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寛太郎のカイト日誌

内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置

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カテゴリー「自然」の記事一覧

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フランクリンのカイト

今夜もいくらか頭が熱いが、またどうでもいいような思い付きをちょこっと・・・。

昨日は、フランクリンがカミナリから電気を採取するために凧を使ったということを書いた。これはアメリカで育った人間なら、たぶん誰でも知っている小学校の教科書にも出てくるような話で、彼が残した『ベンジャミン・フランクリンの自伝』は、彼の地では聖書の次に愛読者の多い本かもしれない。もちろん、この本の著作権は、はるか昔に切れているので、今は全くの無料で原作を読むことができる。奇跡のシステム・インターネットのおかげだ。

日本語訳は、いつかどこかで読んだような気もするが、カミナリ実験のくだり以外はほとんど覚えがないので、早速、キンドル用に一冊と関連サイトから落としたPDFに目を通すことにした。そしたらなんと、目次の何行目かに「エレクトリック・カイト」なる項目があるではないか。そのまま訳せば「電気凧」・・・なんと魅惑的な響きだろう・・・太陽電池で飛行機が飛ぶ時代だ、電気で動くカイトがあったら、どんなことになるのか・・・。

もちろん彼のカイトは電気で飛び回ることはないのだが、その命名の仕方自体が楽しいではないか。この部分をサラッと読むと、「十字に組んだ木枠に絹の布を張って、接続した麻ひもは水で充分濡らし、操作する人は家屋や物陰に隠れ、ゴムの手袋をして・・・・」などと目に浮かぶような説明が続く。何かの足しになるかもしれないから、ちょっと部分訳してUPしようかとも思ったが、アマゾン書店で探せば、翻訳本がたぶん古本1円くらいで出ているだろうから、その必要もあるまい。

他にも、彼の自伝には「フランクリンの十三徳」という人生訓みたいなものがあって、今でも多くの成功者の心得として広く読まれているらしい。これについても思い付いたことがあるので、またいつか書く。
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カミナリ

昨日は深夜に梅雨明け時を思わせる雷が響き、青白い閃光が南の窓を何度も照らした。近くの雷雲はヘソが飛び出すくらい怖いが、遠くの雷は台風に似て心を躍らせるものがある。このカミナリ見物のおかげで昨夜は2時まで寝れなかった。

私が雷の魅力に目覚めたのは、学生時代の初年に埼玉・上福岡で下宿生活を始めた夏のことで、雷の名所とされる宇都宮が近いということもあったのだろう、梅雨明けが近づく7月になると、愛媛の田舎では見たこともないような激しいのが、そこら中に落ちるのである。その雷鳴と雷光の壮大なこと・・・やはり二階の、南に窓が開けた6畳間から、圧倒的な大自然の驚異とでもいうべきものを、飽きることなく眺めていたのを懐かしく思い出す。

雷といえば、18世紀アメリカの偉人、ベンジャミン・フランクリンを忘れてはいけない。彼は実に多才な人物だったが、「落雷は罪を犯した人間に対する神の天罰である」という、当時キリスト教的世界の常識をものともせず、大嵐の日に麻紐で揚げたカイトを使って、雷の本体は電気であるということを実験証明した。Usdollar100fronts1024pix100kb.jpg

彼が単なる奇人変人の類でないことはその事跡を見れば明らかで、その行為がどれだけ危険で、周到な準備と勇気を要するものであったかは想像に余りある。私の興味は、彼が数億ボルト、数万アンペアの一撃に対峙した、ということだけではない。当時の常識、つまり現在では想像もできないくらい大きかった教会の権威や、それに追従する大多数の人々の批難や圧力に、あくまで合理的・科学的姿勢で対峙したということである。

私の知るところ、全て人類の歴史の進展は、こういう奇抜な人物の辛苦を伴う「非常識」から始まり、それがやがて当たり前の「常識」となって世界を満たすようになる。これが、多勢よりも無勢、強者よりも弱者、集団よりも個人に敬意を払うべき所以(ゆえん)である。

・久々の別府は実に爽快な初夏の西風、19㎡、53km

粟井(砂浜の匂い)

海岸線には事欠かないこの地方でも、風の本流が南になると楽しく走れる場所は限られてくる。この粟井海岸などはその一つで、正確な潮読みは必須だが、松山平野で一度持ち上がった風が海面を這うように吹き抜け、順潮は複雑な波を生むと同時に、オフショア気味になる岸よりの海面にはフラットな部分も出来る。

この浜は昔から、たいがい人影まばらで砂浜も美しい。砂浜・・というよりも砂粒が・・・と言った方が良いかもしれない。私のカイト・ランチには海岸の砂が欠かせない。毎回、何kgかの砂をウィングチップに乗せて重りにするわけだが、その際にその砂粒が風に舞って、その浜独特の匂いを感じることがある。美しい砂浜は無臭か、ほのかな磯の香り。しかし浜によってはトブ水のような異臭がしてムッとする場合もある。

日本の生産活動がまだ控えめだった1960年代までは、あらゆる砂浜は自然に近い美しさを保っていた。70年代になって多量のゴミが漂着するようになっても、まだ砂浜自体が異臭を放つほど汚染されてはいなかった。80年代後半になってやっと、エコロジーや自然保護運動の普及と共に海岸のゴミは少なくなって来たように思うが、それでも尚、目を覆いたくなるほど痛めつけられた浜が数多くある。

ことの本質・・・つまり自然界における人間中心主義、ものを際限なく消費し金を得て善しとする商業主義などを改めない限り、海岸のみならずマザーネイチャー(母なる大自然)は荒廃の一途をたどることになるだろう。そして、本来大自然の小さな一部である人間という生き物の心身も、歩みを同じくして更に荒廃するだろう。よほど注意深く事実を見極める力を持たない限り・・・。

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プロフィール

HN:
寛太郎
性別:
男性
職業:
self-employed
趣味:
風読み・読書・自転車ほか多数
自己紹介:
瀬戸内の小島生まれです。学生時代は国際法を少し。数年間の堅い団体職の後、子供好きが高じて学習塾を、風が好きでスカイスポーツのイントラを、等と趣味と仕事が重なる生活を数十年経験しました。55歳引退計画に従って現在は基本的にフリーですが、相変わらずあれこれ忙しくしています。

生活方針は「無理をしないでゆっくりと」およそ中庸を好みます。東西を問わず古典思想の多くに心惹かれます。まずは価値相対主義を採用し事物の多様性を愛しますが、ミソとクソを同等にはしません。モノゴトには自ずと高低浅深があり、その判断基準は「大自然の摂理と全ての生命(いのち)の幸福」の中にあると思います。敬愛する人物は古今東西少なからず、良寛やB・ラッセルを含みます。

ナチュラリストと呼ばれることを好みますが、人間が創り出した道具類にも大きな関心を持ちます。人間語だけでなく、あらゆる生き物たちの「ことば」に興味が尽きることはありません。60~70年代ポップスや落語を聞いたりすることも好きです。

・著作:『空を飛ぶ・一つの方法』
・訳書:『リリエンタール最後の飛行』
・訳書:『個人と権威』

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