内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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エアコン嫌いの私が、昨夏から事務所に導入した「換気扇」の効き目は素晴らしく、昨夜も夜間28℃程度の室温を維持してくれたおかげで、多少面倒くさい話しに流れて熱くなりそうだった頭も、ほどよく冷却されてちゃんと眠ることができた。今朝は、続きにかかる。
何が言いたかったのか。クラウス先生の紹介に関係しながら、「体験」と「認識」は深い関係にはあるが、同時に、別次元の問題であるということ。モノゴトを主観的に体験しながら客観的に認識評価することは、まず不可能であろう・・・というようなことだった。
これを私好みの「相対主義」の観点から身近な例で語れば、「リンゴの中に住んでいる虫は、リンゴの姿を知らない。だから結局、リンゴの養分で生きてはいるが、リンゴの味もリンゴ自体を理解することもできない」・・・となる。
これは、まあ当たり前といえば当たり前の話なのだが、私も含めてたぶん多くの人たちがしばしば、この「当然の事実」を忘れて、つまらない間違いに気付くことなく、無駄な苦労をしていることがある。
私たちは2012年の現代に生きていて、しかも、この現代は1945年の現代と確実に連続している。更には1868年の日本近代とも間違いなく連続している。今私たちがどのような時代状況の中にいるかを知るためには、日本国やその他の国々が驚くべき愚劣さを示したあの時代や、それに至る筋道を付けたあの時代について知ることは、必然的要件になるだろう。
そしてまた、過去と未来は現在の一点を挟んで連続しているから、過去を知り現在を知れば、ある程度の未来は予測できるようになることも、容易に結論できるだろう。あの大戦が勃発したとき、ほとんどの日本国民は躍り上がって喜んだが、加藤周一は言うまでもなく、その他極めて少数の「当然の事実」を知る人たちは、その結末を確実に予測していた。あの時代、未だ日本国内から一歩も出ることなくして、である。
クラウス先生の今回の小論のタイトルは『ドイツ人は井の中の蛙であってはならない』だ。これはもちろん、インドの偉人ガンジーの言葉を踏んで、先生流に『荘子』の「井の中の蛙、大海を知らず」をもじったものだが、おそらく彼も、多くの先人たちがそうであったように、横に広く、祖国を離れて南ヨーロッパをヒッチハイクし、精神の大国・インドを何年間にも渡って放浪する過程で、初めてドイツを発見し、縦に深く、歴史を研究するに従って、ドイツ国と遥か東方のちょっと変わった国・日本との、ただならぬ関係性を発見したのだろう・・・と思う。
先生とは来々月にも再会する予定なので、この辺りの事情についても、少し突っ込んだお話しをしてみたいと楽しみにしている。
2010年8月28日 インド・「カルカッタ・ステイツマン」特別寄稿
『敗戦から65年:ドイツ人は「井の中の蛙」であるべきではない』
歴史平和学者 クラウス・シルヒトマン 著
今年(2010)、第二次世界大戦後初めて、国連事務総長とアメリカ合衆国の日本大使がそろって広島を訪れ、毎年行われる原爆の記念式典に参加した。オバマ大統領は、彼の在任中には訪問することを約している。
ニューメキシコのロスアラモス実験場で、核科学者たちによって開発された原子爆弾は、1945年、すでにドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結した後、日本を降伏させるために投下されたのだった。ニューメキシコの原爆工場で働いていた研究者により成るロスアラモス科学者協会(ALAS)は、1945年の11月、「この原子爆弾が多くの国々に所有された世界では・・・それは報復への恐怖によってのみ使用が躊躇《ためら》われるのであり、世界の恐怖と猜疑心が最終的に爆発に至ることは避けられないだろう」・・・と警告していた。
幸いなことに今日では、グローバルゼロ運動は公式な世界政策となった。しかし、ロスアラモスの科学者たちが考えていたのは、核が「世界的権威によってコントロールされること」で、そのためには、「ある程度の国家主権の制限」が必要になるということだった。しかし、グラウンド・ゼロから65年たっても、バン・キー・ムーン氏(国連事務総長)が広島の聴衆に語りかけたように、私たちは「いまだに核の傘の下で生きていて」、主権国家はその「主権」の一部たりとも手放そうとせず、必要ならいつでも戦争を始める権利をほとんど永久に捨て去ろうとはしない。
