内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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或る一つの強烈な体験は、それ以前に経験した数々の出来事の印象を薄めるのかもしれない。小学校時代の六年間に私が読んだ本は、教科書類や課題図書など他にも多くあったに違いないのだが、その内容のほとんどを今は思い出すことができないのは、単に時間の問題だけではないような気がする。
私の興味の対象が、圧倒的に「野外での遊び」にあり、小学校で配布される本類の中にも、小学校そのものにさえ、存在することが少なかったということもあるだろう。
しかし、小学校という特殊な閉鎖社会に全く魅力を感じていなかったわけではない。戦前から存在する木造平屋の横に長い校舎は、極めて汚い便所も含めて随所に、そこで多くの時間を過ごした子供たちや先生方が残していった痕跡が刻まれていたし、何よりも、当時の私にとっては、可愛いらしいことこの上ないKという同級生の女の子がいた。
彼女とは幼稚園から中学一年まで組が変わることがなかった。(小学校は松・竹の二クラス、中学校は1~4までの四クラス) 私が級長のときは。たいがい彼女が副級長で、勉強の上ではライバル的存在でもあったのだが、想えば、あの年齢で八年間も、たった一人の女の子が好きだったわけで、これは生命的時間論からすると、成人なら何十年もの永きに渡る片想いということになるだろう。さらに彼女とは同じ高校に進学したので、相当に深い縁があったと言わざるを得ず、高校時代には幾らか胸のときめく後日談があるのだが、ここでは触れない。
さらに、三年生から六年生まで通して四年間も担任だった矢野友弘先生の人格は、昭和二十年の敗戦を境に百八十度変わった国家の教育方針などとは、おそらく全く無関係に、私たちを大きく包んでいた。彼は便所の傍らに、彼しか使わない陶器用の釜を持ち、常にズボンの横からタオルを垂らし、なんであれだけ出るのかと子供心に不思議なくらいの鼻水を拭うことを習慣にしていた。
その口癖は、授業中に何かを言い違えたとき「もとい・・・」を連発して訂正することと、生徒たちの悪戯《わるさ》が時々発覚し、中の一人が別の生徒も同じことをしているではないか・・・というような弁解を始めると、「自分のことを棚に上げて人のことを言うな!」と鼻の頭を赤くしながら真剣に叱責することだった。
だが、私たちの誰もそれによって萎縮することも反省することもなく、数限りない悪戯を繰り返したのだった。彼の全身から溢れ出る巨木のような優しさは、どんな種類の彼の怒りにも勝っていたのである。私たちは親愛の情を込めて、ずっと彼を「友やん」と呼んだ。
小学校を卒業して十年以上も後、何かの祝いに頂いた大きな鯛の油絵は、今でも我が家のリビングの壁、中央上部で食卓を見守っている。
一人息子の教育に関しては、父も母もたぶん普通以上に熱心なタイプで、嫌がる私を一山向こうの村の習字塾と英語塾に通わせた。五年生の頃には、旧家の一室を開放してソロバン教師を招いたので、否応なく我が家がそろばん塾になり、村の子供たちの多くが、週に一回パチパチとソロバン少年・少女になった。
しかし、習字塾も英語塾も数ヶ月も続かなかったと思う。かろうじで、ソロバンだけは自宅塾から逃げるわけにもいかず、大いに落ち着きに欠ける少年の集中力の養成にはある程度の用になったかもしれない。まだ二十代後半のソロバン教師は、穏やかな微笑みを絶やさない、大声で怒ること一度もない、実に気持ちの良い青年だった。春休みの或る日だったか、彼は私を含む子供たち数人を鈍川渓谷への一日旅行へ連れて行ったりもした。
何を成すにも言えることだろうが、教育にもタイミングというものがある。本人がまったくやる気のない時期に、強制的に何かをやらせようとすると、どこかに無理が出る。従順な子供は一時それなりに成果を上げる。そうでない子供は表面的には従順を装うが、どんな服従も長く続くことはあり得ない。いずれにしても、やがて無理が高じて反抗に変わり、周囲が望むところと反対の結果が出ることがほとんどだ。
本人の先天的な才能を前提としても、有名スポーツ選手の例では、卓球少女の愛ちゃんやスケート少女の真央ちゃんなどは例外中の例外で、おそらく彼女の母親やコーチには、相当に合理的な計画と、並ではない忍耐と、極めて緻密な配慮があったのだろう・・・と私は推察する。
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