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寛太郎のカイト日誌

内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置

   
カテゴリー「追憶」の記事一覧

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南アフリカ (4)

なるほど、記憶は連鎖する。競技中のシーンをあれこれ思い出しているうちに、とうに忘れ去ったと思っていた当時の出来事の、しかもどうでもよいような事実の細部が蘇ってくる。

四十を超えたいい壮年が、初日の歓迎パーティーでフラフラと踊り狂ったことや、なんだかウマのあったスタッフの大男と肩を抱き合って写真を撮ったことや、まだ少年の面影を残していたA君がエアフィールドの飼い犬のキンタマを悪戯でデコピンしてキャンと言わせ周囲をビックリさせたこと・・・などなど、まったく他愛のない出来事が次々と脳裏に浮かび上がってくる。

PPGの選手たちの「姿勢」ついては、フランスチームの面々が必要以上の英語を決して使おうとしなかったということの他に、特に書くべきことはない。PPGの競技の歴史は当時まだ始まったばかりだったし、私の「世界の飛行家」への関心は、どちらかというとマイクロライトに関わる人たちに向けられていた。

後で分かったことだが、彼らの中には、後にトライク(ハンググライダーにエンジンとコックピットや車輪を付けたようなもの)でアフリカ大陸縦断という冒険飛行を達成したイギリス人のマイク・ブライスもいた。今は名前が出てこないが、10年ほど前に複座型のトライクで世界一周を成し遂げたのもイギリス人だった。(彼らは一種の超法規的措置で日本の空港も使った。ひょっとしたら彼らも当時イギリスチームのメンバーだった可能性がある)

松山と広島を隔てる瀬戸内程度の距離しかないにもかかわらず(だからでもあるが)、600年前の百年戦争以来、イギリス人とフランス人の競争意識は、他に例を見つけるのが難しいくらい激しいものがあり、近年はだいぶ和らいできたところがあるにしても、フランスチームがイギリスチームの言語である英語を喜んで使おうとしなかったのには、それなりの歴史と理由があるのだ。近代というトンデモナイ時代の大勢を作り出した2つの支柱・・・「市民革命」はフランスが筆頭をなし、「産業革命」はイギリスに始まる。

それにしても、マイクロライト・イギリスチームの「姿勢」には一種の「落ち着き」の空気が、フランスチームのそれには一種の「気品」の空気が漂っていた。これも自由の精神を本質とする航空の歴史の所産か・・・或いは、あるものごとに、自ら生命(いのち)を賭けながら取り組んだことのある人間のみが持つ、あの特有の雰囲気に由来するものか・・・。

私が数ある航空界の中でも特にこの種類に興味を持つ理由は、小はセスナから大はジャンボジェットや宇宙船に至るまで、現代航空の歴史の原点がここにあるからだ。それは、ライト兄弟が初めて動力飛行を成功させたとされる「ライトフライヤー」の外観や仕様を見ればすぐに分かる。飛行重量にしても使用動力にしても、現在の舵面操縦型マイクロライトよりもはるかに頼りないものである。彼らはもともと自転車屋さんで、20世紀初頭、前世紀にドイツのオットー・リリエンタールなどによって、着実に蓄積された滑空データを基にしながら、数々の失敗の山の上に、あの機体を作り上げたのだった。

ある夕食会の時、たまたま隣のテーブルに座っていた私は、フランスチームの皆さんに声をかけた。下手な英語よりもはるかに下手なフランス語だからどこまで通じたか分からない。今になって思えば、フランス人には日本びいきも多いはずだから日本語で行けば良かったのかなぁ・・・と反省したりもするが、ともかく、何でもいいから一言でも言葉を交わせたかったのだ。

私が「こんばんは、私はフランス語をちょっとだけ話します」などと意味のない言葉を投げると、彼らは「オー^^!」と言ったのみで、それ以上の何を話したかを全く覚えていないのは、もちろんアフリカ風邪とアルコールのせいだけではない。

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南アフリカ (3)

日々の競技内容は、その日の朝の気象状況を観て、主催者側が決める。PPGの競技は基本的にパラグライダーのそれを踏襲してはいたが、動力飛行ならではのものもあり、それらがミックスされたものもある。

