内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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昨日は堀江海岸で宇宙人のような人間に会った。いや、人間のような宇宙人だったのかもしれない。
多くの人にとって珍しいことをやってると、こちらの意図とは関係なく、いわゆる「目立つ」ことが多いらしい。ウィンド時代はショートボードに乗り始めた頃、パラグライダーの初期もそう、エンジン付きパラ(PPG)は、ほとんど飛ぶ場所を選ばない上に、それなりの騒音を発するから、よけい多くの人の目にとまる。
PPGの初期などは、海岸エリアでひと飛びして降りてくると、いつの間にか人が集まってきて、「これは何というものか?これらの道具ははいかほどの値段か?飛び方をどうやって習えばいいのか?・・・」等々の質問攻めにあうことがほとんどだった。
初めのうちは、彼らの好奇心に応えるべく丁寧にお相手していたのだが、その内、面倒くさくなり、やがて鬱陶(うっとう)しくなることは自然の流れだ。一時は、いつも繰り返される質問事項を整理したパンフレットみたいなものを見物人に配布して「これに全部書いてあります!」にしようか・・・などと本気で考えたものだ。
しかし、今日の質問者はちょっと変わっていた。
ガスティではあるが、腰の強い秋の北風をそれなりに味わって浜に上がり、ブレークダウン(片付け)に取り掛かった頃に、細面(ほそおもて)の青年が「ほんとに楽しそうですね。ずいぶん小さいボードなんですね。」などと静かに話しかけてきた。仲間のサーフタイプも見て、「サーフボートみたいなのでもできるんですね。僕はサーフィンをやってるんです。」と言う。
私の接客の習いは、時々の気分や状況によって、まずお相手をするかどうかを決め、次に、その人物を観て話の内容を決める。疲れているときや面倒くさいときは、ほとんど無視する。そうでもない時は、かなり人の良い話し相手になる。「袖(そで)触れ合うも多生の縁」・・・この広大な時空世界で、短い生涯に出会える人間の数は極めて限られている。何かの縁があるかもしれないし無いかもしれないけれども、人(だけではない)との出会いはできる限り大事にしたい・・・というのは、私の生き方の一つでもある。
「このナチュラルスポーツはね、半分以上はスカイスポーツで、空を飛びながら海の上を走っている感じだよ・・・」などと話している間、彼はずっと両手を軽く広げてフラフラとサーフライドみたいな動きを続けながら聞いている。ところが、彼の容貌はどう見てもサーファーではない。まず、肌の色が驚くほど白い。次に、身体全体が針金のように細く、肩の筋肉は無いに等しい。こんな姿態はまずサーフィンからは生まれない。
そして、その色白・細身・細面の風貌全体から発する雰囲気が、どうも人間離れしている。どこか遠い世界からやってきた宇宙人のような感じだ。特段、不愉快な空気を持っているわけではない。徐々に私は、何かフワッとした別の種の生物に話しかけているような気分になってきた。これはちょと頭の温かい種類の人かもしれないとも思ったが、どうもそれとも違う奇妙な印象だった。
10分ほどの遭遇の後、彼は相変わらずクネクネ・フラフラとした動きを止めないまま「また、お会いしましょう~・・・」と、フワリと言い残して、どこかに帰っていった。彼の姿になんだかこの世のものでないようなものを感じたのは確かだ。
私は、いわゆる「地球外知的生命体」は、まちがいなく存在すると考えている。地球も宇宙の一部だから、私たち自体が宇宙人であるとも言えるのだが、まさに数え切れない数の星々や銀河で満ち溢れる大宇宙に、地球のような惑星がたった一つしかなく、地球人しか存在していないと考えるぐらい不合理なことも少ないとさえ思う。
しかし、彼らが今現在、この地球にやって来ているかどうかは別の問題だ。彼らには彼らの都合というものがあるだろうから、こんな悲哀や憎悪や同類殺傷に明け暮れる人間という生物が、他の多くの生き物たちの生命を平気で奪いながら何十億も生息する小さな惑星に、わざわざやって来るには、きわめて特殊な興味が必要なはずだ。
私たちが他の惑星の住人と出会う確率については、たしか「ドレークの公式」というのがあって、遠大な空間の問題だけでなく、ある文明の存続期間の条件もある。数百億年と言われる宇宙の歴史から見れば、数千年の人類文明史などは、取るに足りないものだ。百億分の千としても一千万分の一ということになる。宝くじを1枚買って一等賞に当たるのとほぼ同じ確率・・・しかも、人間の一生はたいがい百年に満たない。
この公式に素直に従うと、やはり相当強力で「特別な縁」がなければ、ホンモノの宇宙人に出会うことは不可能に近い、なんて夢のない話になってしまうのだが、もしも、案外、近在の惑星に人間に似た生物が住んでいて、しかも彼らがこの惑星の古代文明などと深い関係にあり、今の時代もまだ「特殊な興味や特別な縁」があると仮定すれば、ことの次第は別な流れになるだろう。
この辺りの話も、始めればキリなくなる。今回これまで。
7月、8月、9月と暑い夏が過ぎて、もう10月、今年もちゃんと秋が来た。年中で最も好きな季節だ。周囲の大気は温度と湿度を落としてグッと引き締まり、山々や野原も、道端や海岸に生える草木の色合いも、徐々に落ち着いたものに変わって行く。
50代になって海に復帰し、更に事務所に換気扇を導入して、かなりしんどかった夏バテから開放された、ということはどこかに書いた。今夏は元気が余って(いたわけでもないが)、徳島に8回も通い、毎回1~4泊はするから、3ヶ月のうち1ヶ月近くは、車中泊のキャンプ生活をしていたことになる。
「この夏はこれこれをやろう!」と心に留めておいた計画の、およそ半分は完了し、残りは未完了、というよりちょっと手を付けた程度で、この気分の良い秋の季節に持ち越されることになった。
未完了の計画の中には、数冊の本があった。加藤周一の『羊の歌』と英訳本"A sheep's song"を合わせ読むこと、丸山真男の『日本の思想』を読み込むこと、ニーチェの『ツァラトストラは・・・』にサラッと目を通すこと。
『羊の歌』はもう40年以上の付き合いで何回読んだかわからない。それがこの夏前に、「英訳本の中には何か欠けているものを感じる」などという感想がクラウス先生から出てきたものだから、これも読んでおかにゃしょうがないだろうということになって、早速、USアマゾンから取り寄せた。
これが岩波新書の上下二冊の体積比10倍くらいの大部で、薄いクリーム色の表紙で上品に装丁されたものになっていた。すでに何章かは読了したが、原著の何が「欠けている」かはまだ分からない。後の二冊は数ページをめくった程度でストップしている。
私は典型的な乱読型の一人で、これは「読書術」の続きで書くべきことなのだが、ことのついでに触れておくと、他にも継続的に目をさらしている本が数冊ある。本といっても紙ではない。いわゆるデジタルブック。キンドルとIpadには、B・ラッセルの主要著書をまとめた"Complete Writings" や E・フロムの"Escape from Freedom"などの間に、アメリカの作家サーファーが書いた小説"West of Jesus: Surfing, Science, The Origin of Belief" なんてのも混じっている。
気が向いたときに、気が向いた本から、気が向いた方法で読み始める。数ヶ月前から採用した方法に、「寝て読む」というのがある。ベッドの枕の上に所見台を取り付けて、上向きに寝たままIpadのキンドル本を読むのである。
普通、寝っころがっての読書は、頭を支える腕がじきに痺れて長い時間は続かない。それがこの姿勢でタッチパネルの利点を使うと、ちょっと驚くほど楽になる。しかも、身体姿勢はほぼ完全にリラックスしているから、活字の方もリラックスするのか、その内容が普段よりも、すんなり身体の中に流れ込んで来るような気がする。
多少の難点は、夜寝る前にこれを長時間続けると、頭が冴えてしまうということだ。下手をすると寝られなくなる。まあ、人間の頭は、ほんとに睡眠を必要としているときは、何があっても休止してしまうようにできてはいるから、そう案ずることもないのだが・・・。
『竹島(独島)問題の解決に向けて』
