内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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今年は近年に珍しく忙しいお盆になった。11・12日と田舎で過ごした後、13~15日まで、仲間数人と徳島キャンプ。今回は以前からの計画に従い、風に従ったわけではないので、風に恵まれなくてもどういうことはなかったのだが、風は、まあ、無いより有る方が、この季節、涼しくて良いに決まっている。
しかし、13日も14日も最大3m程度。カイトで水上走行するには足りない。そこで活躍してくれたのがSUPだ。小松海岸にいつものナイス・ウェイブは無かったし、サーファーの皆さんの数もずいぶん少なかったけれど、瀬戸内側に比べると格段に波長の長い小波でSUPサーフィンみたいなものをしたり、ただプッカリ浮かんで大空を眺めたり・・・こういう海との付き合い方も大いに良しではないか。
13日の夜は、コック長M君のおかげで、大雨やカミナリの中、まことに楽しいバーベキュー晩餐会になった。徳島のIさんは、両日のグラハン(地上練習)で2m程度の風でもカイト操作を楽むコツを覚えたと思う。
最終15日は、一緒に松山周辺まで移動して、北の端から南の端までの主要エリアを見物し、最終的には塩屋海岸の南風5m前後のガスティ・ウィンドでそれなりの練習ができた。西に落ちる夕陽を眺めながら、私は「ありがたい」と思った。
今回、特に忙しい・・・と感じた理由は、学生時代からの友人I君夫妻を、長崎から私の田舎に急きょ招くことになったからだ。彼とはすでに35年近くの付き合いで、互いに大概のことは、じゅうぶん知っているはずなのに、たまに会うと、私も彼もあっという間にあの二十代の学生時代に戻り、その上に、その後の数十年の人生で起こった多くの出来事が重なる。
したがって、あの頃の話や、この頃の話や、あれこれの話などが始まると、文字通り止まらなくなる。つまり、再会で許された貴重な時間に多くのことを話そうとするから、「忙しい」ということになったわけで、他に理由はない。
夜の九時を回っても、机上のアナログ温度計の針は33℃を指し、壁掛けのデジタル温度計は32.8℃を示している。こんな夜に、まともなことは書けるわけがないので、少しだけ、まともでないことを書いてみようと思う。私にとっては、ものを「書く」という行為は、ものを「読む」ことと並んで、幾らか「人間らしく生きる」ために、ほとんど抜きがたい習いになっているのかもしれない。
それは、ずいぶん昔、人間の「言葉」というものを覚えた時に始まり、その言葉によって自分の外側に広がる広大な世界が、「そら」とか「うみ」とか「やま」とか「かわ」・・・などに分別され、自分の中の小さな世界に映し出されて理解可能なものに変わることの、驚きや喜びの時期を通過していることは言うまでもない。
次に文字を覚える段階がやってきて、この時点から「読み・書き」が始まるわけだが、実は、人類が・・・などというとまた大きな話になるから、日本に限って言うと、この国に朝鮮半島を経て中国から漢字という文字が入ってきたのは、この国が、まだ「国」という体裁を整えていなかった紀元の初め辺りではないかという説を採用してみる。それでも、まだ二千年ほどしか経っていない。
それ以前の弥生時代、更に以前の縄文時代と呼ばれる、ゆうに万年を超える長い年月、日本には現在知られているような文字は存在しなかった。しかし、もちろん音を伴う言葉は存在し続ける。私もいわゆる「口承」の世界の一分を知らないわけではなかった。しかし、その口承の「ことば」の世界がどれほど豊かなものであったか・・・ということに想像を巡らすようになったのは、わりあい最近のことだ。
