総人口は多く見積もっても400万人を超えることはなく、それ以前には人口はこれよりかなり少なかったと考えられる。p44

・人類の4大特徴・・・脳、2足歩行、言語、技術的手段(道具)

・本書を読み終わって私が最初に感じたのは、現在、私たちはいかに地球本来の自然を失って貧しい環境に住んでいるか、ということだ。これは、ガラバゴス諸島を訪れた時に、環境客の立ち入りが制限されている島で実感した。島の動物はまったく人間を恐れず、ツグミの一種が頭に止り、ポケットに首を突っ込んでハンカチを引きずり出す。イグアナはまったく人間を無視し、海に潜るとアシカが身体をすり寄せてくる。地球の歴史から見れば、つい最近までこうした豊かな自然が地球のあちこちに広がっていたのに違いない。

・1940~50年代の私の子供時代ですら、東京の都心に近い住宅街でまだ週十種のチョウが採集でき、少し郊外に足を伸ばせば100種類を超える野生植物が容易に集められた。鳥も年間を通して30種くらいは庭で観察できた。過去30~40年をとっても身辺の環境の貧困化は急速に進行した。自然に恵まれた農山村地域の変化はもっと激しい。だが、わたしたちは残された自然を更に貧しくして、子孫の手に渡そうとしている。・・・(訳者・石弘之 あとがき)

読書術 2

脱線ついでに、私の読書歴を記憶の射程の及ぶ範囲まで辿《たど》ってみる。遠くは初めて文字を読み始めた頃にまで遡《さかのぼ》るが、私が「あいうえお」を覚えたのは、たぶん幼稚園に上がる前の頃だったのだろうと思う。

母はやっと文字を書き始めた一人息子の落書きがよほど嬉しかったのだろう。旧家の南に面した小部屋の壁には、拗音《ようおん》の「ぁ」が抜けた「かあちん」という、縦に大きな赤字がいつまでも残されていた。

昭和三十年代の中頃、終戦直後の混乱期はとうに過ぎてはいたものの、瀬戸内の小島の南岸に位置する小さな漁村は、多少の差はあるにしても、どの家も並《な》べて貧しかった。

日本の島々の漁村のほとんどがそうであるように、この志津見という人口二百人ほど集落のすぐ裏手には山が迫り、田畑に供する平地に乏しく、小山の斜面の多くは段畑に利用されて蜜柑《みかん》や芋・スイカなどが植えられていたが、主食の米は山の反対側にある隣村から調達するしかなかった。

当然ながら、漁村の主産業は「漁業」ということになる。遠方に石鎚山系を望む燧灘《ひうちなだ》の海は様々な魚類だけでなく海藻類にも恵まれ、戦後の食糧難の時期も「食べる」という点では都市部ほど苦労することはなかったらしい。

旧家の庭には鶏《にわとり》が数羽と一頭の山羊《やぎ》が飼われていて、彼らは私たち家族に、かなりの栄養源を提供していた。生みたてのまだ暖かい卵を鶏舎に取りに行き、柔らかく膨《ふく》らんだ山羊の乳を搾《しぼ》るのは、姉と私の毎朝の仕事になった。

家の裏山の南斜面は山頂近くまで何段にもわたる蜜柑畑になっていた。私が物心ついた頃には、元職業軍人の父が戦後関わり続けた漁業関係の仕事は、徐々に政治世界の色合いを濃くし始めていたのだが、蜜柑や八朔《はっさく》生産との兼業は私が高校を卒業するまで続いた。

ここでの作業は初冬の収穫期だけでなく真夏の摘果《てっか》や散水や消毒散布などで結構な体力を要し、時には熱中症気味になってクラクラすることもあった。しかし、父も母もまだ若く、六つ年上の姉も小・中・高と徐々に成長していく私も、それらの作業が嫌だと思ったことはない。

段畑をつなぐ畦道《あぜみち》には一本の大きなビワの木があり、初夏になると黄色い花のような多くの実がなった。姉か私が素早く木に上って甘い実を集める。父と母は下で笑いながら見ている。眼前には漁村の全景が箱庭のように見え、南に広がる大きな海原は遠く四国山脈まで続いている。爽やかな潮風が段畑の斜面を駆け上がり、畦道に腰掛けて一休みする皆の頬をなでる。

後に故郷から遠く離れて生活するようになるまでの生家での出来事で、この蜜柑畑《みかんばたけ》での時間ほど、「家族の絆」というものを感じていたときはなかったかもしれない。

 (3につづく)

読書術

私の乱読癖は、無謀にも加藤周一を真似て「一日一冊」を実行していた高校時代に身に付いてしまった・・・ということはどこかに書いた。若い時に染み付いた癖は、善かれ悪しかれ、簡単には抜けない。

当時の岩波文庫は★の数で価格が決まっていた。★一つが50円の単位で、★三つなら150円、五つなら250円・・・という具合である。また、岩波新書は一冊だいたい180円、それ以上はおよそページ数で値段が決まっていた。