我々も含めて海外の選手たちのほとんどは、もともとパラグライダーの経験者だったけれども、中にはソアリング技術に拙(つたな)い人もいた。滑空の世界では当たり前の、サーマルを使った高度獲得などの技術は、プロペラさえ回っていればいくらでも飛べるマイクロライトやPPGの世界では単なる乱気流以外の何ものでもないから、ほとんどの競技は早朝の大気が活発に動き始める前に開始された。

タスク内容は様々で、PPGならではのローパス(超低空飛行)でパイロンをキックして廻るお遊びみたいなものや、なるべく長距離飛んで良しとするディスタンス競技もあったが、メインタスクはやはり「ナビゲーション」と呼ばれるもので、地図の複数地点に目標物(パイロン)を設定して、それらを如何に数多く正確に迅速に撮影して戻ってくるかというものだ。

この種の競技で良い成績を収めるには、地図や地形を読むナビゲーションの技術はもちろん、パラグライダーの競技には不可欠のグライダーの「滑空性能」よりも、少々性能は落ちても安定して速く飛べる「翼面加重」の高い機体がものを言う。

海外の選手のほとんどは安全性の高いパラグライダー翼を使い、私などは滑空比が9を超えるコンペ機を持ち込んでいた。他の2人の日本選手は相当に気合が入っていて、PPG用に開発したばかりのグライダーで、勝つ気満々の様子だった。

ゲートが開いて、一人の選手がテイクオフしたら、その国の選手たちが後に続き、だいたいまとまってタスクをクリアしていく。日本チームもそうだったが、巡航(水平飛行)で10kmも遅い私は、どんなにフルアクセルで頑張っても彼らについて行くことができなかった。ちなみに「フルアクセル」とは地上のモータースポーツの常識と異なり、エンジンを一杯にふかすことではなく、飛行翼のピッチ角を最大限下げることでAoA(アタックアングル)を下げ、対気速度を増すことをいう。基本的に固定ピッチのパラグライダー翼で推力を上げると上昇はするが、速度は逆に落ちる。

ただちょっと面白いタスクが与えられた日が一日あり、これではそれなりの成績を残した。それは、排気量も燃料タンク容量も異なるエンジンに、正確に計量した等しい量の燃料を与えて、どれほど長時間飛んでいられるか・・・という、パラグライダーの競技では、その初期に流行したデュレーション(滞空時間競技)のようなものだった。

燃料の消費を抑えるには、上昇気流を利用する必要があり、これはつまりソアリング技術の基本だ。適当なサーマルを探し当てながら空中に存在し続けない限り、ガソリンが切れた時が地上に降りる時、ということになる。化石燃料をなるべく使わないという点では自然に優しいエコな発想なので、動力飛行主体のマイクロライトやPPGの競技でも、この種のタスクがなくなることは当分ないだろう。

ハンググライダーの時代から競技生活の長いチームリーダーのM氏や、若干20歳そこそこで恐れを知らないコンペティターのA君は、全ての種目で上位に食い込んでいた。私はというと、前に述べたような具合で、そうとうに不甲斐ない成績を重ねていたので、さすがにこの日は多少気合が入っていた。

ちょっと忘れられない光景は、この競技の最中に起こった。サーマル慣れしていない海外の選手の大半が次々に脱落(着陸)していく中で、地元・南アの選手の何人かは強烈なサーマルに果敢に突っ込んで滞空時間を伸ばしていた。彼らは私たち日本選手がサーマル拾いに慣れているということをよく知っていて、一人が良いサーマルを見つけエンジンを切ってセンタリングを始めると、たちまち追いかけて来る。

私がプラス5(毎秒5mの上昇率)程度の激しいサーマルに突っ込んだ時、数十メートル下には南アの選手が一人いて、ほとんど同じペースで高度を稼いでいた。およそリフト(上昇風)とシンク(下降風)は同居している。強烈なリフトの外縁部には、まず確実に強烈なシンクがあって、グライダーが運悪くこの境目に突っ込むと、翼の何割かは叩きつぶされる。

PPGでは滅多にないことではあるが、この時はまさにそれで、私は左翼を半分ほどを潰されただけですぐに回復したが、左下にいた彼は、翼のほとんどを無くした後、弛(たる)んだラインがエンジンユニットに引っかかり、サスペンションラインの何本かを切断した。バーンという音が聞こえるくらいだったからかなりの衝撃だったに違いない。センタリングの最中に近くの機体から目を離さないのは競技者の習いだ。私は少し上空からことの始終を見ていた。彼がいくぶん慌てながら、じゅうぶん不安定になった機体で急降下して行ったのは言うまでもない。

