内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
昨日のブログを読み返していたら、まあ、幾つになっても跳び上がるのが好きな酔人らしく、論理の跳躍(ちょうやく)が多いこと・・・何ヶ所か手を入れてはみたけれど・・・およそヨッパライいが、ちと堅いことを書こうとすると、こういう分かりづらいヘンテコ文章になるという、良い見本みたいなものであります。
大体のはなし、難解なお話しや文章ができあがる理由は、当の本人が言いたいことを良く理解してないからで、政治屋の「遺憾に思います」とか役人どもの「善処します」とかほどタチが悪くはないにしても、その責任は、どんなに贔屓目(ひいきめ)に見積もっても、九割がたは話し手や書き手にあるのであります。
しかし、今日は梅雨空、風の神も静かで、若干眠たいものの、寝ない限りはヒマであり、ヒマなことはじつに良いことであります。「何もしないことはまったく良い!」ドリトル先生の声が聞こえてきそうであります。
「そんなこと言いながらオマエ、また変な駄文を書こうとしているではないか、ヒマが好きなら少しはじっとしとらんか!」今度はマンボー先生の声が聞こえそうであります。
運悪くこんな記事が目に留まった方々には、お気の毒としか言いようがないけれども、まあこれも何かの縁とご容赦いただいて、先を続けることに致しましょう。
教育・・・大きく重いテーマだ。世界中でどれほど多くの父や母や先生方が、この問題の周辺で苦悩してきたか、そしてご苦労されているか・・・想像するに余りあり、私もその一分を経験している。
「人は無知で生まれるが愚かに生まれるわけではない。人を愚かにするのは教育である」と言ったのは、イギリスのバートランド・ラッセルだった。(元は数学者で後にノーベル文学賞作家でもあった彼の肩書きを全て並べるには骨が折れる。彼はいくらか不器用な教育者でもあった。)
無知が愚かで不幸であるとは、私もまったく思わない。何も知らない(かもしれない)子供たち、海を行く魚たち、空を舞う鳥たち、大地を駆ける動物たち、そしてモノ言わぬ植物たち・・・彼らは、人間の基準では「無知」かもしれないが、まず不幸でないという事実は、ただ「美しい」としか言いようのないその姿態、「見事」としか言いようのないその生態を、少し注意深く観察すれば、たちまち了解できるだろう。
おそらく人間だけが、驚くほど賢明にもなり愚劣にもなり、従って幸せにもなり不幸にもなり得る、実に珍しい種類の動物であることは、すで歴史がくり返し証明しているし、その主たる要因が、人や社会や国家による教育であることに、疑いをはさむ余地はないように思われる。
(幾分メンドクさい話はまだつづく)
今日の堀江海岸も例の「ウィンド・グラジェント」が、明確に現れていた。かなりの引き潮時ということもあり、波打ち際近くには相当量の「風だまり」もあった。
この「風だまり」もウィンド・グラジェントの一種なのだが、ある程度の角度を持つ斜面に向かって吹きつける空気(風)が、摩擦抵抗によって、その斜面と平面(海面)が接する線上に滞留する現象で、斜度が大きくなるほどその量も大きくなる。強風時の家屋の軒先に身体を張り付けると、風がずいぶん弱まるのを感じたりするのは分かりやすい例かもしれない。
その上空には通常、なにがしかの斜面上昇風が吹いている。私はめったに海岸近くでハイジャンプはしないのだが、今日は浜がガラ空き、引き潮時でもあったので、試しに、沖合いでのジャンプと、どの程度の違いが出るか確かめてみようと思いついた。着岸直前、高めのフロントループをやってみたら、結果は予想通り、明らかな違いがあった。つまり、同じ動作で、より高くより長い滞空時間を得ることになった。
今日はアンダー気味の風模様だったのでどういうことはなかったが、強風時にこういうことをすると、たぶん跳びすぎて、かなりきわどい着水ならぬ着陸になる可能性が充分ある。風は大概どこでも、横にも縦にも吹いていることを忘れない方がいい。
ともあれ、海水温もずいぶん上がり、海上をノンビリ漂うには気持ちの良い季節になった。そこで、こないだから構想している「水上リラックス法」を近々実行しようと思っている。
