今日から12月です。朝の室温もだんだん下がってきました。私の定義では、机上の温度計が10度を切ると
冬が来たということになり、ストーブかコタツの出番になります。
コタツというと、こないだリビングにダイニング・コタツというのを入れたら、これがすこぶる快適なので、不要になった食卓に不要になった昔のコタツのヒーターを取り付けて、事務所の机も事務用コタツに改造してしまいました。
もちろん格段に快適になったのは言うまでもありません。しかし、我が日本の誇るべきコタツ文化の効用の一つは、座ったら動きたくなくなり、そのうち眠たくなる・・・ということです。「お尻に根が生える」と言いますが、まったく椅子に根が生えたように動けなくなってしまいました^^;・・・まあこれで、腰を据えてデスクワークに取り組めるのなら、大いに善しとしましょう。
さて、年末になるといつも想うのは一年間の出来事。今年は近年になく大きな年になったのかもしれません。楽しいことや悲しいこと・・・いろんなことがあったけれども、ともかく充実していました。
人間の世界では、時間の進む速さは年齢とともに加速すると言いますが、長いこと自然やその中で生きる生き物たちと付き合っていると、「
時間の相対性」をある程度明確に感じるようになります。木々には木々の、鳥には鳥の、犬猫には彼ら独自の時間が流れている。
人の寿命を100年とすると、たとえば、1000年生きる大木は人間の10倍ゆっくりと、10年が寿命の動物はおよそ10倍速く進む時間の中で生きている。多くの鳥たちの寿命は10年に満たないと言われていますから、彼らは1日で私たちの10日分以上の経験を積んでいるということになります。
生きる速度の相対化は、必然的に生物の世界における人間存在自体の相対化、つまり、「人間も、一生物種として特別な存在などではない」・・・という世界観を導くことにもなるでしょう。こういう見方は、仏典に「一切衆生・悉有仏性(しつうぶっしょう」などともあるように、特に東洋では太古から存在する生きた世界観・宇宙観でした。
日本において、人間が他の生き物たちと分離され特別扱いされ始めたのは、主に近代以降、西欧のキリスト教文明が支配的になってからだと思います。彼(か)の教えでは、神と人間、人間と他の生物は峻別され、峻別されるがゆえに支配・被支配の関係が許されることになるのでしょう。
これ以上書くと、文明論・国家論などという大きな話になりそうなので、今日はこの辺でおしまい・・・これも快適な事務用コタツのなせる技です^^。
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