内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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ノーベル賞のホスト国であり、村上春樹のベストセラー小説の題名の一部にもなった、あの美しい森の国ノルウェーで、やりきれないテロが起きた。
32歳の極右キリスト教原理主義を信条とする男が、ほとんど10代の大勢の若者たちを、恐らく何のためらいもなく射殺した・・・ということだ。
彼(か)の国々で近年増加し続ける移民労働者が、自国民の就職状況を悪化させたり、民族の誇りを傷つけたりすることが気に入らなくて、この残忍極まりない犯行に及んだらしい。
いわゆる「何とか原理主義」・・・私の頭の中のヘッポコ辞書では、「原理」は「ある現象を成立させる基本法則」で「主義」は「好み」程度のものなのだが、「現象や法則」は自然界には満ち溢れていて、「好み」は人の数だけある。
ところが、なんとか原理主義者と呼ばれる人たちの中には、往々にして、自らが好みの原理や主義を絶対的に正しいものとし、他の原理や主義の存在を認めようとしない狭量な人間が存在する。
つまりは独善と非寛容ということなのだが、どちらも人間の幸福にとっては無用の長物であることに気が付かない人が、何ゆえに後を絶たないのか・・・すでに数千年を経る私たちの歴史に少し目を通せば、その間違いにすぐにでも気づくはずなのに・・・。
およそ、人間が創(つく)り、認識できるモノゴトの中に絶対的な何かは存在しない。
なぜなら、「あれ」の存在がなければ「これ」の存在もありえないからである。この世界の存在認識は相対化することによってのみ成立する。どんなものでも、絶対化すると、その絶対化した存在そのものが意味を失ってしまうことになる。
いちいち例を挙げるのも面倒なことだが、例えば、全てが液体でできていて気体も固体もない世界では、液体という概念(考え)自体が存在できない。液体は気体や固体が存在するからこそ、それらと相対され区別されて液体として認識されるからだ。
ガリバーは小人の世界に流れ着いて初めて大男になった。彼が絶対的な神の存在を信じていたかどうかは忘れた。しかし、神が人間を創ったのか、人間が神を創ったのか?・・・と問われれば、私は躊躇(ちゅうちょ)なく後者に一票を入れる。
そして、私は「信の世界」を決して否定しない。この「信」を巡る私の思いつきはまた後で書く。
昨夜、テレビの報道番組で最後の部分をちょっとだけ観たに過ぎないが、 瀬戸内寂聴の言葉を重く聞いた。「私は我が身を挺(てい)して原発に反対する。私たちの子孫にこんな怖いものを残してはいけない。」 もと流行作家で既に九十歳になろうとする天台尼僧の口調は静かで力強く響いた。
その他多くの原発反対者と同様、私もずいぶん以前から原発には反対の意見を持っている。とりあえずどのように「身を挺(てい)し」たら良いのかは、今のところ分からないけれども、日本でも一応「言論の自由」は保障されているので、ここでもハッキリと「原発は一刻も早く廃止すべきである」と発言しておく。
その理由についても、多くの反対者が語っているのとほぼ同じ内容なので、改めて言うまでもない。ただ、一点だけ、「それは大自然の摂理に根本的に反しているからである」ということは、軒の上に何十の軒を重ねることになっても、繰り返して強調しておきたい。
およそ、原発好きな方たちが、①「原発はいらないというが、電気が無くなってもいいのか!?」などと言う口調は、世界の人々或いはその他の全ての生き物たちの生命よりも、国家という人工制度の方が好きな人たちが、②「(憲法9条に関して)軍隊はいらないというが、他の国に攻撃された時、黙って殺されてもいいのか!?」という語り口とよく似ている。
私は、日本では自衛隊という世界有数の軍隊組織を作りあげるだけの国家的労力を、一切の敵対国を作らないことに傾注する気持ちが少しでもあれば、②のような発言はできず、同じく、大自然が潜在する実に多様なエネルギー源を利用することに少しでも関心を持てば、①のような発言も出て来るわけがないと思うのだが、どうだろう?
