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寛太郎のカイト日誌

内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置

   
カテゴリー「放言」の記事一覧

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反省と後悔

たいがいにおいて、不完全な人間という動物は、さまざまな局面で失敗をする。失敗を繰り返すことによって、経験を重ね、経験の蓄積が、成長の土台になる。だから、失敗は「成功の元」になるだけでなく「成長の元」になることも明らかな事実だ。

ただ、気を付けるべきは、多くの場合、失敗には後悔の念が伴うということだ。「ああすればよかった、こうすればよかった」の類である。このマイナス感情に捕らわれると、「失敗が失敗の元になる」ことも多い。

過去は過ぎ去ったものであるから、元にはもどることはない。しかし、普遍のものでもない。過去の事実は変えようがないが、過去の事実に対する評価や意味づけ・・・言い換えれば「過去の見え方感じ方」は、現在の自分の変化によって如何様にも変化する。

だから、通常は苦しみを伴う「後悔」という人間的行為に、ほとんど意味はない。無駄な苦悩と言い切って良いだろう。

そして、過去を振り返ることに積極的な意味があるとすれば、その事実と評価の中に、適当な反省材料を見出しながら改善や改良を加え、未来に向かって、より良く幸せな自分や環境を作り出していくということであろう。
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中庸の処世

親切も あまりに過ぎると 仇を呼ぶ 過不足なきが 自然の営み
しんせつも あまりにすぎると あだをよぶ かぶそくなきが しぜんのいとなみ
 
TOO MUCH KINDNESS RESULTS IN ILL WILL 'CAUSE GOLDEN MEANS IS THE NATURE'S WAY

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優柔不断

優しく柔らかいことはたいがい善いことだが、不断(断ぜず)であることはそうではない。

誰が何と言おうとも、時と場所を踏まえた上で、一定の確信に基づく断じた言動をとることは、

自立を志向する個人にとって不可欠の要件である。

 

酔人の言い訳

昨日のブログを読み返していたら、まあ、幾つになっても跳び上がるのが好きな酔人らしく、論理の跳躍(ちょうやく)が多いこと・・・何ヶ所か手を入れてはみたけれど・・・およそヨッパライいが、ちと堅いことを書こうとすると、こういう分かりづらいヘンテコ文章になるという、良い見本みたいなものであります。

大体のはなし、難解なお話しや文章ができあがる理由は、当の本人が言いたいことを良く理解してないからで、政治屋の「遺憾に思います」とか役人どもの「善処します」とかほどタチが悪くはないにしても、その責任は、どんなに贔屓目(ひいきめ)に見積もっても、九割がたは話し手や書き手にあるのであります。

しかし、今日は梅雨空、風の神も静かで、若干眠たいものの、寝ない限りはヒマであり、ヒマなことはじつに良いことであります。「何もしないことはまったく良い!」ドリトル先生の声が聞こえてきそうであります。

「そんなこと言いながらオマエ、また変な駄文を書こうとしているではないか、ヒマが好きなら少しはじっとしとらんか!」今度はマンボー先生の声が聞こえそうであります。

運悪くこんな記事が目に留まった方々には、お気の毒としか言いようがないけれども、まあこれも何かの縁とご容赦いただいて、先を続けることに致しましょう。

自由について

自由は、他者からの支配を去ることだけではない。自ら自らを支配するところ、つまり、自己制御(セルフコントロール)にある。そして、自由の達人は、その「自己制御」を無意識のうちに行う。

海を行く魚も、空を飛ぶ鳥も、陸に生きる自然界の動物たちも皆、この自己制御の達人であり、従って自由の達人であろう。

人間が本能的に自由を希求(ききゅう)する理由は、人間社会の歴史を通して堆積されてきた、さまざまな慣習や制度の芥(あくた)を剥ぎ取って、自然的人間本来の姿を取り戻そうという衝動にあるにちがいない。

危険について

人は道具を創り使う動物である。この世界に存在するどんな道具も、その「使い方」次第で利器にも凶器にも成り得る。

だから、たとえば、「カイトサーフィンは危険なスポーツです」と一般的に語ることは、「自転車に乗ることは危険です」とか「ナイフやフォークや箸で食事をするのは危険な行為です」・・・というのと同じくらい、明らかな間違いである。「カイトサーフィンは安全なスポーツです」というのも同様。

道具を使うすべての運動形態は人間道具と環境の三つの要素で決定され、中で最も重きが人間であることは言うまでもない。

酔人戯言

本日からカテゴリーに「酔人戯言(すいじんけごん)」を加える。酔人(すいじん)は中江兆民の『三酔人・・・』から拝借したが、南海先生ほどまとまった話を語るわけではない。単なる酔っ払いの脳裏を時に横切る想念の一端を、なるべく簡潔に書き留めておこうという程度の思い付きだ。

しかし、我々の人間世界では素面(しらふ)が大ウソを語り、酔っ払いが真実を披露することもある。そして、私は誤謬(ごびゅう)や虚偽(きょぎ)を大声で並べながら恥ない素面より、言葉少なく静かに事実・真実をつぶやく控えめな酔人を好む。

戯言(けごん)は、古くは「たは(わ)こと」などと言い、戯(たわ)は「たわける(戯)」「たわし(戯)」「たわぶれる(戯)」などの「たわ」で、常識はずれの行為や状態を意味する。およそ奇人変人の類が発する言葉と理解されてよい。

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プロフィール

HN:
寛太郎
性別:
男性
職業:
self-employed
趣味:
風読み・読書・自転車ほか多数
自己紹介:
瀬戸内の小島生まれです。学生時代は国際法を少し。数年間の堅い団体職の後、子供好きが高じて学習塾を、風が好きでスカイスポーツのイントラを、等と趣味と仕事が重なる生活を数十年経験しました。55歳引退計画に従って現在は基本的にフリーですが、相変わらずあれこれ忙しくしています。

生活方針は「無理をしないでゆっくりと」およそ中庸を好みます。東西を問わず古典思想の多くに心惹かれます。まずは価値相対主義を採用し事物の多様性を愛しますが、ミソとクソを同等にはしません。モノゴトには自ずと高低浅深があり、その判断基準は「大自然の摂理と全ての生命(いのち)の幸福」の中にあると思います。敬愛する人物は古今東西少なからず、良寛やB・ラッセルを含みます。

ナチュラリストと呼ばれることを好みますが、人間が創り出した道具類にも大きな関心を持ちます。人間語だけでなく、あらゆる生き物たちの「ことば」に興味が尽きることはありません。60~70年代ポップスや落語を聞いたりすることも好きです。

・著作:『空を飛ぶ・一つの方法』
・訳書:『リリエンタール最後の飛行』
・訳書:『個人と権威』

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