内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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昨日のブログを読み返していたら、まあ、幾つになっても跳び上がるのが好きな酔人らしく、論理の跳躍(ちょうやく)が多いこと・・・何ヶ所か手を入れてはみたけれど・・・およそヨッパライいが、ちと堅いことを書こうとすると、こういう分かりづらいヘンテコ文章になるという、良い見本みたいなものであります。
大体のはなし、難解なお話しや文章ができあがる理由は、当の本人が言いたいことを良く理解してないからで、政治屋の「遺憾に思います」とか役人どもの「善処します」とかほどタチが悪くはないにしても、その責任は、どんなに贔屓目(ひいきめ)に見積もっても、九割がたは話し手や書き手にあるのであります。
しかし、今日は梅雨空、風の神も静かで、若干眠たいものの、寝ない限りはヒマであり、ヒマなことはじつに良いことであります。「何もしないことはまったく良い!」ドリトル先生の声が聞こえてきそうであります。
「そんなこと言いながらオマエ、また変な駄文を書こうとしているではないか、ヒマが好きなら少しはじっとしとらんか!」今度はマンボー先生の声が聞こえそうであります。
運悪くこんな記事が目に留まった方々には、お気の毒としか言いようがないけれども、まあこれも何かの縁とご容赦いただいて、先を続けることに致しましょう。
自由は、他者からの支配を去ることだけではない。自ら自らを支配するところ、つまり、自己制御(セルフコントロール)にある。そして、自由の達人は、その「自己制御」を無意識のうちに行う。
海を行く魚も、空を飛ぶ鳥も、陸に生きる自然界の動物たちも皆、この自己制御の達人であり、従って自由の達人であろう。
人間が本能的に自由を希求(ききゅう)する理由は、人間社会の歴史を通して堆積されてきた、さまざまな慣習や制度の芥(あくた)を剥ぎ取って、自然的人間本来の姿を取り戻そうという衝動にあるにちがいない。
本日からカテゴリーに「酔人戯言(すいじんけごん)」を加える。酔人(すいじん)は中江兆民の『三酔人・・・』から拝借したが、南海先生ほどまとまった話を語るわけではない。単なる酔っ払いの脳裏を時に横切る想念の一端を、なるべく簡潔に書き留めておこうという程度の思い付きだ。
しかし、我々の人間世界では素面(しらふ)が大ウソを語り、酔っ払いが真実を披露することもある。そして、私は誤謬(ごびゅう)や虚偽(きょぎ)を大声で並べながら恥ない素面より、言葉少なく静かに事実・真実をつぶやく控えめな酔人を好む。
戯言(けごん)は、古くは「たは(わ)こと」などと言い、戯(たわ)は「たわける(戯)」「たわし(戯)」「たわぶれる(戯)」などの「たわ」で、常識はずれの行為や状態を意味する。およそ奇人変人の類が発する言葉と理解されてよい。
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