平均して毎日200円程度の金銭を必要としていたわけだが、それは月5000円の小遣いの範囲を大きく超えるものではなく、懐が寂しくなれば、たいがい高校を“エスケープ(こっそり学校を抜け出すこと)”して、近くの図書館で過ごしたり、店主にハタキで邪魔されながら立ち読みするのが、私の密かな楽しみになっていた。

あの頃の今治西高等学校は、猛烈な進学校の一つであったにもかかわらず、奇妙に大らかなところがあって、このエスケープが理由で怒られたり説教された記憶などはない。進学校の常として、当時、国立一期校への道に漏れた、落ちこぼれ的生徒たちは、端《はな》から大きな問題にされていなかったのかもしれない。ただ、一度だけ職員室に呼ばれたのは、数学のS先生の授業中、いつものごとく教科書の間に英語の読本を挟んで読書に浸っていたのが原因だった。

S先生はまだ二十代半ば、新任情熱教師の典型みたいな人だった。いつも白衣を着て右手に鞭(指示棒)を持ち、たぶん理路整然と数学理論を説いていたにちがいないのだが、高校2年にもなった私は、すでに私立文系に進むことを決めていたから、理系のみに必要な数学や物理や化学の教科への興味から遠いところにいた。

しかし、この先生が嫌いだったわけではない。他の日本史や世界史や古文・漢文などの場合と同様、私(だけではなかったろう)は、教科授業の良し悪しと、その教師自体の良し悪しを明確に分けてとらえていた。S先生の授業内容は私に何も教えなかったろうが、彼の単純明快にしてスッキリとした人柄には一種の好感を伴った敬意を持っていた。

ある日、あまりに平然と授業を無視する私の行為に、どこか意所《いどころ》の悪かったらしいS先生の大きな声が怒気を含んで聞こえてきた。「K!ちょっと前へ出て来い!」 私は「あらら?」と呟きながら教壇の横まで進み出た。クラスは静まりかえり、皆の注目は次に起こるS先生の行動とそれに対する私の反応に集まった。

その直後、突然、振り下ろされた小柄なS先生のムチを避《よ》けようと思えば避けられたかもしれない。当時の私は、剛柔流空手を少しかじった硬派としての一面も持っていて「オヤジ」という、もっともなあだ名が付けられていた。しかし、それは私の全く予期していない行動だった。五部刈りの坊主頭はまともにムチを受け、ピシリという乾いた音が教室に響いた。私は一歩間を詰めて「しわくなら素手でしわけ!!」とだけ言って席に戻った。その結果、「あとで職員室に来い!!」・・・となったわけだ。

放課後の職員室には二つの空気が流れていた。どこの組織にもあるだろう「体制順応」の空気と「体制嫌悪」の空気である。あえてもう一つ加えるなら「どっちつかず」の空気もあったであろう。行きたくもない職員室にしぶしぶ出向きS先生の机の前に立つと、先生は複雑な表情を浮かべながら「ムチで叩いたのは私が悪かった。君の気持ちは分かる。でも、少しは私の授業にも興味を持ってほしい・・・」と謝罪とも説教とも同情ともつかないようなことを言った。この時、十七歳の少年の感性はことの全てを把握していたのかもしれない。

私よりも十年ほど早い学生時代を東京の国立大学で過ごした彼は、何らかの形で、あの六十年安保に象徴される反体制の空気に触れていたはずで、狡猾《こうかつ》で理不尽な権力の横暴と、底の浅い学生運動の決定的挫折にも遭遇していたはずだ。そして今、地方の一教職公務員を生業《なりわい》とする自分の立ち位置を、時に悲哀と苛立《いらだ》ちをもって眺めることもあったろうと思う。私の目からなぜか大粒の涙が溢《あふ》れた。

隣の机で一部始終を聞いていた化学の中年教師は「このクソ生意気が・・・!」と吐き捨てるように呟き、少し離れた机の物理の熟練教師は「K!オマエは大物になるぞ・・・!」と明るく笑った。その後、ますます化学の時間が嫌いになり、物理の教師が好きになったのは言うまでもないが、この事件がその後の私の成績の変化に何らかの影響を与えたということはない。

 (脱線気味のまま、2へつづく)
 

言葉が輝くとき

「私たち日本人にいちばん欠けているものは何か、といいますと、自分が独りでこの地上に生きている、たった独りで生きているのだという自覚ではないでしょうか。」
辻邦生 『言葉が輝くとき』middle_1187945045.jpg

辻は加藤周一の6年後輩にあたるが、加藤同様、フランス文学者の渡辺一夫に師事している。辻は仏文専攻だから当然。加藤は医学部であったにかかわらず、仏文教室に出入りして渡辺から大きな影響を受けている。

彼は学生時代に急性肝炎で生死の境から蘇り、楠(くすのき)の新緑の輝きに包まれて、「死を見つめ、感じたときに、かえって生きているという誰にも当たり前の平凡なことが、突然考えられないくらいすばらしいものである」ことに気づく。