もう一つ忘れられない出来事は、重心移動型マイクロライト(トライク)の選手の死だ。詳しい状況を聞いていないのでこれ以上のことは書けないが、シングルシーター(一人乗り)の彼が競技中に事故死したことは、関係者の全てに悲痛な出来事だった。エアフィールドの端で華やかに揺れていた万国旗は、その日以降、半旗となって彼の死を悼んだ。参加者は皆、こういうことは、空の、特に無理をしがちな競技の世界では、誰にでも起こりうることを知悉(ちしつ)していた。

南アフリカ (2)

PPGは当初、モーターパラとかパラモーターと呼ばれることが多く、フランス人が芝刈り機を改良した小型エンジンを背負い、まだ滑空性能の悪いパラグライダーを飛行翼にして、山からではなく平地から離陸することができるようにしたのを始まりとする。80年代中頃のことだ。

この画期的な出来事は・・・といっても誰でも思い付きそうな発想ではあるが・・・たちまち日本のTVニュースでも紹介された。私は、たまたまそれを食い入るように観て心を躍らせたパラグライダー愛好家の一人だった。

日本の大沢製作所という小さな町工場が、カートの100ccエンジンで似たようなものを造って販売を始めるのに、さほど時間はかからなかった。「海外から輸入した文物を、たちまち消化し、さらに洗練しながら日本流のものを生み出す」という大和の時代から変わらない日本人の奇特な能力は、この世界でも存分に発揮された。数年のうちに、日本のPPG製品は世界中の飛行家があこがれの目で見るほど品質の高いものになっていた。飛行翼としてのパラグライダーの歴史もしかりである。

今回の大会には、カラオケで有名なDK(第一興商)のエンジンを5台持ち込んだのだが、会場でもその仕上がりの良さは際立っていた。光を放つような流麗なデザインが会場の一画にズラリと並ぶと、海外の選手たちの目はほとんど羨望の眼差しに変わった。結局、私が持ち帰る予定だった一台を含めて、これらのエンジンは大会終了と同時に現地で完売となった。

このエンジン付きパラグライダーの普及が進むに連れて、FAA(国際航空連盟)はその分類に戸惑うことになった。人間の脚で離陸着陸し、ちゃんとした着座装置を備えないものを、航空機の一分野である既存のマイクロライト(ウルトラライトともいう)の範疇に入れるのは難しい。かといって、小型ながらエンジンという動力を使うのだから、単なる滑空分野でもない。

まあ、自由を愛する人間の立場からはどうでも良いことなのだが、この問題は日本の幾つかの航空団体の間でも紛争の種となり、滑空を主体とする団体では「補助動力」として滑空分野に、マイクロライトの団体ではその傘下に加えようとして、FAAの方針に従い「PPG(パワード・パラグライダー)」と命名した。今回のPPG世界選手権大会が、マイクロライトと同時に行われたのは、世界の航空界を統括してきたFAAが、これをその一分野としてカテゴライズしたからだった。

ことの成り行きで、私はその両方の技能証や指導員の資格を持ってはいるが、こんなものは、人類の飛行の歴史から見ても、個人の自由への歴史から見ても、全くどうでも良いことの一つだ。

またまた脱線しそうになったが、これは今回の私の旅の2番目の目的「この分野における世界の飛行家の姿勢」に関係するので、ちょっと触れておいて、次回は最初の目的「競技」の中で起こった印象的な出来事を少し書く。
 

南アフリカ (1)

昨日はちょっと寒い思いをした15年もののスプリングが、私の身体の中から、再び記憶の片端を引き出し始めた。

これを購入したのは、1996年8月の南アフリカだ。航空スポーツの一種であるPPG(動力を使うパラグライダー)世界戦の第一回で、たまたま日本代表の一人に選ばれた私が、こんな遠い国に行くことにしたのは、一つにはもちろん、自分の力量がどの程度のものか知りたかったこと。一つは、この分野に生きる世界の人たちの姿勢(考え方や振舞い方)を知りたかったこと。

そして、もう一つは、ちょうど前年の95年に、稀有(けう)なる人権闘争の勇者「ネルソン・マンデラ」が見事な政権交代を成し遂げ、アパルトヘイト(人種隔離政策)が廃止された直後の国家の有様をこの目で確かめておきたかったこと。この三つだった。

