内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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概して病弱な子供は熱心な読書家になる。一つは他に楽しい遊びを知らず、一つは家庭の中にそれなりの書物と環境がある場合。加藤周一などはその典型で、『羊の歌』の「病身」の章では、その辺りの事情が詩的ともいえる美しい表現で語られている。もっとも彼の書いたものは大体において詩的なのだが・・・。
子供時代の私はさほど病弱でもなかったが強靭でもなく、しばしば原因不明の熱を出して、幼稚園児の頃に一時、今治の病院に入院していたことがある。しかし、そこにあったのは書物ではなく、若く美しい看護婦さんの優しい笑顔と、夕方五時になると決まって街のどこかから流れ響くドヴォルザークの「家路」だった。
「遠き山に日は落ちて・・・」の旋律は、その後長く私の耳奥に残り、いつどこでこのメロディーを聞いても、あの白い病室とアルコールの匂いと、病院という秩序正しく閉じた世界の暖かさを、ある種の哀愁と共に思い出す。そして家庭の中には、当時、母が読んでいた『婦人の友』の他に、父の仕事関係の実用書や辞書類を除いて書物らしい書物はなかった。
生家の周囲には大自然の運動場があり無限に広いプールがあり、元気この上ない漁村の子供友達が大勢いたから、屋外での遊びに事欠く要素は一つもなかった。だから、ある年齢に達すると幼稚園という窮屈で退屈な檻のような施設に通わなければならない、という事の理由が納得できるはずがない。
しかも、その幼稚園は一山超えた四kmも彼方にあり、そこまで子供用の自転車で行けというのだ。私が毎朝、お隣の玄関柱にしがみ付いて泣きながら登園を拒否した・・・という話を母はよくしていた。それでも、狭い幼稚園の中庭の様子や「お昼寝」の一刻や遠足の風景などをかすかに覚えているということは、ある程度はこの苦行に耐えていたのだろう。
小学校に上がっても、原因不明の発熱はときどきやってきて、これを幸いによく学校を休んだ。外で遊べなくても学校よりはまだまし。カッチンカッチンと正確に振り子を揺らす柱時計の音《ね》を聞き、天井板に散らばる節模様の中に様々な鬼妖怪の姿を見るのに飽きたら、たまに買ってくれるプラモデル作りを除いて、小学館の月刊誌『小学○年生』を眺めるくらいしかすることがなかった。この子供向け学習雑誌の中には、算数や国語などの他にも、それなりに面白い科学的・芸術的記述もあったはずなのだが、私の記憶には「鉄のサムソン」などマンガの類しか残っていない。
そして、小学校六年生の時に、この繰り返し訪れる発熱の原因が、どうやら扁桃腺《へんとうせん》の異常にあるらしいという診断が下された。再び、幼稚園の頃に入院していたあの病院に舞い戻って切除手術を受けることになる。
その手術の手順はまことに原始的なもので、2012年現在の内科医が、もしも同じことを自分の子供にしたら、私は躊躇なくその医者を殴り倒すだろう。優しい看護婦は後ろから私の両目を塞いでことの成り行きを見えないように努力していたけれども、指の間には隙間《すきま》というものがある。浣腸器のような太い注射器を喉の奥にズブリと刺して部分麻酔した後、キラリと光るハサミを突っ込んで扁桃腺の根元からパチンと切断する過程を、私は全て見ていた。
ところが、あの麻酔注射は何の用をなしたのか・・・それはまさに「これまで生きてきた中で最大の痛み」だった。入院期間は一週間ほどだっただろうか・・・術後3日ほど経ち、やっと少量の水が飲めるようになった頃に、父が「よく頑張った!」、と最たる苦行に耐えた褒美《ほうび》として、「今治タイガー」というステーキハウスに連れて行ってくれたのだが、当時は余程のことがなければ目にすることのなかった分厚いステーキが私の喉を通過することはなかった。しかし、この苦行の褒美はステーキだけではなかった。
父母の出自については、別に詳しく述べることもあるだろう。ただ少し母方の事情に触れると、母は十六歳の今治女学校卒業直前に、父つまり私の祖父を佐世保の軍需工場の爆撃で亡くし、その後多くの同級生が選択した教師への道を諦《あきら》めて、ちょうど終戦直後のその歳、戦後処理の任務に当たっていた海軍仕官(博多武官付)の妻になった。
彼女は長女で、幼い頃に病死した男子の他、下に三人の姉妹がいた。その末っ子とは歳の差が十四もあったが、彼女がちょっと変わった女性で、当時としては珍しく、周囲の反対を押し切って単身アメリカ西海岸に留学し、帰国後、貿易商社の秘書を仕事とした。
その「Yねえちゃん」(と私は呼んでいた)が、入院中の甥(私)への見舞い品として置いて行ったのが、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』とジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』の二冊だった。この二冊の本は、私と同世代の少年たちが活躍する、はるか彼方《かなた》の世界に大冒険の数々が確かに存在することを鮮やかに教え、ビルよりも高い脚を持った宇宙船が簡単に人類文明を破壊し、タコのような火星人の気色の悪い触手が病室のドアの隙間から今にも侵入してくるのではないか、と錯覚するくらい強烈な衝撃を私に与えた。
扁桃腺熱の終わりの時は、その後遭遇するであろう多くの書物がもたらす衝撃の歴史の、始まりの時でもあったのである。
(その4につづく)
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