私のことを良く知る方々は、何も案ずることはないとは思うが、これからしばしば、海上高くカイトが停まっていて、私の身体が眠ったようにプッカリ浮いて長時間まったく動かなくても、私は死んでいるわけではない^^; 決して無用な心配をしないようにお願いしたい。
そして、さらに私は思う。「金(かね)になるだけが仕事ではないのは無論、真に優れた仕事はやがて必ず金(きん)になる」
こないだNHKの番組で、スペイン・アルタミラ洞窟の動物壁画をあらためて観た。最近のTV映像は急速な技術革新のおかげで、以前よりずいぶん鮮明に鑑賞することができる。
はるかな過去の石器時代に、単なる物品交換の便を図るための貨幣なんてものは存在しなかった。もちろん現代のバカに複雑な貨幣制度やお金(かね)なんてものも。かの人物は、何らかの報酬を得るためではなく、純粋な楽しみ喜びのために、この大作を描いたにちがいない。
しかし、ピカソをして「こんなスゴイ絵画は現代の画家にはとても描けない!」と言わしめた、驚くべく優れた仕事がそこにあった。万年を経ても決して朽ちることのない金(きん)のような仕事。
ところで、仕事の和読みは「仕(つか)える事(こと)」だ。ヒトが自分以外の何か誰かに仕(つか)えるためには、上下・高低の身分的な階層が条件になるのだが、そういう社会構造が発達するにつれて「仕事」という概念も定着したことは容易に推定できるだろう。
もっとも、仕える対象がもっと形而上(けいじじょう)的な、普通の目には見えない世界、あるいは、自分の好みの世界である場合は、話しが大きく違ってくる。生業(なりわい)が趣味になっている人、趣味が生業になっている人などは、わりあい稀(まれ)なこの種類だ。
英語でワーク(work)とビジネス(business)が区別されて使われるのにも、それなりの歴史的背景があり、workはwalk(歩く・動く)が源であるに比べて、businessとはbusy(忙しい・手がふさがっていて他に何もできない)の派生語にあたる。
日本語にも「働(はたら)く=人が動く」という言葉が古くからあり、漢字の成り立ちとしても「忙」は「心を亡くす」ことが原義だ。このあたりも分かりやすく符合していて面白い。
世間がどんなに不景気になって、いわゆる「仕事」がなくなっても、ヒトは生きて、好きなことで体や頭が動いている限り、「働(はたら)く」のを止めることはあり得ないのである。
私にとって、政治の世界に関わるモノゴトの多くは、アホらしくてなかなか話題にする気にならない。それは何故か・・・。そこに「権力欲」というアホらしくもやっかいな人間的宿業が付いてまわるからだ。
例えば、近頃巷間(こうかん)はやりの「尖閣問題」・・・これは深刻な国際的・政治問題だと思われがちだが、そんなことはない。少し乱暴な言い方をすれば、ヤクザの類(たぐい)の単なる縄張り争いの延長に過ぎない。
自然本来、誰のものでもないものを、日本は日本のモノだと言う。中国は中国のモノだと言う。台湾は台湾のモノだと言う。それぞれが勝手な権力主義的我欲を恥ずかしげもなく披露しているにすぎない。
本物のヤクザは、深遠なる「仁義」という、カタギの方々も見習うべき倫理規範の一分(いちぶん)を心得ているものだが、現在の政治家にそんな奇特な徳をそなえた人物など、まずはいない。
国際問題とは国家と国家の際(きわ)で発生するモメゴトを契機(けいき)とする。しかし、そもそも、その国家とは「領土と国民と主権の3要素で成立する」・・・なんて勝手なことを決めたのは一体誰だ? どんな賢明な存在がどんな深遠な知恵を持って決定したのか? 多くの法律家は「そんなことは常識中の常識ではないか」・・・と、それぞれの用語についてもっともらしい解説を始めるだろう。
しかし、ニーチェのような天才狂的哲人はおいといて、この問題に、絶対の自信を持って間違いなく答えられる人は、この人間世界にはたぶん一人もいない。人間は全知全能の神ではなく、かけがえの無い地球上の生命(いのち)たちは人間だけではないのだから。
それではどうすればいいのか?・・・結局は、一人ひとりの人間がもっと心を開いて、日常的には当たり前の「思いやり」の心を、より賢明に応用すればいいだけの話だろう。とりあえず、日本の漁師と中国の漁師が、一晩でいい、同舟(どうしゅう)の仲になったら、少なくとも漁業権問題はたちまち解決する・・・楽観に過ぎるだろうか?