もっとも、その過去、ウィンドサーフィンやパラグライダーの多くの競技大会に、自らに可能な限りの情熱と労力を注いで来ていた私は、すでに「自分がほんとうにやりたいことは、どうやら他人(ひと)と競い争うことではない」ということに気づいていたから、最初の目的はオマケのようなものだった。

パイロンを回ったり、スピード・ディスタンスなど競技上のタスクを消化する本来の仕事など、ほとんどそっちのけで、どこまでも続く赤いアフリカの大地や、雪の薄化粧に輝く遠くの山々、多少のブッシュが覆う台地や谷間に点々と散らばる家々、少し低空飛行すると大きく手を振る住民の笑顔との出会い・・・など、いわば「非接触型交流」とでもいうものを楽しみ過ぎている私に、勝敗にこだわらざるを得ないチームリーダーが多少なりともイラついたのも無理はない。

世界選手権の初回ということもあり、参加国は開催国・南アにヨーロッパの数カ国とアジアでは日本のみ、PPGの参加選手は20数名。世界戦数回目のマイクロライト・重心移動型(トライク)が50名ほど。エアフィールドはインド洋に面する観光都市・ダーバンから車で2時間ほど内陸部に入ったクワズール・ナタールの片田舎にあった。小さな地方空港ほどの広さはあり、普段は主にマイクロライトの離着陸場として使われているということで、周囲は厳重な金網で覆われいる。毎日のブリーフィングや食事会は広大な格納庫で行われた。

予想通りというべきか、未だにというべきか・・・この金網の内側で黒人を見かけることはく、設置された簡易トイレは白人用と黒人用に明確に区分されていた。色は黒いが一応黄色系の私は両方使って何の問題も起こらなかったから、主催者側のほとんどが、よく知らない極東から来た、下手な英語や意味のないフランス語を使う、更に訳の分からない人間をどう扱ったらいいのか戸惑っていたのかもしれない。

時に、競技を見物に来ていた白人の男の子が「日本という国はどこにあるのか、どんな家に住んでいるのか、どんなお金を使ってるのか・・・」などと、無邪気な好奇心を満面に現しながら聞いてきた。すぐにお父さんが飛んで来て「すみません・・・日本人を初めて見たものですから・・・」と丁寧に謝られたが、子供好きな私が気を悪くする理由はない。都市部と違って全くの田舎町だから、はるか遠くの国々の人たちとの遭遇はやはり稀なことだったのだろう。

気象が悪くて飛べない時は、金網の外側を散歩した。すぐ横のゴミ捨て場では、ボロを着た5歳前後の黒人の子供たちが数人遊んでいる。話をしようと近づくと、いくぶん怪訝(けげん)な面持ちで大きく目を見張り、じっとこちらを見ている。

私はポケットからアメを一つかみ取り出して、「これ、どうだい?」と声をかけた。すると、彼らはちょっと躊躇(ちゅうちょ)の色を見せた後、驚いたことに、全ての子供が、土ゴミで汚れた両手をお椀のように差し出して、拝むようにアメを受け取り、ちゃんと礼の言葉を返した。一つの世界を分断するような「金網」は、せめて子供の世界からは消滅しなければならない。

競技は1週間続き、最初の数日、私たちはエアフィールドから車で半時間ほど離れたところに宿を取っていた。これがまた、英国人の植民地支配が典型的に現れたような大農園の中にあって、宿の主に「あなたの所有地はどこまでか?」と聞いたら、周囲をグルリと指差しながら「だいたい見えなくなるところまで・・・」と答えた。広大な敷地内には使用人の黒人家族が何組か住んでいた。

実は、私は他の2人のメンバーよりも数日早くダーバン入りしていて、そう寒くもない冬のインド洋でブギーボードのサーフィンをしていた。これがホテル近くのサーフショップで例のスプリングを購入した理由なのだが、近くの海岸では、たまたまサーフィンの世界大会をやっていた。偶然の計らいで、当時世界のトップクラスと呼ばれるサーファーたちの波乗り見物の機会にも恵まれたのは有り難いことだ。

ところが、いくぶん冷ための大波に2日連続でもまれたら、3日目から熱と寒気がやってきた。たちの悪い風邪を引いてしまったのだ。38度前後の熱と体のだるさが抜けないのは実に困ったことで、現地の薬局で求めたカゼ薬は全く利かなかった。農園の宿の主に、もうちょっとましな薬はないか・・・と所望しても、それ以上のものはないと言う。