興味がある人は、どのような方たちが、その「国家好き」や「原発好き」か、ちょっと突っ込んで調べてみるといい。たぶんビックリするほど明瞭(めいりょう)な事実に気が付くだろう。
この数十年、ナチュラリストの一人として、じっくりと大自然の膨大かつ絶妙な力用(りきゆう)と付き合ってきて得た貴重な結論の一つは、自然と言っても、宇宙と言っても、一切法界と言ってもいいのだが、ともかく「私たち人間はそこから生まれそこに帰る存在であり、一時たりとも、その母体とも言える「大自然」から莫大な慈悲や恩恵を受けていない時はない」という事実である。
英語では、原発は原爆と同じで、頭に"NU-CLEAR"が付く。どこがクリアなの?"NO-CLEAR"にしたら・・・と、ちょっと突っ込みたくもなるが、それはともかく、この広い地球上のどの生命圏を探しても、物質の基本要素を、つまりは大自然やその中で生きる生命の根源的存在である原子を「破壊すること」で、何らかの力を引き出すなんてバカげたことをするものはいない。
人間だけが、その大恩を受け続けている自然世界に無理と不合理の限りを尽くしているとも言える。「恩を仇(あだ)で返す」という言葉があるが、原爆は言うにおよばず、原発もまた全く同様の仕方で、人間は自らを生み出し生かしている存在を裏切り続けているのではないのか。
天に向かってツバを吐くとそのまま自分に返ってくる。これは単なる諺(ことわざ)ではなく、地球の重力作用という厳然たる物理法則でもある。
また、人間や自然を慈愛する人は、いずれ人間にも自然にも慈愛されようになる。人を尊敬する人は人に尊敬される。親切にする人は親切にされる。逆に、人を恨む人は人に恨まれる。バカにする人はバカにされる。騙す人は騙される。裏切る人は裏切られる。苦しめる人は苦しめられる・・・など等の人間社会でよく見られる現象も含めて全て、単に道徳律に反するからというだけではなく、作用に必然的に伴う反作用という普遍の物理法則だからでもあろう。
これが「人倫の基本は自然界の懐(ふところ)に在り」とする私の根本的な原発反対理由である。
(3)の続きである。第三者の「無知」から、私がパラグライダーで1回、カイトサーフィンで3回、公共機関に無用な通報をされた・・・という話を書いた。
今後、似たような経験をするかもしれない方たちの用になるかもしれないので、その状況をもう少し詳しく書いておくことにする。カイトの3回での私の姿勢は、パラのそれと全く違って、まことに紳士的なものだった。その理由は簡単で、ことの構造が分かり過ぎるほど分かっていたからだ。
1度目は、カイト生活1年目の粟井海岸でのことで、この浜でこんなスポーツをするのは私が初めてだった。この頃の私はまだインフレータブルの15㎡を使っていて、当たり前のことだが、しょっちゅうカイトを海に落とし、風がどうにもならないときは泳いで浜まで帰っていた。
海岸近くに住む人たちがモノ珍しく思ったのは当然で、よく興味深げに見物しながら、ときどきお話もしていたから、徐々に見慣れてこのスポーツへの理解も相当に得られたのでは・・・と思っていた頃だった。
15分ほど泳いで、岸に帰りしばらくすると、海保の一人が「この辺りでパラグライダーが墜落した・・・という通報があったのですが、何かご存じないですか~?」と波除堤防の上から声をかけてきた。「こんなとこで普通パラは飛ばないから、それはたぶん私のコレと見間違えたのでしょう」「ああ、そうですか~・・・・ところで、それはなんというモノですか~?」「カイトサーフィンといって海の上で遊ぶスポーツの一種です」「ああ!そういえばテレビで見たことがあるような気がします!・・・しばらく見学させて頂いてもいいですか?それと、写真も撮らせて頂いてもいいですか?」「もちろん、ご自由にどう~ぞ^^」 なかなか気持ちの良い海保の青年だった。
2度目は1年余り経ったやはり粟井海岸で、近くのマリーナの方が、少々沖の方にチンしてカイトを漕いでいる私を見て海保に通報したらしい。私がほどなく帰ってくると、「遭難したと思って海保に通報しました。今から取り消しの連絡を入れます」ということだった。私のことは何も知らないわけで、割と寒い季節に海を漂流すると危ないと考えたらしい。私が「風も潮もしっかり計算しながらがらやっていることだから大丈夫なんですよ」と説明を加えたら、じゅうぶん納得した様子だった。
それ以降、この浜では私のカイトサーフィン姿は珍しいものではなくなったらしく、その後も何度か泳いだが、親切なおせっかいをする人は誰もいなくなった。
3度目は、塩屋海岸で比較的新しく2年ほど前だったと思う。この時は20分ほど泳いで岸に上ってしばらくしたら、海保のヘリコプターがかなりの低高度で近づき、頭の上を旋回し始めた。私は何ごとかと怪訝に思いながら眺めていたのだが、そのうち県警のパトカーもやってきた。警部と部下の3人たった。
