内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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We are the subjects of an experiment which is not a little interesting to me. Can we not do without the society of our gossips a little while under these circumstances...have our own thoughts to cheer us? Confusius says truly. "Virture does not remain as an abandoned orphan; it must of necessity have neighbors.
「だれでも、私が少なからず興味を抱いているある実験の被験者になることができる。こうした状況において、しばらくのあいだ、仲間や他人のうわさ話に興じるのを止め、自分自身の思想に興じよう、という実験である。孔子がいみじくも言っているではないか。「徳は孤ならず。必ず隣あり(孤独の徳を備えた人間は孤立することはない、必ず理解者や道を共にする者が現れる)と。」 実際、ソローは決して頑固な人間嫌いなどではなく、彼の掘っ立て小屋には、時に数十人の訪問客があった。また、『市民的不服従』の思想は、ガンジーのインド独立運動やキング牧師の市民権運動に影響を与え、『森の生活』は後に生まれる多くのナチュラリストを啓発した。私もその一人かもしれない。
ソローの『森の生活』を読み返していたら、いくらか唐突に論語の一節が出てきた。19世紀の彼が紀元前の人物の言行録を読んでいたとしても何も不思議なことではないが、その自然観が中国古典思想(東洋思想)にも深く影響を受けていたことをうかがわせるに充分で面白いと思った。彼は孔子の論語のみならず、老子も荘子も読み込んでいたに違いない。
論語にも老子にも荘子にも、キリスト教的「神」などは登場しない。私のいいかげんな理解によれば、老荘の中心概念は「天」と「道」であり、今流に解釈すれば、「天」は「大自然」、「道」は「大自然の根本法則」と言いかえて大きな支障を生じない。
だた、論語の中心には「仁」という、人と人との間を律する社会的な概念、つまり道徳律がデンと座っている。「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず(人格者は周囲の人々と調和はするが、自己の独立を失って付和雷同することはない。未熟者はその逆である。)」などは、私の座右の銘の一つになって久しい。
私は初めてこの一文に触れたとき、昔の中国には見事なことを見事に表現する人物がいたものだ・・・と感動したのだが、たぶんソローもこの一節を目にして大きく頷(うな)づいたに違いない。生まれも育ちも、元より個性も異とする人と人とが、ほんとうに気持ち良く調和して付き合うこと自体が容易なことではない上に、「同じない」ためには、屹立(きつりつ)した個人としての自覚、つまり近代西洋の個人主義の精髄とでもいうべきものが必須となるからである。
ついでに、多くの現代人の共通する悩みである「人間関係」について、荘子には「君子の交わりは淡きこと水の若(ごと)く、小人の交(まじ)わりは甘きこと醴(れい・甘酒)の若し。君子は淡くして以て親しみ、小人は甘くして以て絶つ。彼の故(ゆえ)無くして以て合う者は、則(すなわ)ち故無くして以て離る。」と説く。
つまり、「君子の交わりは淡くて水のようであり、小人の交わりは甘くて甘酒のようなものだ。君子の交わりは淡いので親しみ、小人の交わりは甘いので絶えてしまう。理由がなくて結びつく者は、理由がなく離れてしまうのだ」・・・と子桑戸が孔子に説く場面が出てきて、これも面白いと思う。
"There can be no very black melancholy to him who lives in the midst of Nature and has his senses still. There was never yet such a storm but it was AEolian music to a healthy and innocent ear. Nothing can rightly compel a simple and brave man to a vulgar sadness. While I enjoy the friendship of the seasons I trust that nothing can make life a burden to me."
「自然」のまっただ中で暮らし、自己の感覚器官を静かに保った人間は、ひどい憂鬱症に陥ることなどあり得ない。本来、健康で純粋な耳には、どんな嵐も風の神に創られた音楽としか聞こえなかったのだ。単純で勇気ある人間は、つまらぬ悲哀に陥ったりはしない。私が四季との友人関係を楽しんでいるかぎり、何が起こっても、それが私の人生の重荷になるということはないと思う。
辞書的に「自然」とは「山、川、海、草木、動物、雨、風など、人の作為によらずに存在するものや現象であり、すこしも人為の加わらないこと」とあり、わたし的には自然科学的な「宇宙」や仏教用語の「一切法界」「三千大千世界」などの概念にまで至る。
だから、私が「自然」とか「大自然」という言葉を使うとき、人間や社会や国家や文明などと対比させることが多いにしても、これらは本来、対立関係ではなく包摂関係にある。つまり自然世界の中に人間世界があるのであって、その逆ではない。どんなに文明が発達して人類の活動範囲が広がっても、人間が作った世界が広大無辺な自然世界を超えることは決してないだろう。
そして、多くの動物たちと同様、どんな人間も親のもとに生まれ育ち、家族やより広い社会的な生物として生きることになるが、同時に常に自然的な存在であることから離れることはない。
今、多くの人工製品が並んだ部屋の一隅で、典型的な文明の利器に向かいながらこれを書いているのだが、この部屋の中にも外にも、ほとんど億年の昔からその成分を変えない空気という自然がある。窓の外には夜空の大気の流れがあり、その上空には無数の星がまたたいているだろう。
にもかかわらず、ある程度意識して、人間が作り出したもろもろの事物から距離を置くことなしに、その偉大なこと驚異的としか言いようがない自然世界を感じ取ることは容易ではない・・・という事実は悲しい現実である。
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今日の粟井は春らしい実に爽やかな南西風。潮時も良く、15㎡でジャスト。初心に帰ったような気分で風と波の動きを味わう。
I love to be alone. I never found the companion that was so companionable as solitude.