竹島(独島・ドクト)問題の解決をハーグの国際司法裁判所に委ねる、という日本の方針は正しいと私は思う。日本は明治の開国以来、近代化に伴う様々なことがらを、賢明に吸収しようとしてきた。韓国では、韓国のボルテールと呼ばれた革命家、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)が、西洋の科学・思想を取り入れるために、同志の金玉均(きんぎょくきん・1851-1894)と共に日本国の援助を求め、それに先立つ1879年、彼らは同志であった仏教僧、李東仁(りとうじん・1849年-1881年)を日本に蜜入国させて、福沢諭吉などに教えを受けさせてもいた。
かくして、日本国は1884年に起こった李氏朝鮮を打倒するためのクーデター「甲申政変」(こうしんせいへん・朝鮮事件)を助けることになったのである。しかし、この革命は、一時にあまりに多くの変革を求めたために、中国(清朝)の援助を得た当時の韓国政府によって潰され、彼らは亡命を余儀なくされる。
1890年代の韓国と中国における改革運動の失敗によって、これら二国はハーグ(オランダ)の国際法廷の創設に貢献することはできなかった。公式なハーグ平和会議は1899年と1907年に開催された。日本、中国、ペルシャ、タイなどアジア各国からの参加も得て、国際紛争を戦争と言う手段によらずして収めようという理想を掲げたこの国際会議は、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、(中国でさえも)など大多数の国々の全面的な支持を得ていた。しかしながら、ごくわずかな少数派の反対によって完全に結束された力となることなく終わることになる。
1895年、徐載弼(じょさいひつ・1864-1951)は亡命を終えて帰国し、翌年の春、「独立クラブ」を設立し、4月7日には『独立』という、少なくとも1ページは英文を含む雑誌を発行した。独立クラブは、儒教思想を取り入れた改革政党で、日本も採用していた「東洋の道徳と西洋の学芸」を融合させるという考え方だった。しかしながら、徐やその支持者たちは、再び、反動的な韓国政府の不評を買うことになる。1899年初頭、独立党の政治活動は全て禁止され、続いて解散させられ、『独立』も廃刊に追い込まれる。8月になると、韓国から日本への亡命者の数が劇的に増加したと新聞報道された。近い関係にあったロシアが、韓国を1899年のハーグ国際会議に招いたにもかかわらず、結果的に、より強力な外交的努力に参加することができなかったのは悲しい話である。
1906年の夏、ロシア政府は翌年に予定されていた第2回ハーグ平和会議に再び韓国を招いた。会議では、軍備縮小や国際紛争の平和的解決に向けた国際法廷の創設など重要な事項が継続協議されることになっていた。1905年の段階で、日本はすでに韓国の外交権を摂取していたから、会議は結果的に韓国が参加することを認めなかった。しかしながら、その初め、イ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンら3人の使節は、韓国が日本に対して抱く疑義についての各国の注意を集め、なんとか日本を守勢に置くことができたのである。今日、興味深いことは、彼らが日本政府の行動に抗議したということだけでなく、ハーグ平和会議の意義を支持するという意見を表明したということである。
1907年における韓国の指導者たちの努力が、祖国の過去の過ちを償い、国際的舞台における責任ある参加者となって、国際紛争を平和的に解決するという動機に拠っていると推察すれば、それは素晴らしいことである。今日では、はるかに多くの国々が、威嚇や武力によってではなく、国際司法裁判所の司法判断を断固として受け入れなければならない、という方向に向かって進んでいる。それはすでに100年以上前から世界の有志各国が目標としてきたものであった。竹島(独島)を巡る紛争の解決法はこの他にはない。
歴史平和学者: クラウス・シルヒトマン
日本語訳:渡 辺 寛 爾
竹島問題の歴史的経緯について少し触れておこうかと準備していた近頃、にわかに尖閣諸島の周辺が騒がしくなってきた。最初の記事で述べたとおり、領土問題についての私の総論的意見は、尖閣でも変わらない。しかし、各論の一部については少し異なる。それについては、また気が向いたときに書くことがあるかもしれない。
もっとも、歴史的経緯といっても、両国間で何が起こったか、つまり過去のできごとを時系列で列挙することに、私は現在のところ、大きな興味を持たない。
過去に事件はあったろう。しかし、それらの事件に意味や評価を与えるのは現在の人間である。人間の意識は時と共に変化し、国政の方針はおおむね国益と共に変化する。
だから、ある歴史的事件をどんな立場にも属することなく客観的に語ることなど、およそ不可能なことだ。それでも、そこに何らかの客観的真実性を見出そうとするなら、とりあえず、ある事件に対する当事国の(主観的)主張を並列的に列挙することから始めるしかないだろう。
そして、事件・事実に対する評価を並列表記することは、学問的手法としてはあり得ても、意見・主張の表明にはなり得ないし、私の趣味にも合わない。それを趣向とする方はWEB百科事典をご覧頂きたい。おそらくこの分野の専門家が極めて詳細に解説してくれている
前回と前々回の、国際関係における覇権や利権に対する私の考え方は、理想的に過ぎるのではないか、という見方もあるにちがいない。たしかに、複雑怪奇に見える現実世界は理想世界よりもやっかいで、そう簡単に一筋縄では扱い切れないだろう、という議論も理解はできる。
しかしはたして、ほんとうに国家間紛争の現実は、平凡な人間の思慮や方策が容易に及ばないほど、複雑で怪奇なものだろうか・・・私はそうは思わない。
逆に、これらの現実の本質は、遠大な理想の仕組みよりも、はるかに単純に見える。善悪で語れば、つまり、「覇権」については強者が善で弱者が悪。「利権」については利益が善で損益が悪。これだけのことではないのか・・・。
そして、カビの生えたナショナリズムに執着する人たちは、未だにこの極めて近視眼的な善悪基準から脱却できないでいる。世界の住人の意識趨勢は、とうの昔にこんなものなど飛び越えているかもしれないのに。
理想と現実に関係して・・・現在から未来に向かって進む人間の姿勢には二つの種類があると私は思う。一つは現実の延長線上に理想を描く姿勢。一つは理想に向かって現実を導く姿勢。この場合、理想を目標と置き換えても同じことだ。
たとえば、一年後の貯金額を目標としよう。現在の現実は毎日100円の貯金しかできないのだから、一年365日で総額3万6千5百円が限界であると考えてそれを実行すれば、その通りの結果になるだろう。
一方、まず一年後の目標を100万円に設定して、現在の現実で何をすべきかと考え、それなりの工夫や努力をすれば、その結果が100万円に至らなくとも、3万6千5百円よりは大きな金額が残ることになるだろう。
夢や理想は大きければ大きいほど良いのである。たとえその全てが現実にならなくとも。もっと言えば、夢や理想は、それを持つこと自体に意味があり、おそらく、それに向かって進む過程そのものの中に、労苦もあるだろうが同等以上の幸福もある・・・ということである。
先日からカトちゃんが半年以上ぶりに練習を再開した。ほとんど何の労もなく「つづき」が始まった。やはり、身体で覚えたことは間単には忘れない。体験の蓄積は知識の蓄積よりもはるかに残りやすいというのは確かな事実だ。
それはどうしてか?・・・またまためんどくさそうなことを考えるのであるが、これはもう私の抜くことあたわざる性癖なので仕方がないことだし、これはこれでけっこう楽しい、というのも事実である。
「考える」ということは、その方法が理にかなっている(合理的である)限り、頭の中をスッキリさせて健康にもかなり良いらしい。しかも、ある現象の奥に潜んでいる「原理」や「仕組み」をつかんでおくと、当然、類似の現象への応用や対応が楽になるので、この種のめんどくささと付き合うことの「利点」もちゃんとあるのである。
私の考え方の基本は、一見、当たり前とされるモノゴトも、なんとなく複雑に見えるモノゴトも、常識も非常識も、できるだけ単純で明快なかたちにして理解することを出発点とする。それには、当面する難しい言葉を、使い慣れた身近な言葉に言い換える(翻訳する)ことが役に立つ場合が多い。
