内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
人間がこの世界に生まれ出て、その本性ともいえる「純粋性」をまだ失なっていない年頃・・・十代から二十代にかけての、いわゆる青春時代における人との出会いほど、その後の人生に大きく影響を与える要因も少ないだろう。
加藤周一については以前少し触れたが、私にはもう一人、折りあるごとに思い出さずにいられない人物がいる。それがT君だ。この春の紀州旅行の帰りが、東北地震の影響で陸路に代り、岡山に立ち寄ることになったのも、その数ヶ月以前に、彼に関する情報を調べていたら、市内の蓮昌寺という寺の一角にT地蔵なるものが建立されていることを知ったからだった。偶然か否か、彼は岡山大学で地震を研究していた学者の卵だった。
「人間は過去の事実を変えることはできないが、過去の事実の評価(意味)は変えることができる」・・・ある恩師の言葉だ。時は過去・現在・未来へと進行し、過ぎ去った過去の出来事に変化を加えることはできない。しかし、現在の自分が変われば、未来が変わるのは当然として、過去の事実の意味付けまで確かに変わるのだ・・・と心底納得したとき、私の目から大きなウロコがボロリと落ちた。ある事実の意味・評価が変わるということは、まさに事実の内容そのものが変わるに等しいことではないか・・・。
その後、私は、自分の未来について案ずることが少なくなり、「今この現在を行き切ること」に意を注ぐようになっただけでなく、人間の歴史全般に心惹(ひ)かれるようになった。そして、自分が関係した過去の出来事についても、時々思い返してその「意味づけ」がどう変化していくか・・・ということにも興味を持つようになった。
T君の話に戻る。以下、数年前の記事を転記。
中学・高校・大学と、極めて多感な期間を通して、私に大きな影響を与え続けた友人のT君について書くには、まだ充分な準備が整っているとは言いがたい。しかし、その準備はいつ完了するとも言えない種類のものでもあるので、少し書いて今後の資料にしておきたい。
岡山大学の理学部に進学したT君は、まもなくスカラシップでアメリカ東海岸に留学し、日本に帰ってから大学院に進んで学者の道を歩み始めた。専門は地質学で、1976年の論文は『マグニチュード3.9の地震の表面波解析による発震機構の決定』となっている。
当時の私にとって最初の大学を辞めるという選択は大問題だった。四国の片田舎に育った私には、関東周辺に身寄りも知り合いもなく、埼玉の下宿を出て新たな受験準備をするために江戸川傍のボロアパートに引越しするのも、電話帳をめくって適当に探り当てた不動産屋が、たまたま小岩にあったからというに過ぎない。
この計画については誰にも相談することなく、長い夏休みが終わった頃から着々と準備に着手し、受験直前になって、両親にも教授にも下宿屋の婆さんにもその結論だけを告げた。全ての人が反対した。
T君も例外ではなかった。そして、彼の反対理由は「君の気持ちは分からんでもないが、学問は場所を選ばない。大学が替わったからといって君の悩みや疑問は解決しないだろう。K大学はできたばかりの小さい大学で、M大学ほど名は通ってないが、素晴らしい先生がいて暖かい環境があるではないか。君は実より名を取るのか・・・」というようなことだった。
私が転学を考えた理由は「名を取る」ことよりも深刻なものだったが、この時はそれ以上のことを話すことはなかった。彼自身も自己の進路についての悩みを抱えていたに違いない。温厚な彼には珍しく厳しい返答だった。
結局、私は周囲の全ての反対を押し切って転学し、新しい環境で新しい生活を始めることになった。今から思うとムチャクチャな学生生活だ。しかし、20歳前後の男の生き方などというものは、凡そ無茶なもので、自由と苦悩をその本質とするものだろう。
2歳年上のT君は、私などよりはるかに堅実な生き方や考え方をしているようだった。私も新しい環境に慣れて、学内学外で色々と忙しくするようになった。T君も、大学院に進んで何かと忙しいらしく相互の連絡も途絶えがちになった。しかし、私は折に触れて彼の存在を思い出しながら、彼が博士課程に進んだらちょっとした祝いでもしに行こうか・・・などと考えていた。
そして、私が22歳の4月、親父が仕事の用事で東京に出てきた。年に一回あるかないかのことだ。都内のホテルで久しぶりに豪華な食事をした後で、父が重い表情でポツリと言った。「T君が死んだよ・・・」「もっと早く知らせるべきだったのかもしれないが、お前が落ち込むのは目に見えているから、今まで言わずにいた・・・」
ホテルの華やかな食堂が一気に明かりを失った。「なんで・・・?」「去年の大学院の忘年会の後、行方不明になってね・・・大騒ぎになったんだが・・・少し暖かくなって、下宿の近くの池に沈んでいるのが見つかったらしい・・・」私は言葉を失った。
アルコールに弱い私と違ってT君は強かった。一杯やると「学問とは、我が人生の目的とは、世界平和とは・・・」等など、大きな話になるのが大概だったが、それは単なる酔っ払いのホラ話ではなかった。素面の時でもこの種の話題については真面目に議論することがよくあったからだ。ひとしきり話し終えると気絶したようにどこでも寝てしまう豪放なところもあった。
後で聞いた状況を総合すると、12月末の非常に寒い夜、院の教授や仲間と大酒を飲んだ帰りに、道中、池のほとりで立小便でもしようとして足元がふらつき、冷たい水の中に落ちてそのまま寝てしまったのだろう・・・ということだった。
24歳の彼の死はあまりに唐突で理不尽だった。もうあの笑顔も涼やかな目も二度と見ることはできないのだ。もうこの世界のどこを探しても彼はいないのだ。それ以来、どんな人間も避けて通れないにもかかわらず、まともに向き合うことを容易に許さない「死の問題」が、私の心の隅から離れることはなくなった。そして否応(いやおう)なく、この日々の現実世界が相対化することになった。
人は死んだらどうなるのか・・・死後の世界は有るのか無いのか・・・もし無いとしたら人生の意味はどこにあるのか、もし有るとしたらそれはどの様なものであり、この生の世界とどういう関係性を持っているのか・・・人間が太古の時代から問い続けてきた容易には解けそうもない問題がそこにあった。
その答えを、幾多の哲人や先人の言葉の中に見出すのは簡単なことだ。それらの中にはそれなりの説得力もあり、なんとなく分かったような気になるものもある。しかし、どのような考え方を採用しても、一人の有為な人間が人生半ばにもならない若さでこの世界から突然消滅し、一方私のように無為な人間がその2倍以上もの年月この世界に存在し続けていることの必然性を、合理的に説明し、更に実証することは難しいだろう。
最近の私は、生死を有無の範疇で捉えようとすること自体に無理があるのではないかと考え始めているが、この大問題と真正面から向き合い、自己の中にゆるぎない解答を見出すには、まだ相当の時間がかかるのかもしれない。
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
COMMENT