この時も私は既に上陸して一服しているのだから、国民の生命を守ろうと意気込んでやって来た彼らが拍子抜けするのは当たり前だ。まったくご苦労だと思ったので、私は「ご苦労様です!」と声をかけた。「そうなんですよ。パラグライダーが海に落ちて大変だ!・・・という通報がありましてね、やってきたんです。これは何というモノですか?」・・・いつもの質問だ。
私は、ちょうど良い機会だから、今回はしっかり説明しておこうと考えて、カイトとパラの構造の違いや楽しみ方の違い、その安全性や危険性・・・などについて、2人の若い警官も含めて3人の前で、ちょっとした講習会みたいなことをやった。歳のいった警部はともかく、若い二人は相当に興味深く聞いていたので、「君もやってみるといいよ、いいストレス解消になるぞ^^」と言うと、二人は微笑みながら頷(うなず)いた。
この国の法律では、事故の通報者の個人情報は守られる仕組みになっているらしい。これまでの経緯では、その主は、よほど暇で心配性のご老人辺りではないかと私は想像したりする。最後にこの警部には「通報する方には、今の話を少ししてあげて、よく注意してことの成り行きを見てからにするように助言してください」と、お願いをしておいた。その後、このエリアで同じことが起こったことはない。
こないだ、孔子の話がでてきたので、論語を巡る思い付きを少し・・・。
論語には「君子(くんし)」と言う言葉が頻出する。現代では死語に近くなっているので、これを「人格者、立派な人物、達人」あたりに置き換えると分かりやすい。同じく「小人(しょうじん」は「未熟者」程度の意味でどうだろう。
カイト生活最初の1年ほどの間、ずいぶん熱中したボード製作の最後一板のデッキに、私は論語の「和而不同(和して同ぜず)」と大書した。この四文字は反芻(はんすう)すればするほど味が出てくる。(子路・23)の、子曰「君子和而不同 小人同而不和」。孔子先生は言った「人格者は調和するが雷同しない。未熟者は雷同するが調和しない」が原典だ。
この数千年前の人間観察は、そのまま21世紀の現代社会に生きる私たちの周囲でも日常的に観て取ることができ、彼の洞察力がいかに正確であったかが良く分かる。いやと言うほど雷同することが多く、調和することの少ない私は、時々これを思い出して自戒の一刻にもしている。
「・・・にも」というのは、この四文字を少し掘り下げて考え始めると、個人と集団・社会の関係性の理想形が遠望できたり、西欧の方々が長い時間をかけてその骨髄にし、わが日本でも明治以降、輸入思想の代表格として苦心惨憺しながら取り組んできた「個人主義」の本質的な何かが、「すでに」そこに在ったような気がして仕方がないからでもある。
ところで、「和を持って貴しとなす・・・」は聖徳太子の憲法17条の最初に出てくる一句だが、その後に「忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ」、つまり「反抗するな」と続く。何に反抗するな、か・・・言うまでもなく当時の朝廷権力だ。
太子が、論語の「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」から、その「和」の概念を抽出しようとしたかどうかはともかく、人の和が本当に貴くなるには、孔子の言う「同ぜず」の精神が不可欠であることには、知ってか知らずか、彼は触れていない。
論語は儒家の聖典として日本でも長い間読まれ、堅牢な封建体制の思想的バックボーンになったことは周知の事実で、現在も多くの経営者や指導者の伴侶になっているが、私は過去、論語は封建時代の遺物・・・程度の理解でいた。
しかし、心を白紙にして読んでみると、これがなかなか大した倫理・道徳・哲学の書であることに気が付く。「君子は調和する」しかし「雷同しない」・・・こんな言葉は、よほど独立した個人としての自覚がないと出てこないだろう。
また、学而第一の「学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや(学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね(」の最後の段、「人知らずして慍(うら)みず(人が分かってくれなくても気にかけない)」などは、一段、二段を受けることによって、より屹立(きつりつ)した一人の人間としての強さと余裕を感じさせる。
人は周囲の他人(ひと)に理解されないと、孤独を感じることが多いが、「孤独」は「自由」の伴侶である。いつだったか、美人女優でフランス生活の長い岸恵子も同じようなことを言っていた。彼女はたぶんまちがいなくサルトルを読んでいる。
やはり、古典は虚心になってじっくり読み込むべきものである。身長2mとも言われる大男の人生の大半が“無冠の一学者”に過ぎなかったということも忘れるべきではないだろう。老荘や古代中国の聖人・賢人と呼ばれる人たちの生き方や思想に、私の興味が尽きることはないので、これからも時々登場していただくつもりだ。
※現代語訳は論語の世界から引用
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