内容はカイトに限らず種種雑多です。好みの選択は「カテゴリー」をご利用下さい。日本語訳は全て寛太郎の拙訳。 2010年10月18日設置
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世界の中で、ほとんど消えるほど小さい意識、個人の意識が、全世界に意味を与える。だから、一人の男に何ができるでしょうか、どうせロクなことはできないと言う(人がいる)けど、そうではない。それは全世界に意味を与えることができるんだ。
‐ 加藤周一 (最晩年の言葉)
「加藤周一に初めて出合ったのは、高校2年の現代国語の教科書の中の『雑種文化』の抜粋だった。その数ページを夢中で読むうちに、乱雑な頭の中がきれいに整理さていくような気がした。彼の文章には独特のリズムがあり、混沌から秩序を生み出すような力がある。曖昧で不安定な周囲の世界がクッキリと輪郭をそなえて、自分の手で確かに掴み取ることができるようなものに変わっていくのだ。
私はすぐに街の本屋に出かけて彼の本を探し、その半生を描いた自伝『羊の歌』を見つけた。岩波新書のこの二冊本ほど、私の青春前期のものの考え方に影響を与えた書物はない。何回も繰り返して読むうちに、その文章は私の頭の中でリズムを伴いながら反響するようになり、私は彼の言葉で考えるようになっていた。
「一日一冊読書」などという無茶な課題を自分に課したのも彼の影響で、今に続く乱読癖はこのあたりに源がある。そして、学年が変わって新しい教科書をもらったら、ほとんどその日のうちに通読して、その中の気に入った筆者の本を、街の本屋や図書館で探し出して読むことを常とするようになった。この方法は英語の学習にも応用されることになる。
加藤が『羊の歌』を書いたのは40歳代後半である。自己の人生を少し腰をすえて振り返ろうなどという気になるには、それなりに大きな契機が必要だろう。大正8年生まれの彼が40代といえば1960年代ということになるが、彼の中で何があったかつぶさには分からない。ただ、私が青春未満、60年安保の空気が残るこの頃は現在と比べて、学生のみならず日本社会全体に自由を求める活力が溢れていたことは確かだ。
1919年の羊年生まれというと、ちょうど私の父と同年で、父はかなり動作が緩慢になってきてはいるが90歳を目前にしてそれなりに元気だ。彼は16歳で海軍に志願して、中国戦線から終戦までの10年間を軍人として生きた。何度かの海戦で船を沈められながら生き残ったのは運が良かったからだろう。いつだったか、天皇の戦争責任について聞いてみたら、「もちろん有るに決まっている!」と即答した。しかし、彼の世界観が日本という国家を超えることはない。
加藤は数年前に「9条の会」の発起人の一人となって戦後リベラリズムの灯をともし続けている。ともかく共にお元気で、なるべく永く生きてくれることを願う。」
何年か前にこんなことを書いた。そして、加藤は2008年の冬に89歳で、父は昨年2010年の夏に90歳で逝った。二人は同じ年に生まれ同じ時代を生き、それぞれの“小さな意識で全世界に意味を与えた”。それは多くの点で対照を成すように見える。その対照世界にどのような意味を与えるかは、これからの私の“ほとんど消えるほど小さい意識”の問題になるだろう。
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