「理解」は、たぶん明六社の誰かが作り出した訳語で、分かりやすく言えば、まさに「分かる」ということだ。「分かる」はもちろん「分ける」と根を同じくしている。或るモノやコトを別のそれらと分別してとらえる・・・ということで、これは、少なくとも日本人の歴史が始まったときからずっと続いている当たり前の行為だろうと思う。
私は、この程度の日本語とわずかな外国語しか知らないが、「分かる・理解する」の英語は、仏語と同根のラテン語からの"comprehend = compre + hend"で「完全に+つかみ取る」というのと、もっと一般的なのは、古英語からの"understand = under + stand"で 「下に+立つ」ということらしい。
これに従い、日本語で「私はあなたの考えがよく分る」を英語にすると、「I undestand (comprehend) what you mean very well」・・・とかになるのだが、ラテン的英語では「私はあなたの考えを完全に掌握している」、古英語的には「私はあなたの考えの下に立つ・・・つまり従うか、底支えする」などという意味を暗に含んでいるわけで、「理に解する」や「分別する」よりも、かなり主語(私)に勢いがあるように感じたりする。こんなところでも、「言葉というのはまったく面白いなぁ・・・」などと私は思ってしまうのである。
今回は、「忘れたくないことは身体で覚えるべきだ」ということを、「体験と認識」の問題に関連付けながら、少し理論的に説明してみたかったのだが、またしても完全に脱線してしまった。またの機会にする。
台風一過で秋が来る。大気はグッと引き締まり、わずかに温度と湿度を下げた風はすでに夏のものではない。空気が冷えると海水温は相対的に高く感じるようになる。まるでぬるま湯のお風呂のように暖かい。
昨日は、こないだからカイトを始めたS君の5回目の練習日だった。彼とはすでに28年の付き合いになる。私は彼のことを「バスケ好きの英語オタク」で、典型的なインドアタイプの青年らしいと評価していたが、今年の夏になって、「サーフィンにはちょっと興味がある」と呟いた。これを私が聞き逃すわけがない。
いろいろと使い道の多そうなSUPボードは一枚持っておいてもいいな、と考えていたところだった。早速、仕入れた11フィート板で、彼に簡単なパドリングを伝授したら、あっという間に要領を飲み込んで、この夏中、イソイソと三日に一度は海に出かけるようになった。そしてついには「海は大きいな・・・大自然には何でもあるんだねぇ・・・」などと、エマソンやソローのようなことを言い出した。
その間、私の走りを含めて、彼は初めて「カイトサーフィン」という、極めて奥の深いナチュラルスポーツの実際を目にした。これには相当な衝撃を受けたらしい。ついに三週間ほど前、「あれはまた格別に面白そうだなぁ・・・」などとも呟いた。「それじゃ、ちょっと練習用のカイトを振ってみるか?」
微風・灼熱の堀江海岸で数回、カイト操作の基本を伝授した。空中で「安定」が維持できるほど楽なコンディションでもなく、たぶん途中で「もういいわ」ということになるのではないかと思っていたら、大汗をかいてフラフラするような時があっても、自ら止める気配が全くない。これはどうやら本気らしい。私の心底がニッコリ笑った。
昨日は初めて、7m強の地上練習に最適の風に恵まれた。自然の風の力だけで、10㎡のラムエアカイトが簡単に翼形を作り、さして苦労することなく頭上まで上がって、空中でカッチリと安定するのも初めての経験だった。
初めての強風、初めてのエリアでもあり、乱れたブローに当たると吹き飛ばされる恐れもあったから、しっかりと安定姿勢がキープできるレベルまでいけば充分・・・という教習プランで基本練習に入った。
そして・・・彼の動きに私は少々驚いてしまった。もちろん、体中あちこちにムダな力が入っていて、身体もカイトの動きも全体的にぎこちない。これは、どんなスポーツにおいても初心者が通る常道だ。
ところが、間もなく安定も取れるようになったし、暑いので少し海に入って、余裕があればちょっとだけカイトを振ってごらん・・・と指示したら、10分もしないうちに、ボディドラッグを始めた。しかも、ワンハンド操作になってもカイトが落ちない。これは一体どういうことだ?