それでも、広島と長崎の惨状を見て、世界中の政治家たちは、国際問題を戦争で解決することはすでに適切な方法ではないと考えていた。戦後のドイツ連邦が、新しく創設された国際連合の要請に沿った軍隊制度を持つことを拒否した理由の一つもそうだった。いくぶん日本国憲法に似て、新しく作られたボン基本法には、当初、軍事・防衛を制度化する条項は含まれておらず、それに代るものとして、国連の方針に沿って国家の主権放棄を進める国際機関の強化に備えていた。そしてそれは結果的に、国家からその平和と安全を確かなものにするために用意しなければならない過大な軍事費という重荷から解放させるものだった。アインシュタインが言ったように、この時期は「私たちの(身近な)屋根の上から世界中の政府に向かって叫ぶ」時だったのである。
ガンジーはまだ戦時中の1942年8月のインドで、市民的不服従運動を導きながら、すでに次のように宣言している。「我々は井の中の蛙《かわず》でありたくはない。我々は世界連邦の樹立を目指す」・・・と。1947年のドイツでは、国際法の教授でもあり、ワシントンと東京で長く外交官を務めたウィリアム・グルーが、ドイツもまた「国連憲章が有効に使われ得ることを目指して、国際連合が連邦制の世界機構に発展すること」に反対しない・・・と述べた。
しかし、グルーは国家社会主義のファウスト(富と力のために精神を失う者)の天才的信奉者であるカール・シュミットの影響下に入ることになった。グルーは中央ヨーロッパをドイツ主導のものにすることを思い描き、同盟国が世界的機構を創り上げようとする努力に力を尽くすことはほとんどなかった。その後、東西ドイツは冷戦下における超大国間の猛火のごとき熾烈《しれつ》な対立の中に長く留まる事になるのである。
1950年、朝鮮危機が訪れたときに初めて、国連の集団安全保障システムが機能するかどうかが、きびしく試されることになった。国連加盟国は「その責任の履行を開始するために」、国連憲章・第106条に各国の注意を集め、透明な安全保障の合意を発動させるべく、安全保障理事会を機能させるプロセス、つまり、「特別協定成立前の五大国の責任」を履行すべきであった。
その移行過程では国連への権限委譲が必要になる。ドイツ憲法下で規定された国連への代表団の派遣は世界平和に向けて効果的に歩みを進める最も重要な第一歩となるべきであった。しかしこの年、西ドイツは過去の過ちを補い、自らが課した苦境から逃れるチャンスを逃した。過去の例は、1899年と1907年のハーグ平和会議にまで遡る。その時、大多数の参加国の願いや平和運動に反して、幾つかの大国が結束して国際裁判所の設立を拒否した結果、第一次世界大戦の勃発を招くことになったのである。
戦後ドイツで、長期に渡りキリスト教民主連盟の党首を務め、連邦首長でもあったコンラッド・アデナウアーは、ドイツの再軍備に熱心であった。グローバルに考えることができなかったのか、考えたくなかったのか、彼はカール・シュミットがそうであったように、ヨーロッパを「世界の母」であり、「国家主義の萌芽」の責任はフランス革命にあって、その結果、ドイツ国家社会主義とロシアの共産主義の過多およびイデオロギー的な追撃を与ることになったのだと考えていた。アデナウアーの最も重要な外交顧問がウィルヘルム・グルーであったことは驚くに足りない。
広島への原爆投下に続いて、ラジオ東京は以下のようなアメリカの新聞記事を放送した。「実質的に、人間も動物も、生きとし生けるもの全てが、文字通り、焼き尽くされた」。後に合衆国エネルギー省は、広島の即死者数は7万人、長崎では4万人と見積もっている。しかし、それに続く検閲によって、その惨状を現す死体や痛々しい犠牲者などの写真類の報道は禁止された。それらは、ドイツのアウシュビッツでのホロコーストを思い出させるものだったからである。天皇ヒロヒトはこの「新型で恐ろしい兵器」について、「多くの罪の無い生命を奪い、計り知れない痛手をもたらす力を持ったもの」と言及し「我々は戦い続けるべきであろうか?それは究極的な破局をもたらし、日本国を消滅させるだけではなく人類文明そのものの絶滅を招くかもしれない。」と語った。そして、8月14日、彼はポツダム宣言の受諾を命じたのである。
日本が戦争犯罪を犯していたのであれば、日本を降伏させるために原爆の投下が必要だったのではないか・・・という議論がいまだになされている。しかしながら、1945年までの戦争では、一度それが起これば、今日のようには制御されることがなかった、という事実を理解しておく必要がある。戦争を終わらせるためには「何でもあり」であった。しかし、これは日本人全体を悪魔とみなすことを正当化しない。なんにしても、第一次世界大戦において日本は同盟国の一員であったし、戦争を終結させるために全てが許されるというルールはすべての日本国民を絶滅させることに如何なる許可を与えるものではない。
合衆国国務大臣だったウィリアム・フルブライトやジャスティス・オーウェン・J・ロバートと共に、アルバート・アインシュタインが、1945年の9月、ニューヨークタイムズ紙上の公開文書で、人類史上初の原爆投下は「広島市を破壊しただけではなく、我々が継承してきた時代遅れの政治理念まで破壊した」と述べたことは、よく知られていることである。
しかしながら、アインシュタインは後に後悔の念と共に「原爆は全てを変えたけれども、我々の考え方まで変えることはできなかった」と述べている。彼はまた、「私は常に日本への原爆使用を批難してきた。」とも書いている。元国務長官だったヘンリー・L・トンプソンは、1947年、原爆は「恐るべき破壊兵器以上のもの・・・心理的兵器である」という見解を持っていた。第二次世界大戦後も、また米ソの冷戦時代を通しても、同様の状況は続いているのである。
1946年1月24日、首相・幣原喜重郎は、ダグラス・マッカーサー元帥に対して戦争廃絶に向けての準備を提言している。これが後に、日本国憲法第九条(平和条項)となった。彼が議長を務めた3月の戦争調査委員会の会合で、彼は次のように語っている。
「他のどんな国家の憲法の中にも、この(第九条)のような規定が存在したことはない。さらに、原爆やその他の強力兵器への研究が減速することなく進められている現在、戦争の廃絶などは夢想家の戯言《たわごと》だと思う人々もいるだろう。しかしながら、今後続く技術の進歩開発によって、原子爆弾の何十倍何百倍もの威力を持った新しい破壊兵器が出現しないということを誰人も保証できない。もしそのような兵器が開発されれば、何百万人もの兵士も、何千もの艦船や航空機をもってしても、国家の安全を保障することはないだろう。ひとたび戦争が起これば、参戦国の都市は灰に変わり、その住民は数時間のうちに絶滅するだろう。今日、我々は戦争廃止宣言を高々と掲げながら、国際政治の広大な平原にただ一人で歩みを進めようとしているのだ。しかし、将来必ずや、世界中が戦争の恐怖に目覚め、同じ旗印の下に行進する日がやって来るであろう。」
1950年のユネスコ憲章が歌《うた》い、例えば、戦後(1949年)のドイツ憲法が規定したように、各国が「団結して平和を組織化するための次のステップに踏み出す準備」をしない限り、国際連合は「悲劇的な幻想」に終わるだろう。日本国憲法における戦争廃絶に向けての主張、国連憲章や民主憲法の数々はそのステップ、つまり、国際平和のための組織化を成功に導き、そのために今日取られなければならない手段を提唱している。ヨーロッパ連合と国際機構は手に手をとって進まなければならない。
かつてヨーロッパの議会に秩序があった頃、ドイツはヨーロッパで起こった多くの事件を制御する力によって、その国家目標を達成してきた。他の国々もそれぞれの合意のもとにドイツに続くだろう。しかしながら、それは大きな間違いだったのである。ドイツ連邦共和国はヨーロッパ中心主義から脱皮し、集団的安全体制を作り、厳格で効果的な国際的なコントロールによって恒久的に軍備を縮小し、世界平和を最優先させることで、グローバルな平和創設国家にならなければならない。軍備縮小は、国連が適当な権限を移譲され、集団安全保障のシステムが機能しさえすれば可能である。おそらくその時初めて、日本も国連の核の傘から離れて真に安全になるであろう。秋葉忠利・広島市長や他の識者が正しく提案したように。そして、それを達成するには、蛙は平和の王子と結婚しなければならないのである。
一言で言うと、ドイツは戦争廃絶を掲げる日本国憲法の動向に続かなければならない。そして、この問題について議論を始めなければならない。それによって、広島と長崎への原爆投下に対する謝罪は適所を得るだろう。しかし、それを成すべきはドイツなのであろうか、どうであろうか・・・?
日本語訳: 渡 辺 寛 爾
クラウス博士の記事小論の翻訳、『ドイツ人は井の中の蛙であってはならない』がほぼ完了した。この希にして少なる人物については、今後さまざまな機会に書くことになるだろう。ここでは、ただ少しの紹介に留める。
日本との同盟国・ナチスドイツが連合軍に敗北する1年余り前(1944年)にドイツで生まれ、青春時代にインドを放浪し、40歳を過ぎて歴史平和学の研究に進み、日本国の憲法史をテーマとして博士号を取得する。68歳の現在、日本人の妻と娘と共に埼玉県の日高市に住み、日本大学やインターナショナル高校で教鞭をとりながら、歴史平和学者として、時に日本の大臣に意見書簡を送り、時に各国大使に直言する。
彼はヨーロッパ戦線の末期に生まれた。私は太平洋戦争終結の9年後の生まれで、10年の歳の差があり、共に戦争体験はないに等しい。しかし、この世界には、体験しないと分からないことと、体験してしまうことで分からなくなることがある。一人の異性を深く愛さなければ愛の素晴らしさは分からない、しかしそれによって、この世界には実に多様な愛のかたちがあるという事実からは遠くなる。愛する一人が世界の全てになるからである。
戦争の最前線の現場では、理性よりも本能的・直感的感覚がものを言うだろう。彼がもし『コンバット』(ヨーロッパ戦線を舞台にしたアメリカ戦争番組)の戦場でサンダース軍曹と戦い、私が父のように連合艦隊の下士官としてスラバヤ沖海戦で英国主導艦隊を撃破していたら、あの戦争の意味を正しく捉えることは不可能に近くなっていただろう。
誰だったか、「人間の行動は深い思慮に基づくべきだが、ひとたび行動を始めたら、考えは停止するべきである(するしかない)」と言った先人がいる。私の経験でもこの言は正しいと思われる。人間は深く静かに思索しながら、同時に、速やかで時に激しい行動をとることはできない。これは、どんなスポーツに携わっている人間にも即座に分かる道理だ。しかも、戦争は殺し合いの世界だから、体験そのものが、体験主体の消滅を意味することもある。
クラウス先生についてちょっと書こうと思い付いたら、また話が長くなりそうな雰囲気だ。こんな時間、この類《たぐい》を書き始めるとまた寝れなくなりそうなので、以下に、幾つかリンクを記して、今夜はこの辺で終わりにする。
なお、翻訳内容は来る広島・長崎の原爆記念日前後、何らかの形で活字になる可能性があるが、ここにも、次のエントリーで全文を記載しておく。興味がある方は一読いただいて、ご意見頂ければありがたいと思う。
概して病弱な子供は熱心な読書家になる。一つは他に楽しい遊びを知らず、一つは家庭の中にそれなりの書物と環境がある場合。加藤周一などはその典型で、『羊の歌』の「病身」の章では、その辺りの事情が詩的ともいえる美しい表現で語られている。もっとも彼の書いたものは大体において詩的なのだが・・・。
子供時代の私はさほど病弱でもなかったが強靭でもなく、しばしば原因不明の熱を出して、幼稚園児の頃に一時、今治の病院に入院していたことがある。しかし、そこにあったのは書物ではなく、若く美しい看護婦さんの優しい笑顔と、夕方五時になると決まって街のどこかから流れ響くドヴォルザークの「家路」だった。
「遠き山に日は落ちて・・・」の旋律は、その後長く私の耳奥に残り、いつどこでこのメロディーを聞いても、あの白い病室とアルコールの匂いと、病院という秩序正しく閉じた世界の暖かさを、ある種の哀愁と共に思い出す。そして家庭の中には、当時、母が読んでいた『婦人の友』の他に、父の仕事関係の実用書や辞書類を除いて書物らしい書物はなかった。
生家の周囲には大自然の運動場があり無限に広いプールがあり、元気この上ない漁村の子供友達が大勢いたから、屋外での遊びに事欠く要素は一つもなかった。だから、ある年齢に達すると幼稚園という窮屈で退屈な檻のような施設に通わなければならない、という事の理由が納得できるはずがない。
しかも、その幼稚園は一山超えた四kmも彼方にあり、そこまで子供用の自転車で行けというのだ。私が毎朝、お隣の玄関柱にしがみ付いて泣きながら登園を拒否した・・・という話を母はよくしていた。それでも、狭い幼稚園の中庭の様子や「お昼寝」の一刻や遠足の風景などをかすかに覚えているということは、ある程度はこの苦行に耐えていたのだろう。
小学校に上がっても、原因不明の発熱はときどきやってきて、これを幸いによく学校を休んだ。外で遊べなくても学校よりはまだまし。カッチンカッチンと正確に振り子を揺らす柱時計の音《ね》を聞き、天井板に散らばる節模様の中に様々な鬼妖怪の姿を見るのに飽きたら、たまに買ってくれるプラモデル作りを除いて、小学館の月刊誌『小学○年生』を眺めるくらいしかすることがなかった。この子供向け学習雑誌の中には、算数や国語などの他にも、それなりに面白い科学的・芸術的記述もあったはずなのだが、私の記憶には「鉄のサムソン」などマンガの類しか残っていない。
そして、小学校六年生の時に、この繰り返し訪れる発熱の原因が、どうやら扁桃腺《へんとうせん》の異常にあるらしいという診断が下された。再び、幼稚園の頃に入院していたあの病院に舞い戻って切除手術を受けることになる。
その手術の手順はまことに原始的なもので、2012年現在の内科医が、もしも同じことを自分の子供にしたら、私は躊躇なくその医者を殴り倒すだろう。優しい看護婦は後ろから私の両目を塞いでことの成り行きを見えないように努力していたけれども、指の間には隙間《すきま》というものがある。浣腸器のような太い注射器を喉の奥にズブリと刺して部分麻酔した後、キラリと光るハサミを突っ込んで扁桃腺の根元からパチンと切断する過程を、私は全て見ていた。
ところが、あの麻酔注射は何の用をなしたのか・・・それはまさに「これまで生きてきた中で最大の痛み」だった。入院期間は一週間ほどだっただろうか・・・術後3日ほど経ち、やっと少量の水が飲めるようになった頃に、父が「よく頑張った!」、と最たる苦行に耐えた褒美《ほうび》として、「今治タイガー」というステーキハウスに連れて行ってくれたのだが、当時は余程のことがなければ目にすることのなかった分厚いステーキが私の喉を通過することはなかった。しかし、この苦行の褒美はステーキだけではなかった。
父母の出自については、別に詳しく述べることもあるだろう。ただ少し母方の事情に触れると、母は十六歳の今治女学校卒業直前に、父つまり私の祖父を佐世保の軍需工場の爆撃で亡くし、その後多くの同級生が選択した教師への道を諦《あきら》めて、ちょうど終戦直後のその歳、戦後処理の任務に当たっていた海軍仕官(博多武官付)の妻になった。
彼女は長女で、幼い頃に病死した男子の他、下に三人の姉妹がいた。その末っ子とは歳の差が十四もあったが、彼女がちょっと変わった女性で、当時としては珍しく、周囲の反対を押し切って単身アメリカ西海岸に留学し、帰国後、貿易商社の秘書を仕事とした。
その「Yねえちゃん」(と私は呼んでいた)が、入院中の甥(私)への見舞い品として置いて行ったのが、ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』とジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』の二冊だった。この二冊の本は、私と同世代の少年たちが活躍する、はるか彼方《かなた》の世界に大冒険の数々が確かに存在することを鮮やかに教え、ビルよりも高い脚を持った宇宙船が簡単に人類文明を破壊し、タコのような火星人の気色の悪い触手が病室のドアの隙間から今にも侵入してくるのではないか、と錯覚するくらい強烈な衝撃を私に与えた。
扁桃腺熱の終わりの時は、その後遭遇するであろう多くの書物がもたらす衝撃の歴史の、始まりの時でもあったのである。
(その4につづく)
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