-Henry David Thoreau
私は一人でいることを好む。孤独ほど気の合う仲間を持ったことがない。
- ヘンリー・デビッド・ソロー
ソローが19世紀の中頃、アメリカ東部のコンコードの森で一人2年4ヶ月を過ごしながら書いた、あの名著"Walden:or, the Life in the Wood"『森の生活』には、他にも味わい深い洞察がワンサカ出てくる。
これは『孤独』の章の一文で、この前後を飯田実の翻訳から引用すると、「私は、大部分の時間をひとり過ごすのが健康的だと思っている。相手がいくら立派でも、人と付き合えばすぐに退屈するし、疲れてしまうものだ。私はひとりでいることが好きだ。孤独ほど付き合いやすい友達に出会ったためしがない。われわれは自分の部屋にひき篭もっているときよりも、外で人に立ちまじっているときのほうが、たいていはずっと孤独である」・・・となる。
たぶん生来的に大勢で群れることが苦手な私も、彼の洞察に深く共感する。だだ一人で心静かに向き合うことなくして、大自然がその深奥の秘密を現すことはまずない。
そして、その神秘の片鱗に少しでも触れた者は、人間社会のあちこちで避けることができない大小の集団の喧騒がたいてい陳腐なものであり、本来の自分の本来の幸福にとってほとんど意味を持たないものであるということに気が付く。
すぐれた登山家が単独で山に登り、海をよく知るヨット乗りが一人で大海原に出かける動機の一つもこの辺りにあるのかもしれない。
私は森の中で暮らしたことはないが、これまでの限られた自然界との付き合いの中で、そのような経験が何度かあった。そして、その一種不思議な感覚体験は、その後の自分の生き方を深い部分で方向付けているように思う。
また気が向いたときに書く。
Man is wise and constantly in quest of more wisdom; but the ultimate wisdom, which deals with beginnings, remains locked in a seed. There it lies, the simplest fact of the universe and at the same time the one which calls forth faith rather than reason.
- Hal Borland
人間は賢明だから絶えずより多くの智恵を求める。しかし、ものごとの原初を扱う究極の智恵は一粒の種の中に封じ込められている。まさにそこに、大宇宙の最も単純な事実であると同時に、理性よりもむしろ信仰を引き出す事実が存在している。
- ハル・ボーランド
There are no limits to either time or distance, except as man himself may make them. I have but to touch the wind to know these things.
- Hal Borland
人間が自分自身で作り出さない限り、時間にも距離にも限界というものはない。これらの事実を知るのに、私は風に触れさえすれば良いのだ。
- ハル・ボーランド
こんな刺激的な文句に出合ったら、作者の本を一冊くらい読んでみないわけにはいかない。もう何年前になるだろう・・・ボーランドのベストセラーである“Beyond Your Doorstep"(『戸口の向こうに』とでもしておこう)をアマゾンUSの古本屋から取り寄せた。注文記録を見てみると価格85セントとなっている。もっとも、手数料+送料が9.79ドル。ちょっと割に合わないなぁとも思うが、これは仕方がない。
1971年発行のペーパーバックなのでページは相当に黄ばんでいる。表紙を開けたら裏に「スーザン・ベックへ、愛をこめて・・・トディーおばちゃん。1971年」と赤ペンで書き込みがあり、ページの途中には森の匂いがしてきそうななカエデの葉が挟んであった。前の持ち主がスーザンなら、彼女は相当な読書家だったらしく、裏表紙には図書館の2週間分の借り出し予定表と、返却遅延料5セント/週のメモもある。
ネット上の古本屋が充実するにつれて、私が購入する書籍も古本の割合が徐々に増えてきたのだが、こういう書き込みや余白のメモ、場合によってはアンダーラインなどに出会うのも一つの楽しみなのだ。これから多少とも関わろうとしている世界を、すでに関わった人がどのように扱っていたかを知ることは、本との出会いの二重の喜びとなりうるのである。
パラパラとめくって目に飛び込んできたボーランドの言葉をもう少し。
If there is any outstanding lesson to be learned in the country it is that patience is a virture. Nature seldom hurries.
田舎で学ばれる顕著な教訓があるとすれば、それは‘忍耐は美徳である’ということだ。自然はめったに急がない。
事物の光の中に出て来て、自然を君の先生にしなさい。
-ウィリアム・ワーズワース
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