「いよいよ退院となって、ちょうど5月でしたが、東大病院を出て、大学の構内を歩いていましたら、大きな楠がたくさん茂っているのですね。楠はちょうど燃え立つような新緑です。この緑の輝きの美しさに、これが「命」なんだと感動し、その時初めて生きているって本当に嬉しいことなんだと思いました。そして、この嬉しさは「死」というもの、自分が死んでこの世からなくなってしまう、一人ぼっちでお墓の中へ入ってゆく、そういうことと裏腹にあるということに気づいたのです。」

人間は、否応なく、たった独りで生き死にする実存であり、深く深く見詰めてみると、その在り方が実はとんでもなく素晴らしいことであるということ。この体験感覚がその後の彼の生き方の基調となったに違いない。

ドリトル先生

変な台風だった。一昨日はの堀江は暴風圏の中にあったにもかかわらず、昼から夜までほとんど凪の状態。“返し”の西ではなく南東から南に寄ったそよ風が少々。

ずぶ濡れ12㎡を乾かしながら、久々に会ったウィンド時代のK君から遠い昔の仲間の近況を聞いたり、M君にならってカイト大好き少年R君の練習をしたり・・・とそれなりに充実した半日ではあった。

およそ”風待ちだけで”こんなに長時間海辺にいることはまずない。明らかな無風時に海方向に心が動くことは稀(まれ)だし、たまに予想を誤って好みの風に会えない時は、他の何かを成すべく速やかに頭のスイッチを切り替える。他の何かには「特に何もしない」ことも含む。

何もしないと言えば、"THE Story of DOCTOR DOLITTLE"のドリトル先生が仲間の動物たちと繰り広げる冒険談を思い出す。H・ロフティングの「ドリトル先生シリーズ」は、すでに40を超えたオジさんにもずいぶん大きな楽しみを与えた。

彼が自分の息子だけでなく、「全ての子供たちとまだ子供の心を失っていない大人たちに捧げる」ために書き始めたお話の数々には、かなり鋭い人間社会への批判精神が脈打っている。

例えば、ドリトル先生は医者なのだが、人間よりも動物が好きなので、彼の家には実に様々な動物たちがワンサカ集まって、さながら小さな動物園の様相になる。そして当然の結果、動物嫌いの患者がだんだん寄って来なくなり収入が減り生活にも困るようになる。

それを見かねた妹のサラが、「こんなことでは・・・”best people" (最良の、つまり上流階級の患者さん)が来なくなるわよ!」と説教するのであるが、先生はそんなことは意にも介さずこう応えるのである。"But I like the animals better than the `best people',"  「でもね、私は『最良の人間』より動物たちの方が好きなんだよ

また、オームのポリネシアから動物語を習うに至り、獣医としてそれなりの収入に恵まれるようになっても、こういうことを言うのである。"Money is a nuisance," he used to say. "We'd all be much better off if it had never been invented.  What does money matter, so long as we are happy?" 「お金とは鬱陶(うっとう)しいものだな・・・こんなものが発明されなかったら、私たちは皆もっと幸せだったろうに・・・私たちが幸せであるのなら、お金に何の用があるというのだろう・・・

・・・そして、その名前ドリトルとは、"Do Little"で、「ほとんど何もしないこと」。1920年代・・・すでに過度な物質文明の非人間性が行き着くところ目星を付けていたロフティングは、「不完全な人間があまりに働きすぎてモノを多く生産しすぎるとロクなことはない」・・・という強いメッセージを、そのまま主人公に冠したわけである。

井伏鱒二の翻訳は日本語としても秀逸なので、動物好きの人にも動物嫌いの人にも、人間好きの人にも人間嫌いの人にも、ぜひ一読を・・・とお勧めする。

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昨日はやっとまともな台風の西の返しが入り、別府で様子見ランチを済ませた後、塩屋へ移動。7mほどの南西風にグシャ波の中、12㎡で25kmほど走る。この程度の風なら19㎡で充分楽しいのだが、このラムエアにかつての生気はすでにない^^;

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プロフィール

HN:
寛太郎
性別:
男性
職業:
self-employed
趣味:
風読み・読書・自転車ほか多数
自己紹介:
瀬戸内の小島生まれです。学生時代は国際法を少し。数年間の堅い団体職の後、子供好きが高じて学習塾を、風が好きでスカイスポーツのイントラを、等と趣味と仕事が重なる生活を数十年経験しました。55歳引退計画に従って現在は基本的にフリーですが、相変わらずあれこれ忙しくしています。

生活方針は「無理をしないでゆっくりと」およそ中庸を好みます。東西を問わず古典思想の多くに心惹かれます。まずは価値相対主義を採用し事物の多様性を愛しますが、ミソとクソを同等にはしません。モノゴトには自ずと高低浅深があり、その判断基準は「大自然の摂理と全ての生命(いのち)の幸福」の中にあると思います。敬愛する人物は古今東西少なからず、良寛やB・ラッセルを含みます。

ナチュラリストと呼ばれることを好みますが、人間が創り出した道具類にも大きな関心を持ちます。人間語だけでなく、あらゆる生き物たちの「ことば」に興味が尽きることはありません。60~70年代ポップスや落語を聞いたりすることも好きです。

・著作:『空を飛ぶ・一つの方法』
・訳書:『リリエンタール最後の飛行』
・訳書:『個人と権威』

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