いくらかやっかいなのは、(悪しき)商業主義と直結した鉱物資源の問題。しかし、通常、強欲を善しとする大資本家たちが、「知足・足ることを知る」という、何千年も前から聞かされている教えを素直に実行して、はるか多くの人々に範を示せば、やがては解決する。かなり見通しの暗い希望ではあるが・・・。
そういえば、昔、台湾の高等専門学校(15~20歳)の社会科の授業に招かれた際、賢(かしこ)そうな一人の生徒から、まさに「尖閣諸島はどこの領土だと思うか?」・・・という真面目な質問を受けたことがある。大陸中国との関係で、かの国はまだ臨戦状態にあり、一般道を平気で戦車が走っていた。
私は少々面食らいながら、「とりあえず国連に解決をゆだねるのが最良の方法だと思う」と答えた。もっとハッキリした反応を期待していただろうその青年生徒は、ちょっと複雑な失望の色を顔に浮かべた。現在のところ、国際連合に大きな力はない。しかし、私は、その可能性に少なからぬ希望を抱き続ける。
とにもかくにも、日本でも中国でも台湾でもどこでも、モノゴトを合理的に考えることのできる普通の人たちは、愚劣の先端を走る政府や政治家の喧伝(けんでん)に、簡単には騙(だま)されてはいけない。
自分自身の頭で考えることは時にメンドクサイもので、だまされ続ける方が楽な場合も多のだろうが、その種の楽は、次に来る更に大きな苦しみの原因になる・・・と悟っておいた方が無難だろう。この国でもあの国でも、ほんの70年ほどの前の歴史が証明する通り。
かくして、アホな話題にここで言及するのは、結局、この酔人もアホの一類だからである。
久方ぶりにクラウス博士からメールを頂いた。近況の連絡と近々出版される論文書"The Law of Peace Constitutions and Collective Security - Japan's Motion to Abolish War"『平和憲法と集団的安全保障-戦争廃絶に向けた日本の動き』(寛太郎的拙訳)の案内だ。
人と人との出合いは偶然と必然との出合いでもあるらしい。もう10年ほど前に、たまたま彼のWEBサイトに行き当たった私は、一人のドイツ人研究者が日本の平和憲法にただならぬ造詣と期待を持ち、国際連合の限界と可能性についても、およそ私と同じ見方をしていることを知った。
中学3年の弁論大会で「世界政府を作る」なんて幼稚な大ボラを披露して先生方の失笑を買い、親父に「もっと落ち着いてまともなことを言え!」と怒られた少年が、その後、長い学生時代後半の研究課題に選んだのが国際法であり、中心テーマは国際連合だった。
やがて、私の関心は、世界の平和から一人の人間の、畢竟(ひっきょう)自分自身の心の平和という、更に切実な問題に移っていくのであるが、少なくとも法的には、世界平和のために作られた国際連合の理想の行き着くところは、詰まるところ「世界連邦政府」の構築ということになるだろう・・・という結論は、今もまったく変っていない。
その旨メールを差し上げると直ぐに丁寧な返事があり、ここから静かな交流が始まった。やがて彼の記事や外務大臣への提言類などの翻訳作業をお手伝いすることになるのだが、その興味深い来歴を知るにつれて、彼の生き方そのものにも心魅かれるようになった。これは一度お会いしておかなければならないと思った。
8年ほど前になる、すでに60歳を超える彼の風貌について色々と想像を巡らせながら、埼玉の日高市にあるお宅を、学生時代からの友人と訪ねた。雨の中、博士は自転車で駅まで迎えに来ていた。
お会いした瞬間、遠い昔どこかで親しくしていたような懐かしい感覚が私の胸を満たした。たぶん多くの人が経験するだろう「初めて来た場所なのに以前から確かに知っている!」というあの奇妙な感じに似た感覚。
その人柄は私の想像とほとんど寸部の違いもなく、虚飾とは無縁、思慮深く誠実でユーモアを忘れない学究の紳士が、ドイツの哲学書の中から姿を現した・・・というような風貌だった。
質素なお宅は借家で、やはりドイツ人の女性芸術家と二人で共同生活をしていた。本や書類が雑然と積まれた小さな部屋で、お茶をよばれながら過ごした幸せな数時間を忘れることはない。
してみると、博士は現在68歳ということになる。いつかはこちらにもお招きしたいとは思っているが、限られた時間との相談ということになるだろう。
(後に電話でお話しているうちに、過去の事実と私の記憶の間に多少のズレがあることが分かった。わずかなことだが訂正しておく。6/11)
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |