内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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やっぱり、一杯やって良い気分でものを書こうとするとロクなことはない。さきほど、今日の出来事について少々長めの記事を書いている途中で、余計なキーを押したらしい。一発できれいサッパリ消えてしまった。
また同じことを繰り返す根気はないので、今日の塩屋はまず最高の部類に入るコンディションだったということ。ウィンド時代からの友人のK君ほかお二人が昼休みに来たこと。彼が、加藤周一の本を読んでくれていて、ありがたいと思ったこと。
アイフォン5の回線速度がとんでもなく速くなっていて、少々驚いたということ。F君から届いた速度計測アプリの回転計がクールで、あちこちで使ってみたということ。
これだけで終わりにする。
静かな日曜日だった。そう風のことを気にするでもなく。朝は、アメリカ大陸の東はずれに住む友人家族とのスカイプ交流の楽しみにS君も加わって・・・まあ、とんでもなく便利な時代になったものだ・・・。
運よく数百年後まで現在路線の人類文明が残っていたとして、今という時代は、まさに「大情報革命」の時代であったと評価されることは間違いないだろ。それが本格的に始まったのは、ほんの20年ほど前、Win95が出て、マックも頑張り、インターネットが大普及を遂げてからのことだ。この間の世界的技術革新はどんなに驚嘆してもしきれないくらいだ。
何年か前に、こんな記事を書いたことがある。こんな変化がまだまだしばらくは続くだろう。
「ウィンドウズ95が出てすでに12年、干支が一回りしたわけだが、この間のインターネットやパソコンの技術革新は目まぐるしかった。ほとんど驚異的と言ってよい。私が手にしたWin95最初のPCは14インチモニター一体型のNECキャンビーだった。(当時25万円、今これだけ使えばかなりの性能のデスクトップが3台は買える。)Win3.1に比べると格段に扱いやすいOSになって、随分多くの時間をワクワクしながら、時にはノイローゼになりそうなくらい熱心にこの世界との付き合いを始めた。
ちょっと振り返ってみると、私のパソコンの原点は25年前のまだマイコンと呼んでいた頃のシャープMZ7000だ。これを安月給をはたいて購入したときの嬉しさは格別だった。モニターは家庭用のテレビ、プログラムはBASICをカセットテープで小さなメモリに何分もかけて読み込ませてから更にゲームソフトのテープを読ませる。それでやっと『スタートレック』などのアドベンチャーゲームみたいなものが楽しめる・・・というもので、ともかくゲームがしたくて始めたようなものだった。
そして、このBASIC言語を何日もかけて組んでやっと完成させ大喜びしたのが単純なピンポンゲームだった。これで充分感動できた時代だ。このゲーム熱も数年後にファミコンなる万能ゲーム機が出て一挙に冷めてしまうことになる。
12年前のネット環境は今から考えるとバカ高い料金の従量制で、ピーヒョロと鳴く14.4Kbpsのモデムで、常に時間を気にしながら100kb程度の(楽しい)画像を落とすのに何十分もじっと待っていたこともあった。これが今や100Mbpsの時代だ。ざっと1000倍の速度!
