内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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脱線ついでに、私の読書歴を記憶の射程の及ぶ範囲まで辿《たど》ってみる。遠くは初めて文字を読み始めた頃にまで遡《さかのぼ》るが、私が「あいうえお」を覚えたのは、たぶん幼稚園に上がる前の頃だったのだろうと思う。
母はやっと文字を書き始めた一人息子の落書きがよほど嬉しかったのだろう。旧家の南に面した小部屋の壁には、拗音《ようおん》の「ぁ」が抜けた「かあちん」という、縦に大きな赤字がいつまでも残されていた。
昭和三十年代の中頃、終戦直後の混乱期はとうに過ぎてはいたものの、瀬戸内の小島の南岸に位置する小さな漁村は、多少の差はあるにしても、どの家も並《な》べて貧しかった。
日本の島々の漁村のほとんどがそうであるように、この志津見という人口二百人ほど集落のすぐ裏手には山が迫り、田畑に供する平地に乏しく、小山の斜面の多くは段畑に利用されて蜜柑《みかん》や芋・スイカなどが植えられていたが、主食の米は山の反対側にある隣村から調達するしかなかった。
当然ながら、漁村の主産業は「漁業」ということになる。遠方に石鎚山系を望む燧灘《ひうちなだ》の海は様々な魚類だけでなく海藻類にも恵まれ、戦後の食糧難の時期も「食べる」という点では都市部ほど苦労することはなかったらしい。
旧家の庭には鶏《にわとり》が数羽と一頭の山羊《やぎ》が飼われていて、彼らは私たち家族に、かなりの栄養源を提供していた。生みたてのまだ暖かい卵を鶏舎に取りに行き、柔らかく膨《ふく》らんだ山羊の乳を搾《しぼ》るのは、姉と私の毎朝の仕事になった。
家の裏山の南斜面は山頂近くまで何段にもわたる蜜柑畑になっていた。私が物心ついた頃には、元職業軍人の父が戦後関わり続けた漁業関係の仕事は、徐々に政治世界の色合いを濃くし始めていたのだが、蜜柑や八朔《はっさく》生産との兼業は私が高校を卒業するまで続いた。
ここでの作業は初冬の収穫期だけでなく真夏の摘果《てっか》や散水や消毒散布などで結構な体力を要し、時には熱中症気味になってクラクラすることもあった。しかし、父も母もまだ若く、六つ年上の姉も小・中・高と徐々に成長していく私も、それらの作業が嫌だと思ったことはない。
段畑をつなぐ畦道《あぜみち》には一本の大きなビワの木があり、初夏になると黄色い花のような多くの実がなった。姉か私が素早く木に上って甘い実を集める。父と母は下で笑いながら見ている。眼前には漁村の全景が箱庭のように見え、南に広がる大きな海原は遠く四国山脈まで続いている。爽やかな潮風が段畑の斜面を駆け上がり、畦道に腰掛けて一休みする皆の頬をなでる。
後に故郷から遠く離れて生活するようになるまでの生家での出来事で、この蜜柑畑《みかんばたけ》での時間ほど、「家族の絆」というものを感じていたときはなかったかもしれない。
(3につづく)
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