まあ、今回はよほど調子が良かった、ということにしておくが、ひょっとしたら、彼はこの種のスポーツにかなりの適正があるのかもしれない。海上で風に引っ張り回されるのが、とんでもなく楽しかったらしい。いつまでも止めそうもないボディドラッグを敢て中止して、私はカトチャンが来る別府に移動。かなり南に寄ったガスティウィンドをもって本日お終い。
次に日本政府は、まさに「大人の対応」を続けるべきである。あくまで冷静に対話に向けての姿勢を崩さないこと。間違っても、彼らと同じレベルで自衛隊や海上保安庁を使ってはならない。
「大人の対応」の大人とは、器量の小さい小人(しょうじん)に対して、広い教養と深い人格を体した君子と同格の「大人・だいじん」と考えてみたらどうか。
現在の韓国の政権に対話を望むのは酷だろうが政権は変転する。当面、対話が持てない、あるいは対話によっても解決できないならば、その判断をICJ(国際司法裁判所)に委ねることが、最も順当な対処方法になるだろう。この点、野田首相の先日の声明は、良識ある国際社会の一員として正しい主張だと思う。
しかし、今の韓国政府が、その訴訟手続きを進める上で必要な「共同提訴」すら拒否している現状を見ると、日本政府はさらに「忍耐強く」説得を続け、それでも韓国が強硬姿勢を取り続けるならば、「単独提訴」するしかないし、それで充分、国際社会の良識の理解を得ることができるはずだ。
ただ、「共同」にしても「単独」にしても、国際法上の裁判手続きや判決の効力は、国内法のそれと大きく異なる。ICJは国連の内部機関であり、その国連自体が創設以来抱え続けている「国家主権」の問題がここでも壁になるからだ。国民の人権と異なり、国家の主権を制限する強制的手段は今のところ存在しないし、国際連合が国際連合(連邦)政府と呼ばれない理由もここにある。
「主権」という概念は幾つかの意味を含むが、めんどくさいのでここでは触れない。この文脈に従い、要を取って言えば、国民は強制力を伴った法律類に基いて国家によって統治されるが、独立国家を統治する権限は現在の国際組織には与えられていない・・・ということだ。
しかし、だからこそ、一国を代表するような方々は、自由や独立や敬愛の真髄を身に付けた人格者であって欲しいと願うし、そうである義務を国民に負っている。それが「成熟した民主国家」というものだろう。かの国やこの国が民主国家として成熟しているかどうかは、小さな疑問として残しておく。
(おそらく4につづく)
昨日は、徳島からの帰りに、台風がらみの南東風の匂いがプンプンする唐子浜に寄ってみた。ここはウィンド時代に、やはり台風の風波を求めてちょくちょく訪れたところだ。予想通り、ほぼ真東から7~10m、12㎡でジャストの軽い風が入っていた。
長時間の車運転でかなり疲れていたが、こういう時こそ海や風からエネルギーを頂戴する・・・というのが私の姿勢だ。また、大自然と遊んで疲れを残すようでは、まだまだ修行が足りない・・・ということなのだが、これはあくまで姿勢であって、常の結果ではない。昨日は、この姿勢が正しく結果となって現れてくれたようで、1時間あまりのユッタリした走りで、運転の疲れも徳島キャンプの疲れもほとんど消え去ってくれた。
最近はだいぶ少なくなったように思うけれども、大体において、私は何か好きなことに手を付けると、トコトン行き詰まるところまで突き進んでしまう癖がある。これは好物を食べ過ぎると腹をこわすのと同じで、健康上よろしくないのは明らかなのだが、私のような凡人にはそれがなかなか分からない。
過不足のない、モノゴトのちょうど良いところ・・・つまり「中庸の徳」を自分のものにするには、相当な修行がいるらしい。これを説いた偉大な先人は、古代中国にも古代ギリシャにもいたが、私はある年齢に達するまで、この意味が全く分かっていなかった。そのためにどれほど多くの無理や無駄を残してきたことか・・・やはり、歴史を通して生き残ってきた「智恵」にはそれなりに深い意味があるということだ。
今日は、再び台風の南風を求めて、同じエリアでM君家族と半日を過ごす。しかし、雨が過ぎても、上空南風の本流は地上まで届くことはなく、東北東~東の風が5m程度。19㎡でも少しもの足りない風だった。ただ、昨日の荒れた海面と異なり、細波程度の走りやすいコンディションで、それなりに楽しい走りを味わった。
本日嬉しかったことは、東の空に見事な虹が、数度に渡って現れたということだ。久しぶりの虹見物。 『カモメのジョナサン』のリチャード・バックは初めてパラグライダーで空を飛んだときの感動を、"Under the Rainbow"という記事にしている。『虹の下にて』・・・つまり、パラグライダーの翼形は、「レインボウ・シェイプ=虹形」なので、それにぶら下がりながら空を飛ぶことの喜びを美的に表現したということだ。
そして、ラムエアカイトの翼形はまさにパラグライダーの翼形そのものである。雨上がりの初秋の空に輝く虹をバックに、M君が走りR君が笑っている・・・こんな写真はまず滅多に撮れるものではないだろう。つまり、有り難いことである。
またしても徳島にやって参りました。去年は4~5回で、今年は10回くらいは来てやろう・・・などと目論んではいたのですが、ほんとにそうなりそうな気配であります。
9月もすでに中旬を迎え、そろそろ松山周辺も北寄り冷た目の風に恵まれてもいい時節であります。ところが、いつまでも残暑厳しき上にまともな風が届いてくれません。毎朝の日課、天気図とアメダスの風情報に相談してみると、これがまた、徳島・南寄りの順風がおいでおいでと呼んでおります。
3時を過ぎて小松海岸に到着しました。これがなんと・・・トップブローは15mに達するであろうストームウィンドが南南東から怒涛のように吹き込んでおります。あのね・・・ここまでの親切は要りません・・・これだとまた練習用6㎡の登場になるではありませんか。
この「バイロン」という詩人のような名を持つカイトは「うちの母ちゃんでも難なく使える」などということをのたまう米国人もいるくらい安全性が高いはずなのですが、私に言わせると「15m近い適応風域では、カンバー量も曲率も大きすぎて、まんず使いものにならないじゃないの・・・」ということになるのであります。
しかしまあ仕方がございません。ウィンドの皆さんのオーバー気味の走りを口をくわえて眺めているわけにもいかず、結局、前半はこれとお付き合いしました。ちょっとピッチを下げるとウィングチップに裏風が入って、左右にバッサバッサ振れ回るを忙しく抑えながら・・・。ほとんどなんも面白いことはありません^^;私らしくもないネガティブな感想ですが・・・。
それでも、暗くなりかけて10mほどに落ちてからは12㎡にも出番が回り、ヘッド近いうねり波をゆったりと味わうことができました。めでたしめでたし。晩飯にはローソンのカツどん弁当に濁り酒を付けて、今は~もう秋~・・・スズムシたちの妙なる音《ね》を傍《そば》にしながら、いと静かな夜を過ごしているところであります。
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