例えば「かく」という、現在では、文字を「書く」、絵を「描く」、背中を「掻く」・・・などと細かく分けて表現されるものの全てが、土や岩や土器の表面を「引っかく」の「ひく」+「かく」の「かく」に源を持っていることなどの意味を少し深く考えると、これはちょっと大変なことかもしれない・・・などと思ったりする。
つまり、今は当たり前のように漢字を使って限定しながら使い分けている一つの「ことば」が、今よりもずっと多くの意味を内包していたということで、それだけ大昔の日本人の心の世界、心によって映し出している世界そのものが、より大らかで豊かなものだったのではないか・・・ということである。
さらに日本にやって来た漢字は、それまでの「ことば」(大和ことば)に漢字の音訓を宛てた万葉仮名から、遂には、カタカナやひらがなに姿を変えることで、極めて洗練された表音文字になった。これはまさに、文字の体裁を伴った原点復帰とも言えるものではないか。だから、カタカナやひらがなだけで書かれたものを読み取るには、相当に豊かな想像力を必要とする。平安朝の女流文学のように。
私の祖祖母は三日に一升の焼酎を欠かさない大酒飲みで、煙管《きせる》タバコを楽しみとしていた。どんな本も読んでいるのを見たことがなく、カタカナしか書かなかったけれども、八十七歳で亡くなるまで晩年の数十年間、老齢期にありがちな小言や愚痴とは無縁で、まったく飄々《ひょうひょう》と楽しげに生き通した。私の姉などは彼女を老年期の生き方の理想形と評価している。
ひょとしたら、漢字など読めも書けもしない方が、より気楽な人生を送れるのかもしれない。
昨夜は蒸し暑かった。いつもの川べりに車を停めて、川面で揺れる市内の灯りや、夜半過ぎに東の雲間から現れたおぼろ月を眺めながら、様々な想いの漂うままにボンヤリと過ごした。ゆるい北風に乗って流れてくる畑の肥やしの臭いに、懐かしさや鬱陶《うっとう》しさを感じたりしながら・・・。
昨夕は、対岸のどこかで間欠的にポンポンと乾いた音が響いていた。たぶん花火師か誰かが、こんな時期から阿波踊りの祭りの準備でもしているんだろうな・・・などと思っていたら、今朝の夜明け前にはポンポンが三倍くらいに増えている。そうか!・・・昔、島の田舎の田んぼでもよく使われていた、あのカーバイトガスを使ったスズメ脅しだ。私が小学校時代にした悪戯《わるさ》の一つが、T字型円筒の下部に設置された、強烈な臭いを放つ固形のカーバイトを、仲間と少々盗んで花火にするということだった。
まず間違いなくこの音が引き金になったのだろう。明け方近く鮮明な夢を見た。父が関係する夢だ。彼は、戦争中、重巡洋艦の「那智」や「妙高」で高射砲を担当し、終戦時には佐世保沖・高島の高射砲陣地の指揮をしていた。そして、突っ込んでくる敵機の爆撃や機銃掃射との真剣勝負の現場がどれほど凄まじいことになるか・・・などについて、彼なりの脚色とユーモアを交えながら、幼い私に繰り返し話していた。
男の子はたいてい父親の武勇談を好む。しかし、その戦争の現場が、単に面白おかしい武勇の舞台だけではなかったことも、彼の横腹から背中に抜けた貫通銃創の傷跡が生々しく語っていた。
今朝の夢の内容は、およそいつものごとく支離滅裂。なんでか私が父に成り代わっていて、舞台は南方マリアナ沖ではなく、終戦後の混乱期に、来島海峡を挟む二漁協の間に起こった漁場を巡る争いの戦場だった。
そこで高射砲が使われるわけがないのだが、私は、自分が守る小さな漁村に、対岸に存在する大漁協の連中が数百人乗り込み、攻め込んできた二隻の鉄鋼船目がけて、高射砲みたいなものをドンパチ打ちまくっていた。
この小さな一地方の、愚かにも激しかった漁業紛争についても、子供の頃によく聞いたことがある。当時は全国的な話題にもなったらしい。身近で起こった歴史的小話としては、それなりに面白いと思うので、またどこかで書くことがあるかもしれない。
今回も今朝の唐突な思いつきで吉野川へやって来た。私は自分のことを相当に理屈っぽい人間の一類だと思うことが多いが、実際の行動はほとんど、その場その時の「感性」に拠っている。
人間の行動は、ある程度の予測や計画に従うのが通常だし、私もたいがいはこの通常に従って生きている。ところが時々、突然不意に或る種の衝動が心の中に湧き出して、それが指し示す方向に私を突き動かすことがある。どういう経緯でこうなったのかはまだよく分からない。
ただ少し思い当たるのは、「風」という目に見えず、簡単にはこちらの都合や論理に従ってはくれない相手との長い間の付き合いが、大きく影響しているのではないか・・・ということだ。
最新コンピューターの計算能力をもってしても、一葉が風に吹かれて落下する地上位置を正確に予測することはできないという。論理や計算に関して、愚鈍な私がコンピューターに勝ることなど一つもあるはずがない。
ところが、それが正確であろうと無かろうと、現実に風の世界に身を置いて、海を走り空を飛ぶためには、可能な限りの気象データを集め、身体に備わったあらゆる感覚器官を使いながら、必要な時点で、行動を開始するための判断を下さなければならない。
その判断は、時に生死を左右することもある。それに内包されながら自分一人で向き合う自然世界では、人間社会では通用するかもしれない、どんな種類の虚飾もウソも誤魔化《ごまか》しも小賢《こざか》しさも通用しない。正直に自分の全てを曝け出すしかない・・・という現実が突きつけられる。そういう時、この生命の極めて深い部分が働き始めるのを感じることがある。
この感覚は説明するのが難しい。それをあえて言葉にすれば「澄み切った直観力」とでも言うべきもので、たぶん、西丸震也はこれに似たものを「原始感覚」と名づけたのだろうし、ここで宮本武蔵を引き合いに出すのは気が引けるが、『五輪の書』の空の巻に出てくる「心の直道」などは、その先にある「何ものか」なのかもしれない。
ともかく、ほとんど何の合理的な裏づけも無く去来する、この私的《わたしてき》「直感」に従うことで、少なくとも自然世界では、対応困難な危険に陥ったり、不愉快な思いをしたことが一度もないだけでなく、大概は何らかの新しい発見があり、楽しい出会いがある。私にとっての不思議現象の一つである。
今日の暑さは格別だった。たぶん沖縄沖の台風が東から張り出す太平洋高気圧の熱気を巻き込んでいるのだろう。堀江は9時を過ぎた頃から北東順風が入り始め、10時前の時点で事務所の温度は私の頭の限界温度に迫っていた。これはもう、午前中だろうがなんだろうが出かけるしかない。
空は完璧な夏色。北東風6~8mに10m近いブローが混じる。15㎡でも19㎡でも走れる風だ。ゆったり跳べる19を選んだ。インフレカイトの皆さんには、なかなか分かってもらえないのだが、私が使っているラムエアカイトは、とんでもなくオーバーに強いのである・・・というよりも、オーバー気味の方が楽に乗れるのである。
その理由は幾つかあり、私の観察を一つ二つ述べると、まず、①:滑空性能の違い。カイトを滑空翼としてみた場合、ダブル・サーフェイスでアスペクト比が高いラムエア翼は、滑空性能そのものが優れる上に、ピッチ角(正確にはAoA:迎角)を比較的に(インフレと比べて)大きく下げても翼表面の気流が乱れにくい。
水上走行中は、カイトを水面近くまで落とし、板を立てて、水中側面抵抗を有効に利用してもしなくても、なにがしかの揚力によって、なにがしかの重量が失われるので、速度を決定する一大要因である翼面加重が減少する。これが高じて、ボードを抑える縦の力が減衰し、カイトコントロールも含めた水上走行やまともなジャンプなどが困難になった状態を、いわゆるオーバーと呼ぶのだが、ピッチ角(AoA)を大きく下げてもカイトの挙動自体が不安定にならない限り、その許容範囲は広くなる。
次に、②滑空速度の問題・・・これはインフレでも似たようなことが言えるのだが、例えば私の体重70kgでの19㎡のカイト翼の滑空速度は、ピッチトリムを全く使わなくても、恐らく時速50km辺りだろう。これを秒速に換算すると14mの速さになる。つまり、少なくてもジャンプの最中、カイトを中天に位置し、バーを引き込んでAoAを上げない限り、10mやそこらの風では、風下側に飛ばされることはない。逆に風上側へのオーバーシュートを抑えるの注意する必要がある。
その点、インフレ翼の多くは自重の大きさと共に角速度の変化がラムエアより大きいのが普通だ。これがインフレ翼の長所でもあるのだが、オーバー・コンディションでは短所として働く。運動エネルギーは「質量×速度の二乗」で決まり、その運動エネルギーの変化がラムエア翼よりも容易に起こるのだから。
私がこれまで使ったカイトで比較すると、カブリナ・クロスボーの13㎡のインフレ翼で気持ちの良い風域が、だいたい現在使っているラムエア翼の19㎡の適応風域と一致する。私の先入観は、ラムエアはインフレよりもアンダーに強い・・・というものだったのだが、事実は全くの逆であった。やはり、本当のことは、実際に、可能な限り自分で検証してみないと分かること少ない・・・ということだろう。
或る一つの強烈な体験は、それ以前に経験した数々の出来事の印象を薄めるのかもしれない。小学校時代の六年間に私が読んだ本は、教科書類や課題図書など他にも多くあったに違いないのだが、その内容のほとんどを今は思い出すことができないのは、単に時間の問題だけではないような気がする。
私の興味の対象が、圧倒的に「野外での遊び」にあり、小学校で配布される本類の中にも、小学校そのものにさえ、存在することが少なかったということもあるだろう。
しかし、小学校という特殊な閉鎖社会に全く魅力を感じていなかったわけではない。戦前から存在する木造平屋の横に長い校舎は、極めて汚い便所も含めて随所に、そこで多くの時間を過ごした子供たちや先生方が残していった痕跡が刻まれていたし、何よりも、当時の私にとっては、可愛いらしいことこの上ないKという同級生の女の子がいた。
彼女とは幼稚園から中学一年まで組が変わることがなかった。(小学校は松・竹の二クラス、中学校は1~4までの四クラス) 私が級長のときは。たいがい彼女が副級長で、勉強の上ではライバル的存在でもあったのだが、想えば、あの年齢で八年間も、たった一人の女の子が好きだったわけで、これは生命的時間論からすると、成人なら何十年もの永きに渡る片想いということになるだろう。さらに彼女とは同じ高校に進学したので、相当に深い縁があったと言わざるを得ず、高校時代には幾らか胸のときめく後日談があるのだが、ここでは触れない。
さらに、三年生から六年生まで通して四年間も担任だった矢野友弘先生の人格は、昭和二十年の敗戦を境に百八十度変わった国家の教育方針などとは、おそらく全く無関係に、私たちを大きく包んでいた。彼は便所の傍らに、彼しか使わない陶器用の釜を持ち、常にズボンの横からタオルを垂らし、なんであれだけ出るのかと子供心に不思議なくらいの鼻水を拭うことを習慣にしていた。
その口癖は、授業中に何かを言い違えたとき「もとい・・・」を連発して訂正することと、生徒たちの悪戯《わるさ》が時々発覚し、中の一人が別の生徒も同じことをしているではないか・・・というような弁解を始めると、「自分のことを棚に上げて人のことを言うな!」と鼻の頭を赤くしながら真剣に叱責することだった。
だが、私たちの誰もそれによって萎縮することも反省することもなく、数限りない悪戯を繰り返したのだった。彼の全身から溢れ出る巨木のような優しさは、どんな種類の彼の怒りにも勝っていたのである。私たちは親愛の情を込めて、ずっと彼を「友やん」と呼んだ。
小学校を卒業して十年以上も後、何かの祝いに頂いた大きな鯛の油絵は、今でも我が家のリビングの壁、中央上部で食卓を見守っている。
一人息子の教育に関しては、父も母もたぶん普通以上に熱心なタイプで、嫌がる私を一山向こうの村の習字塾と英語塾に通わせた。五年生の頃には、旧家の一室を開放してソロバン教師を招いたので、否応なく我が家がそろばん塾になり、村の子供たちの多くが、週に一回パチパチとソロバン少年・少女になった。
しかし、習字塾も英語塾も数ヶ月も続かなかったと思う。かろうじで、ソロバンだけは自宅塾から逃げるわけにもいかず、大いに落ち着きに欠ける少年の集中力の養成にはある程度の用になったかもしれない。まだ二十代後半のソロバン教師は、穏やかな微笑みを絶やさない、大声で怒ること一度もない、実に気持ちの良い青年だった。春休みの或る日だったか、彼は私を含む子供たち数人を鈍川渓谷への一日旅行へ連れて行ったりもした。
何を成すにも言えることだろうが、教育にもタイミングというものがある。本人がまったくやる気のない時期に、強制的に何かをやらせようとすると、どこかに無理が出る。従順な子供は一時それなりに成果を上げる。そうでない子供は表面的には従順を装うが、どんな服従も長く続くことはあり得ない。いずれにしても、やがて無理が高じて反抗に変わり、周囲が望むところと反対の結果が出ることがほとんどだ。
本人の先天的な才能を前提としても、有名スポーツ選手の例では、卓球少女の愛ちゃんやスケート少女の真央ちゃんなどは例外中の例外で、おそらく彼女の母親やコーチには、相当に合理的な計画と、並ではない忍耐と、極めて緻密な配慮があったのだろう・・・と私は推察する。
(5につづく)
今日は父の二周忌だった。ちょうど二年前の本日、午前三時四十五分に、彼は今治の大病院の一室の私が寝ているすぐ横のベッドで息を引き取った。
「脈拍が二十に落ちてます!!」と息を切らしながら病室に飛び込んで来た看護師の声で私は跳ね起きた。しかし、すでにその時、脈も呼吸も停止していた。今夜のように暑い夏の夜だった。
九十歳の彼は、そのちょうど三ヶ月前の四月二十九日の昼食時に左脳の脳梗塞で倒れたのだが、かろうじて動く左半身の細い腕で必死にベッド柵につかまりながら、なんとしても生き抜こうとしていた。普通の人間でも大変な、時に四十度を超す高熱を一ヶ月近くも耐えた。
二ヶ月目に入った頃からしばらくは小康を取り戻し、時に姉や母や私の顔を見て微かに笑い、左手をゆっくり持ち上げて握手し、車椅子に乗せられてリハビリが出来るまでに回復した時期もあったが、ついに言葉を発することはなかった。
そして、三ヶ月目の中頃、再び襲ってきた四十度の高熱に耐える体力はすでに残っていなかった。危険な期間を通して傍《かたわら》に付き添っていた私には、もの言わぬ父が、迫り来る死という大敵と全力で戦っているのが、ハッキリと分かっていた。
十六歳から二十六歳までの人生で極めて重要な時期を、職業軍人として数々の戦場で生き延び、その後の生涯でも、さまざまな種類の戦いの世界と縁が切れることがなかった人間らしい、まったく見事な最後だったと思う。
三十六年前、突然、親友のT君が逝ったとき、私の世界は光を失い大きく様相を変えた。しかし、それから長いあいだ捜し求めた生死の問題への確答はいぜん遠いところにあった。そして今回の父の死は、ゆっくりとしかし確実に、その意味の一端を私に教えつつある。
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