内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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こないだ、孔子の話がでてきたので、論語を巡る思い付きを少し・・・。
論語には「君子(くんし)」と言う言葉が頻出する。現代では死語に近くなっているので、これを「人格者、立派な人物、達人」あたりに置き換えると分かりやすい。同じく「小人(しょうじん」は「未熟者」程度の意味でどうだろう。
カイト生活最初の1年ほどの間、ずいぶん熱中したボード製作の最後一板のデッキに、私は論語の「和而不同(和して同ぜず)」と大書した。この四文字は反芻(はんすう)すればするほど味が出てくる。(子路・23)の、子曰「君子和而不同 小人同而不和」。孔子先生は言った「人格者は調和するが雷同しない。未熟者は雷同するが調和しない」が原典だ。
この数千年前の人間観察は、そのまま21世紀の現代社会に生きる私たちの周囲でも日常的に観て取ることができ、彼の洞察力がいかに正確であったかが良く分かる。いやと言うほど雷同することが多く、調和することの少ない私は、時々これを思い出して自戒の一刻にもしている。
「・・・にも」というのは、この四文字を少し掘り下げて考え始めると、個人と集団・社会の関係性の理想形が遠望できたり、西欧の方々が長い時間をかけてその骨髄にし、わが日本でも明治以降、輸入思想の代表格として苦心惨憺しながら取り組んできた「個人主義」の本質的な何かが、「すでに」そこに在ったような気がして仕方がないからでもある。
ところで、「和を持って貴しとなす・・・」は聖徳太子の憲法17条の最初に出てくる一句だが、その後に「忤(さか)ふること無きを宗(むね)とせよ」、つまり「反抗するな」と続く。何に反抗するな、か・・・言うまでもなく当時の朝廷権力だ。
太子が、論語の「君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず」から、その「和」の概念を抽出しようとしたかどうかはともかく、人の和が本当に貴くなるには、孔子の言う「同ぜず」の精神が不可欠であることには、知ってか知らずか、彼は触れていない。
論語は儒家の聖典として日本でも長い間読まれ、堅牢な封建体制の思想的バックボーンになったことは周知の事実で、現在も多くの経営者や指導者の伴侶になっているが、私は過去、論語は封建時代の遺物・・・程度の理解でいた。
しかし、心を白紙にして読んでみると、これがなかなか大した倫理・道徳・哲学の書であることに気が付く。「君子は調和する」しかし「雷同しない」・・・こんな言葉は、よほど独立した個人としての自覚がないと出てこないだろう。
また、学而第一の「学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや(学んでは適当な時期におさらいをする、いかにも心嬉しいことだね(」の最後の段、「人知らずして慍(うら)みず(人が分かってくれなくても気にかけない)」などは、一段、二段を受けることによって、より屹立(きつりつ)した一人の人間としての強さと余裕を感じさせる。
人は周囲の他人(ひと)に理解されないと、孤独を感じることが多いが、「孤独」は「自由」の伴侶である。いつだったか、美人女優でフランス生活の長い岸恵子も同じようなことを言っていた。彼女はたぶんまちがいなくサルトルを読んでいる。
やはり、古典は虚心になってじっくり読み込むべきものである。身長2mとも言われる大男の人生の大半が“無冠の一学者”に過ぎなかったということも忘れるべきではないだろう。老荘や古代中国の聖人・賢人と呼ばれる人たちの生き方や思想に、私の興味が尽きることはないので、これからも時々登場していただくつもりだ。
※現代語訳は論語の世界から引用
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