内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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ずっとインドア志向の青年だったS君が、海の広大な優しさや、風の力用《りきゆう》に目覚めて2ヶ月が経過しようとしている。カイトの練習もすでに15回を超えて、機材の取り扱いにもだいぶ慣れてきたようだ。優しい風の晴天日には、一人でイソイソと近くの浜まで出かけるようになった。もうじき板を履いて、海上でそれなりの走りをするようになるだろう。
もちろん海の上を走るだけがカイトの世界ではない。空の世界に習って私が「グラハン」と呼ぶ地上練習は、地上や雪上で行うランド・カイトの類と考えていいだろう。これはこれで、充分に楽しく奥も深いことは、これまでの練習生や彼の様子を見ていると良く分かるし、私自身も日常的に味わっていることだ。
頭上10mほどの風をとらえたカイトウィングは、上下左右、極めて広い範囲で運動しながら大小のエネルギーを様々な方向に向けて発生する。
そして、その豊かなエネルギーは、ハーネスの中心フックを通して、ほぼ人の重心にあるヘソ近辺に集まることで、ひとたび体内に取り込まれ、グラハンなら脚に伝わって、サンド・スライディングやちょとしたジャンプに姿を変える。
そのまま海に入れば、サーフィンの一類にボディー・サーフィンがあるように、ボディー・ドラッグという一つのスポーツや遊びになり、板(ボード)を履けば、なじみのカイトサーフィンになる・・・等ということだけのことである。
これも空気の動き、つまり風を利用するナチュラル・スポーツの仲間であることは間違いないが、カイトスポーツが他の多くの風読みスポーツと大きく異なるところは、とりあえず思いつくだけでも、次の三点ほどあるように思う。
①その動力源が、作用部分(身体)からはるか20mも離れたところにあり、しかも、大きく三次元空間で動き回るということ。
②その動き方によって多様に変化する動力の作用点が、身体の一点に集中すること。
③その動力が、身に付けた道具(カイトボードやスノーボードやスキーなど)に直接伝わらないということ。
これら極めて大きな自由度を含む特性が、具体的にどういう影響を人間の身体や心に与えことになるか・・・最近の私の関心は、この辺りにあって、その視程は、風の本体である空気の性質や、空気の動きを生み出す地球の動きから、それを大きく包み込む大宇宙の世界にまで及ぼうとしている。これはコトの必然の流れだと思う。
アイルランド僻地の一軒屋や小さなヨットの中で風に吹かれながら、あの大作『風の博物誌』を書いたライアル・ワトソンは、風を、その常識的定義である「空気の運動」に止まることなく、「風とは生命である」と見極めた上で、彼にとって可能な限りの、実に多岐にして広範な科学的解説を試みた。そして、それで充分だとは、もちろん思っていなかったにちがいない。変転、代謝して止まない生命活動の全体像を、合理的に分析し法則化し完全に再現することなど、到底不可能なことだからである。
しかし現実に、そこに風は存在し、その本質は生命に似て、人間の生命の内側に吹き込みながら、活力や喜びや勇気を与え続ける。やはり、私の風の世界に対するアプローチの方法は、論理と直感、形而下と形而上の領域の交わるところ辺りにあるのかもしれない。
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