客人係で、貧しい小屋のような家に住む黒人使用人にことの事情を話したら、アスピリン系の錠剤を幾つか持ってきて「これを飲んでくれ」と言う。彼女にとってはたぶん貴重な家族の常備薬の一種だったに違いない。そのおかげで熱もいくぶん収まり、競技は1日休んだだけで無事終わったのだが、この変な体調の悪さは帰国してからもしばらく続き、私はこの病に「アフリカ風邪」と命名した。

T君のこと (國弘正雄)

昨日書いたT君の話には、國弘正雄と関係する導入部分がある。ことのついでに、UPしておく。

國弘先生のことを書こうとすると、どうしてもT君との思い出を辿らざるを得なくなる。T君とは、同郷の中学の2学年先輩で、私が1年坊主の時に理科部の部長や生徒会長をしていた人だ。若い時の森進一にそっくりで、その聡明で温和な性格は校内の誰にも好かれていた。この年代の2年先輩というと、はるか高い場所にいる大人のように見えるものだが、彼の柔らかで気さくな人柄には、ほとんど年齢差を感じさせないものがあった。1年生の2学期から理科部に入部して、私はすぐに彼のことを「T君」と呼ぶようになった。

理科部では全くの自由が支配していた。各自適当な自由研究の成果を思いついた時にまとめて、理科新聞を発行することのほかに特別な活動をしていたわけではない。当時の新聞はガリ版刷りで、私はピンホールカメラの原理を図入りで解説したりしたのを覚えている。彼が卒業した後、2年生の私が部長を引き継ぐことになったのもその自由の空気のためで、要するに誰がリーダーになっても部活動の内容には何も影響しなかったということだ。夏休みのある日、山を二つ隔てた彼の家に泊まりに行った夜、近くの小学校の天体望遠鏡を校庭に引っ張り出して、初めて土星の輪を見た時の感動を忘れることはない。

T君とは取り止めもない未来のことや他愛のない悩みごとなど実に様々な話をしたが、私は彼と一緒にいること自体が嬉しかったのだ。1年足らずのうちに、彼は海を隔てた街の進学校に進み、2年後に私も後に続いた。もちろんこの間も暇を見つけては彼の家に遊びに行った。彼とは英語が好きな点でも嗜好が一致していて、この頃すでに、彼は大学に進んだら是非とも留学したいという話をしていた。そして実際、岡山大学の理学部に進んだ後、サンケイ・スカラシップに合格してアメリカの東海岸に1年間留学することになる。

T君が高校時代に心酔したのが、同時通訳者で当時テレビやラジオの英語教育番組でも大活躍していた國弘正雄だった。彼は尊敬する國弘先生の書物を何冊か熟読してその感想文を送った。間もなく、先生の丁寧な返答が著書数冊と共にT君の元に届いた。「立派な人物とはこういう人のことを言うのだね・・・」それを聞いて、私もその通りだと思った。

その後、私が大学進学を考えるようになって、国際商科大学(現在の東京国際大学)を有力な選択枝にしたのは、この大学で國弘先生が国際関係論を担当していたからだった。そしてやがて、私は学生生活最初の1年間をこの大学で過ごすことになる。当時の先生はまだ40代半ばで意気溌剌としていた。派手な柄のまぶしいようなネクタイをしめた彼が教場に颯爽と登場すると、あたりの空気がピンと引き締まった。あの歯切れの良い早口で一時間半とうとうと話し終えるとさっと姿を消す。やはり随分お忙しいのだろうな・・・50人に満たない小さな教室の、たいがい一番前の席に座っていた私は、ステージに立つスター歌手を見るような気持ちで彼の姿を見ていた。世界中に広がっていたはずのその講義の細部を、今ほとんど覚えていないのは奇妙なことだが、人はその話の内容だけから影響を受けるのではない。

結局、ある理由で、私はこの暖かい大学を一年で去middle_1174617569.jpgり、明治大学に籍を移すことになる。当時の担当教授にはずいぶんご心配をかけ、不義理を残したままでいる。

國弘先生は、後に政治の世界にも関係するようになり参議院議員にもなって更に活動の場を広げられた。終始、平和と市民の側に立つリベラルな立場を堅持された。ただ、何年か前にテレビでお姿を拝見した時は随分痩せられて、様々なご苦労の痕が色濃く残っているように見受けられた。現在は政治からも身を引き、英国の客員教授や明治大学の軍縮平和研究所特別顧問もされている。ちょっと不思議な縁だと勝手に思っている。ともかくお元気で長生きしていただきたい。

さて、T君の話であるが、その後の彼について語るには、私の心の準備はまだ整っていない。その時が来たら、また書きたい。

T君のこと

人間がこの世界に生まれ出て、その本性ともいえる「純粋性」をまだ失なっていない年頃・・・十代から二十代にかけての、いわゆる青春時代における人との出会いほど、その後の人生に大きく影響を与える要因も少ないだろう。

加藤周一については以前少し触れたが、私にはもう一人、折りあるごとに思い出さずにいられない人物がいる。それがT君だ。この春の紀州旅行の帰りが、東北地震の影響で陸路に代り、岡山に立ち寄ることになったのも、その数ヶ月以前に、彼に関する情報を調べていたら、市内の蓮昌寺という寺の一角にT地蔵なるものが建立されていることを知ったからだった。偶然か否か、彼は岡山大学で地震を研究していた学者の卵だった。tangejizourenjyouji1.jpg

「人間は過去の事実を変えることはできないが、過去の事実の評価(意味)は変えることができる」・・・ある恩師の言葉だ。時は過去・現在・未来へと進行し、過ぎ去った過去の出来事に変化を加えることはできない。しかし、現在の自分が変われば、未来が変わるのは当然として、過去の事実の意味付けまで確かに変わるのだ・・・と心底納得したとき、私の目から大きなウロコがボロリと落ちた。ある事実の意味・評価が変わるということは、まさに事実の内容そのものが変わるに等しいことではないか・・・。

その後、私は、自分の未来について案ずることが少なくなり、「今この現在を行き切ること」に意を注ぐようになっただけでなく、人間の歴史全般に心惹(ひ)かれるようになった。そして、自分が関係した過去の出来事についても、時々思い返してその「意味づけ」がどう変化していくか・・・ということにも興味を持つようになった。

T君の話に戻る。以下、数年前の記事を転記。

中学・高校・大学と、極めて多感な期間を通して、私に大きな影響を与え続けた友人のT君について書くには、まだ充分な準備が整っているとは言いがたい。しかし、その準備はいつ完了するとも言えない種類のものでもあるので、少し書いて今後の資料にしておきたい。

岡山大学の理学部に進学したT君は、まもなくスカラシップでアメリカ東海岸に留学し、日本に帰ってから大学院に進んで学者の道を歩み始めた。専門は地質学で、1976年の論文は『マグニチュード3.9の地震の表面波解析による発震機構の決定』となっている。

当時の私にとって最初の大学を辞めるという選択は大問題だった。四国の片田舎に育った私には、関東周辺に身寄りも知り合いもなく、埼玉の下宿を出て新たな受験準備をするために江戸川傍のボロアパートに引越しするのも、電話帳をめくって適当に探り当てた不動産屋が、たまたま小岩にあったからというに過ぎない。

この計画については誰にも相談することなく、長い夏休みが終わった頃から着々と準備に着手し、受験直前になって、両親にも教授にも下宿屋の婆さんにもその結論だけを告げた。全ての人が反対した。

T君も例外ではなかった。そして、彼の反対理由は「君の気持ちは分からんでもないが、学問は場所を選ばない。大学が替わったからといって君の悩みや疑問は解決しないだろう。K大学はできたばかりの小さい大学で、M大学ほど名は通ってないが、素晴らしい先生がいて暖かい環境があるではないか。君は実より名を取るのか・・・」というようなことだった。

私が転学を考えた理由は「名を取る」ことよりも深刻なものだったが、この時はそれ以上のことを話すことはなかった。彼自身も自己の進路についての悩みを抱えていたに違いない。温厚な彼には珍しく厳しい返答だった。

結局、私は周囲の全ての反対を押し切って転学し、新しい環境で新しい生活を始めることになった。今から思うとムチャクチャな学生生活だ。しかし、20歳前後の男の生き方などというものは、凡そ無茶なもので、自由と苦悩をその本質とするものだろう。