HPを中心とするネット上の情報の総量も圧倒的に少なかったけれども、英語サイトの文書類にはかなり使えるものがあった。すごい時代になったな!これからもっとすごいことになるだろうなー・・・と考えていた。そして、その通りになった。PCのCPUやハードなどはもう言葉にもならないくらい大変なもので、私の想像をはるかに超えていた。メガバイトの単位のハードディスクの容量がギガバイトになったのだから、これも単純に1000倍進歩したということになる。10年ちょっとで1000倍に変化するものなんて、第一次世界大戦後のドイツを除いては、終戦直後の日本の物価くらいのものだろう。
人間の環境適応能力は全ての動物に優れる・・・という人がいる。私もある程度はこの説に賛同するが、しかし、どんどん前に進むだけが人間の幸せでないことも良く知っている。つまり、日の当たる進歩の裏にはおそらく同程度の退歩の影がくっ付いているという見方をする。長い目で見た場合、その退歩・後退が人類の存続にとって決定的な負荷になり、取り返しの付かないものにならないことを、とりあえず今は願うよりないのかもしれない。」
やはり問題は、これで「人類が幸せになるかどうか」ということで、大概のモノゴトには明と暗があるから、手放しで喜んでいると、たぶん痛い目に会うこともあるだろう。
人間が作った道具を使うのは、もちろん人間であり、おそらく宇宙大に広大深遠な人間存在そのものの「科学的」探求は、どんなにひいき目に見積もっても、序の口に付いたばかりじゃないかと思われる。
もっとも私は、いわゆる現在の科学的方法のみが、人間探求方法の全てではないと考える人間の一人である。
上空に寒気が入る季節になると、しばしばこの様に一定方向から帯状に雲の列ができる。相対的に冷たい空気は下降気流となって海上(地上)に達し、海面付近で温められて上昇する。上昇した空気はまた冷やされて下降気流となる。
この繰り返しがこのような現象を生むのだが、風の本流が中国地方から瀬戸内海を抜け四国に向かっている時などは、海面付近の水蒸気を吸収して吹き上がるので、特にこういう雲の道(クラウドス・トリート)ができやすい。
よく見ると、雲は海の上空だけに現れていて、広島地方上空にもこちら松山の平野部上空にもないことが分かる。
雲底高度はおよそ1500mほどか・・・横にすれば歩きでも15分ほどで到達する。すぐソコにありますという距離だ。もちろん、これが海上を吹き渡る風に影響しないわけがない。
今日の堀江は、この図式どおり、5m前後の北風が吹いたり止んだりの穏やかな晴天だった。
大海も 磯もとどろも なけれども 塩屋に騒ぐ 瀬戸の風波
おおうみも いそもとどろも ないけれど しおやにさわぐ せとのかざなみ
今日の塩屋の海を見て、鎌倉幕府三代目、源実朝の「大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも」を少しパロってはみたが、まちがいなく、正岡子規先生に怒られるだろう。
子規は実朝を次のように評する。「・・・実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活(い)かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存(ぞんじ)候。強(あなが)ち人丸(ひとまろ)・赤人(あかひと)の余唾(よだ)を舐(ねぶ)るでもなく、固(もと)より貫之(つらゆき)・定家(ていか)の糟粕(そうはく)をしやぶるでもなく、自己の本領屹然(きつぜん)として山岳(さんがく)と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏(おそ)るべく尊むべく、覚えず膝(ひざ)を屈するの思ひ有之(これあり)候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤(あやまり)なるべく、北条氏を憚(はばか)りて韜晦(とうかい)せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、実朝は全く例外の人に相違無之(これなく)候。何故と申すに実朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚(こ)びざる処、例の物数奇(ものずき)連中や死に歌よみの公卿(くげ)たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、実朝の歌の如き力ある歌は詠(よ)みいでられまじく候。・・・」 『歌詠み与うる書』の冒頭。
ここで子規が「人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例(権力や社会的地位を持ち、ある程度の文学や芸術・技術を心得た人間は、多くの場合、傲慢になり人格としては下劣の類となる※寛太郎的解釈)」と断っているあたり、私は子規その人の偉大さを直感する。
若干26歳で暗殺された実朝については、加藤周一も、彼の最期の遺言的映像『それだけではない』で繰り返し語っていた。その和歌の偉大さは、今のところ私の理解の向こう側にある。しかしそれらは、おそらく長い日本の詩歌の歴史の中で、桁外れに優れた虹彩を放っているのにちがいない。
ただ、実朝の来歴・事跡を知るにつれ、色々と興味深い事々が浮かび上がってきて、私のような歴史音痴でも、どんどん深みにはまりそうになる。例えば、彼が渡宋を計画するに至った経緯に、こういうのがある。
彼が21歳、東大寺大仏の再建を行った宋人の僧が彼に会うために鎌倉まで参上して御所で対面した時、実朝を三度拝んで泣いた。実朝が不審に思って聞くと、僧は「あなたは、昔、宋朝の医王山(薬草がたくさん採れる山からの命名らしい)の長老であり、私はその時の門弟の一人であった」と述べる。それは、実朝が5年ほど前に見た夢に現れた高僧が語った内容と同じであり、実朝はそれを他言したことはなかった・・・というような話である。
「転生輪廻」云々の思想について、私は「神の存在」云々と同様、とりあえず証明不可能、つまり「在るかもしれないし無いかもしれない」類の問題として、解答を保留してある。
神については、その存在を前提とした時代と、それを消し去った時代が残っているから、話はいくぶん簡単になる。あると考えたらとうなるか、ないと考えたらどうなるか・・・ということが分かりやすいという意味で。しかし、転生輪廻については、かなり複雑でややこしいことになるだろう。
どんなにややこしいことになるかは、複雑なことを書くのが、めんどくさくない時に書くことになるだろう。私なりに想うところはある。いずれにしてももしこれが事実であれば、非常に面白いことになることになるな・・・とは思っている。
今日の塩屋海岸には、安定した腰の強い西寄りの風が入っていた。火曜日以来5日ぶりの順風だ。私の海通いは、多くの愛好家が楽しんでいる散歩やジョギングと同じで、午後の日課になっている。3日も海風を吸わないと、なんだか身体や頭の中に良からぬガスが溜まったような気分になる。
もう何年も前から、午前中は頭を使い、午後は身体を使い、夜はできるだけ何も使わないでボケーとすることを、生活パターンにしたいと計画し、それなりに実践してはいるが、もちろん計画通りにいかないことがあるのは、いい加減な人間の宿命として仕方のないことである。
昼過ぎに到着した時点で6~7m。私のラムエア19㎡でちょうど良い風だ。若干南西よりから寄せ来る波の様子では、上がっても8m余りだろうから、10mまでは何とか使える19㎡の許容範囲だが15㎡でも充分走れる。私は大体ゆったり跳びたい時は大きいサイズを、少しクイックな回転技やトランジション(方向転換)をしたい時は小さいサイズを選択する。
私の風読みの仕方が、ウィンド・サーフィンの時代と違うのは、海面をなめるように吹き渡る風の強弱によって、色の濃淡や波高・波質を変える海面の様子だけでなく、上空の雲の様子や、頬をなでる時々の風の質の変化にも注意を向けるようになった、ということだ。
これは長い空の生活で身に付いた習慣で、カイトサーフィンでは、人間はほとんど海の上を走ってはいるが、カイトウィングは飛行翼として空中を走っている。半ば以上はスカイスポーツの一分なのだ。
この海岸にまともな西寄りの風が入ると、時によってはヘッドに近い波が入る。いくらか遠浅になっているので、沖ではそこそこの波長を持ったスウェル(うねり)が入り、海岸近くではきれいな巻き波を何層か形作って、ちょっとした波乗り気分になれる。この辺りでは貴重な浜だ。
前回は、風こそ不安定だったが、少し沖のうねりはショルダー程度はあり、このエリアでは久しぶりのウェイブ・ライディング(みたいなもの)を味わった。今日はちょっと速めの順潮(風向と潮流が逆で、風上に向かって上りやすくなる)だったので、小さな波は尖り気味の潮波に変じて、あんまり面白いものではなかった。
しかし、徐々に西に傾いて行く太陽を反射する海面で千変万化する波の様子を観察しながら滑走したり、適当な波頭を見つけてジャンプや回転を繰り返したりしながら、私はある想いに浸っていた。私の場合、しばしば起こる、ほとんど日常的な出来事である。
「これらの風も波も空も光も、そして、こうやって、その中で動き、感じ、考えている自分という存在も、全てが確実に連続しながら繋がっている、一つの壮大で同時に繊細な世界の出来事である・・・」というようなことだ。
まあ、当たり前といえば当たり前のことなのだが、この感覚を、人間社会の日常で味わうことはそう簡単なことではないかもしれない。
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