2歳年上のT君は、私などよりはるかに堅実な生き方や考え方をしているようだった。私も新しい環境に慣れて、学内学外で色々と忙しくするようになった。T君も、大学院に進んで何かと忙しいらしく相互の連絡も途絶えがちになった。しかし、私は折に触れて彼の存在を思い出しながら、彼が博士課程に進んだらちょっとした祝いでもしに行こうか・・・などと考えていた。

そして、私が22歳の4月、親父が仕事の用事で東京に出てきた。年に一回あるかないかのことだ。都内のホテルで久しぶりに豪華な食事をした後で、父が重い表情でポツリと言った。「T君が死んだよ・・・」「もっと早く知らせるべきだったのかもしれないが、お前が落ち込むのは目に見えているから、今まで言わずにいた・・・」

ホテルの華やかな食堂が一気に明かりを失った。「なんで・・・?」「去年の大学院の忘年会の後、行方不明になってね・・・大騒ぎになったんだが・・・少し暖かくなって、下宿の近くの池に沈んでいるのが見つかったらしい・・・」私は言葉を失った。

アルコールに弱い私と違ってT君は強かった。一杯やると「学問とは、我が人生の目的とは、世界平和とは・・・」等など、大きな話になるのが大概だったが、それは単なる酔っ払いのホラ話ではなかった。素面の時でもこの種の話題については真面目に議論することがよくあったからだ。ひとしきり話し終えると気絶したようにどこでも寝てしまう豪放なところもあった。

後で聞いた状況を総合すると、12月末の非常に寒い夜、院の教授や仲間と大酒を飲んだ帰りに、道中、池のほとりで立小便でもしようとして足元がふらつき、冷たい水の中に落ちてそのまま寝てしまったのだろう・・・ということだった。

24歳の彼の死はあまりに唐突で理不尽だった。もうあの笑顔も涼やかな目も二度と見ることはできないのだ。もうこの世界のどこを探しても彼はいないのだ。それ以来、どんな人間も避けて通れないにもかかわらず、まともに向き合うことを容易に許さない「死の問題」が、私の心の隅から離れることはなくなった。そして否応(いやおう)なく、この日々の現実世界が相対化することになった。

人は死んだらどうなるのか・・・死後の世界は有るのか無いのか・・・もし無いとしたら人生の意味はどこにあるのか、もし有るとしたらそれはどの様なものであり、この生の世界とどういう関係性を持っているのか・・・人間が太古の時代から問い続けてきた容易には解けそうもない問題がそこにあった。

その答えを、幾多の哲人や先人の言葉の中に見出すのは簡単なことだ。それらの中にはそれなりの説得力もあり、なんとなく分かったような気になるものもある。しかし、どのような考え方を採用しても、一人の有為な人間が人生半ばにもならない若さでこの世界から突然消滅し、一方私のように無為な人間がその2倍以上もの年月この世界に存在し続けていることの必然性を、合理的に説明し、更に実証することは難しいだろう。

最近の私は、生死を有無の範疇で捉えようとすること自体に無理があるのではないかと考え始めているが、この大問題と真正面から向き合い、自己の中にゆるぎない解答を見出すには、まだ相当の時間がかかるのかもしれない。

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プロフィール

HN:
寛太郎
性別:
男性
職業:
self-employed
趣味:
風読み・読書・自転車ほか多数
自己紹介:
瀬戸内の小島生まれです。学生時代は国際法を少し。数年間の堅い団体職の後、子供好きが高じて学習塾を、風が好きでスカイスポーツのイントラを、等と趣味と仕事が重なる生活を数十年経験しました。55歳引退計画に従って現在は基本的にフリーですが、相変わらずあれこれ忙しくしています。

生活方針は「無理をしないでゆっくりと」およそ中庸を好みます。東西を問わず古典思想の多くに心惹かれます。まずは価値相対主義を採用し事物の多様性を愛しますが、ミソとクソを同等にはしません。モノゴトには自ずと高低浅深があり、その判断基準は「大自然の摂理と全ての生命(いのち)の幸福」の中にあると思います。敬愛する人物は古今東西少なからず、良寛やB・ラッセルを含みます。

ナチュラリストと呼ばれることを好みますが、人間が創り出した道具類にも大きな関心を持ちます。人間語だけでなく、あらゆる生き物たちの「ことば」に興味が尽きることはありません。60~70年代ポップスや落語を聞いたりすることも好きです。

・著作:『空を飛ぶ・一つの方法』
・訳書:『リリエンタール最後の飛行』
・訳書:『個人と権威』

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